大学の試験は、高校までと違って多種多様だ。レポートを提出する講義もあれば、ノートやレジュメの持ち込みが許可されている試験もある。毎年同じ問題が出る場合もあれば、明らかに単位を与える気のない難易度の時もあるので、それぞれ対策をするのに一苦労だ。

去年、間崎教授の講義はテスト形式だったけれど、今年わたしが受講している「国文学」の講義はレポートだった。「文学作品を一つ取り上げ、後世にどのように受容されたか述べよ」というのがテーマである。これがなかなかやっかいだった。教授は誰にでも単位を与えるがゆえ神と崇められているのだけれど、「優」を与えることはほとんどない。しかしわたしは教授に「優」を取れるよう頑張れ、とプレッシャーをかけられているのである。その上、文字数が4000字と結構な量だ。講義で取り扱った内容だけでは到底埋められない。源氏物語や枕草子、蜻蛉日記など、興味がある文学作品はたくさんあるけれど、去年教授の講義でも取り扱った伊勢物語について書くことにした。

――伊勢物語は「在五が物語」、「在五中将物語」、「在五中将の日記」とも呼ばれる、多くの人々の手によって作られた歌物語である。主人公のモデルとされる在原業平は、六歌仙・三十六歌仙のひとりである優れた歌人であり、その歌は発想の奇抜さから、「心あまりて言葉足らず」と評される……。

書けども書けども、4000字にはほど遠い。「単位がもらえるから楽だ」なんて言う人もいたけれど、わたしにとっては、教授のレポートが1番大変なものとなった。





地獄の試験期間を乗り切ると、カレンダーはもう8月、長い夏休みの始まりだ。去年は京都の暑さから逃れるように慌てて帰省したけれど、今年は違う。送り火が終わるまでは京都で過ごすことにしているのだ。かといって、講義もなければサークル活動もない。写真を撮りに出かけようにも、最近では36度を超える猛暑日が続いているので、長時間撮り歩くのは少々しんどい。となると、出かける場所はおのずと限られてくる。

「試験どうだった?」

「ぼちぼち。みっちゃんは?」

「聞かないで」

試験を終えたわたしとみっちゃんは、出町柳にあるさるぅ屋でランチを楽しんでいた。分厚いハンバーガーがおいしいので、日頃から好んで通っている。バンズのカリカリ感、そしてアボカドとチーズの相性が最高だ。かなり分厚いので、大きな口を開けないと食べられない。

「試験中に祗園祭なんて行かなきゃよかった。祗園祭行ってる場合じゃなかった」

「大丈夫だよ、きっとなんとかなってる。とりあえず、おつかれ」

外は白い太陽光に照らされ、夏の暑さを強調していた。店内はクーラーがかかっているからすずしいけれど、外を歩く人たちはみんな暑さに顔を歪ませている。去年で身に沁みているが、やはり京都の夏はレベルが違う。スーパーに買い物に行くだけでも汗だくになるし、会話をさえぎるほどの蝉の鳴き声はもはやBGMと化している。やはり、夏はクーラーのきいた室内にいるに限る。

「あっ、そういえば琴子はまだ帰省しないんだよね?」

「うん、そう」

「あたしもしばらくこっちいるしさ、京の七夕に行かない?」

「京の七夕?」

わたしはハンバーガーを口に運ぶのを中断して首を傾げた。

「七夕って7月じゃないの?」

「旧暦だと8月らしいよ。『京の七夕』っていうライトアップイベントで、鴨川とか、梅小路とか、いろんな場所でやるんだ」

「へぇ、楽しそう。行ってみたい」

「せっかくなら浴衣着ていこうよ。この間、お母さんから送られてきたって言ってなかった?」

「確かに浴衣はあるけど……歩きづらいし、カメラ持っていきたいしなぁ」

鞍馬寺に行ったあと、母は大量の食料とともに浴衣を宅急便で送ってきた。試験期間が終わったとはいえ、特に出かける予定もないので、着る機会もないと思っていた。浴衣の女の子を見るとかわいいな、とは思うけれど、自分が着てみようとは思わない。

わたしの心を読んだのか、みっちゃんがあきれたように息を吐いた。

「あのさ、たまにはカメラじゃなくて自分のことを優先しなよ。バイト始めたのにメイクも全然してないしさ。もうちょっと大人になろう」

「でも、わたしメイクの仕方とか分からないし、自分じゃ浴衣も着れない……」

「あたしが全部教えてあげるから! そうだ、このあとメイク道具買いにいこっ」

「えっ、いいよぉ。わたし、バイト代は新しいカメラ買おうと思って貯めてるし……」

「そんなに高くないってば。いい? せっかく河合神社で美人祈願しても、自分で努力しなきゃ意味ないんだからね」

「えぇ……」

みっちゃんの勢いに押されて、それ以上言葉が出なかった。こうなったらもうわたしの言うことなんて聞いてはくれない。抵抗することを諦めて、わたしは大きな口を開けてハンバーガーにかじりついた。





翌日も夏を象徴するような青空が広がっていた。7月7日はいつも天気が悪いことが多いから、今年も天の川は見ることができなかった。もしも今日のような快晴だったら織姫と彦星も会えたのに、惜しいな、なんてことをぼんやり考える。

夕方、わたしのメイクと着付けをするため、みっちゃんが部屋にやってきた。白地にトンボが入っている浴衣と、髪につけた朱色の花飾りが、普段の活発なみっちゃんのイメージとは違ってどきっとした。

「化粧下地を塗ったら最後に軽く押さえてね。ファンデーションは、ほっぺたと、鼻と、おでことあごに乗せて……」

テーブルの上に置いた小さな鏡を見ながら、先日買ったメイク用品を駆使してテキパキとわたしの顔を仕上げていく。アイブロウで眉の形を整えて、ブラウンのアイシャドウとアイライナーで目元を華やかに、チークを両頬に入れて、唇にピンクのリップを塗ったら完成だ。いつもより目は大きくなったし、大人っぽくなった気がする。

「わぁ、メイクってすごいんだね」

「でしょ、薄めにするだけでも変わるでしょ」

みっちゃんはふふん、と自慢げに胸を張った。ひと息つく間もなく、鎖骨くらいまで伸びたわたしの髪を、丁寧に櫛で梳いていく。

「琴子、髪伸びたねぇ。長いのも似合うよ」

「美容院行くのがめんどくさいだけだけど……」

「いいじゃん。このまま伸ばしてみたら?」

他愛もない話をしながら、みっちゃんは慣れた手つきで髪の毛をアップにまとめていった。自分では上手に着れない浴衣も、みっちゃんの手にかかればものの数分で完了だ。

「何でこんなに慣れてるの?」

「妹がいるから。メイクとか、髪の毛とか、浴衣とか。小さい頃からよくやってあげてたんだ」

「へぇー……」

母から届いた浴衣は、白地に朝顔が散りばめられたものだった。全身鏡の前に立ってじっくりと自分の姿を見てみる。メイクをして浴衣を着たら、なんだか自分じゃないみたいだ。浴衣を着るのなんて小学生以来だから、少し照れくさい。

「メイクもヘアセットも着付けもすごい上手。河合神社での美人祈願、効力発揮してる気がする。みっちゃんが神様」

「崇めてくれ、崇めてくれ。うん、かわいいよー、琴子! いい感じ」

みっちゃんはわたしを味わうようにじっくりと眺め、満足そうにうなずいた。

「これを見る男がいないのがもったいないね」

「そんなお母さんみたいなこと言わないでよ……」

「ごめんごめん。じゃあ、行こうか」

窓の外を見ると、少しずつ日が落ちてきたようだった。わたしは少し悩んだ末、カメラを首から下げて玄関へと向かった。





京の七夕は、堀川、鴨川、梅小路など、エリアごとにさまざまなイベントや灯りを楽しむことができるそうだ。

わたしとみっちゃんは、二条城近くの堀川エリアを選んだ。見上げると、エリアの入り口にはオレンジ色の提灯がびっしりと吊られている。真ん中あたりにある大きな白い提灯には、「京の七夕」と書かれていた。そのまままっすぐ歩いていくと、短冊がぶら下がった笹が見えてきた。きらびやかな装飾が風に揺られてロマンチックだ。

「ほんとに琴子は写真がすきだね」

カメラを構えているわたしを見て、みっちゃんがあきれたように笑った。

「せっかく浴衣着てるのに、首からカメラ下げちゃってさ」

「だって、すごくきれいだから撮りたくなっちゃって」

「本当にそれだけ?」

「えっ?」

どういう意味? と尋ねたけれど、みっちゃんは微笑むだけで何も答えてはくれなかった。

メッセージが書かれた行灯のあるエリアを通り過ぎると、「ほたるの散歩道」というエリアに入った。堀川全体が青く光っている。まるでほたるが遊びにきたようだ。

「すごい、天の川みたい……」

「発光型の石が敷き詰められてあるんだって」 

みっちゃんが入り口で受け取ったパンフレットを読み上げた。石がこんなにきれいに光るなんて驚きだ。まわりの人たちも、灯りの美しさに見惚れて写真を撮っている。

「そういえばみっちゃん、彼氏は?」

浴衣や甚平を着たカップルが多いことに気づいて、ふと尋ねた。わたしはともかく、みっちゃんには付き合いたての彼氏がいる。こういうイベントは、わたしより彼氏と来た方がよかったんじゃないか。みっちゃんは入り口でもらったうちわをパタパタと仰ぎながら、

「今、喧嘩中なんだよね。しばらく口きいてない」

「へぇ、喧嘩とかするんだ」

「するよ、しょっちゅう。まぁ、すぐに仲直りするんだけどさ」

「そんなもんかぁ」

「そんなもんよ」

履き慣れていない下駄は歩くたびにコトコトと音を立てている。いつもより一歩が狭くて、なかなか前に進まない。日が落ちたとはいえまだまだ気温は高くて、額や首筋にはじんわりと汗が滲んでいた。

「琴子って、間崎教授と仲良いよね」

「えっ、ど、どうしたの、いきなり」

わたしはぎょっとしてみっちゃんを見た。

「よくキャンパスで話してるし、たまに教授室の整理整頓を手伝わされてるって言ってなかった?」

「いや、それは、仲良いとかそんなんじゃなくて、教授がわたしの写真を見たいっていうから送ったりしてるだけで」

「何慌ててるの」

みっちゃんがおかしそうにけらけらと笑った。わたしは途端に恥ずかしくなって目を逸らした。

ほたるの散歩道を過ぎると、また短冊が飾りつけられた笹が両脇に現れた。光に照らされて、黄色く輝いている。

「いいなぁ、まだ専修に分かれてもないのに教授と仲良いなんて」

「どうして?」

「だって、間崎教授って絶対単位くれるんでしょ。神じゃん、神」

「ああ、そういうことね……」

本当は天魔みたいだけどね、と心の中でつけ足した。いきなり呼び出すわ、人のことをばかにするわ、出会ってからろくなことがない。まぁ、そりゃたまには優しい時もあるけど。

「でも、なんか意外だなぁって」

「意外って、何が?」

「うーん、間崎教授って人気あるけど、わたしは全然しゃべったことないのね。まぁ、講義も取ってないし、当然なんだけど。なんていうか、近寄りがたくて……」

みっちゃんが、慎重に言葉を選んでいるのが分かった。何か、大切なことを言われているような気がした。

「だからね、琴子と話してる教授を見かけた時、びっくりしたんだ。こう言ったら誤解されるかもしれないけど、普通の人っぽくて。ああいう表情もするんだなぁって」

強い風が吹いて、七夕の笹がざぁぁ……と大きく音を立てた。

わたしの心臓が、さみしく震えた。目の前に広がる黄色い光が、何かを訴えるようにきらきらと滲んだ。このきらめきを、感動を、どうにかして伝えたくなって、この、慣れないお化粧も、歩きづらい浴衣も、なんだか急に特別なものに思えて、なぜか、鼓動が速くなった。

きれいな風景を撮りたいと思った。京の七夕、そのすべてを写真におさめたいと思った。きれいだから。特別だから。今しかないから。

――見せたい人が、いるから。

「……みっちゃん」

「ん?」

「あの、わたし」

わたしは首から下げているカメラをぎゅっと胸に抱きかかえた。心が、想いが、あまりあまって、言葉が、うまく出てこない。これが、どんな名前の感情なのか、わたしにはまだ分からない。だけどみっちゃんはすべてを見透かしたように「うん」と優しくうなずいた。

「いっぱい撮って、早く見せてあげよう」

道の両脇では、誰かの願いが書かれた笹の葉が、そよそよと風に揺られてたなびいていた。





どうしてこんなに急いでいるのか、よく分からなかった。メッセージを送ったらすぐに返事が来たから、ああ、会えるんだって、そう思ったら嬉しくて、逸る気持ちを抑えながら、待ち合わせ場所へと急いだ。やっぱり浴衣は歩きにくい。なかなか足が前に出ないし、慣れない下駄なんて履いているせいで、足の親指と人差し指の間が痛くなってきた。それでも、そんな些細な痛みは、足をとめる理由にはならない。

バスを降りて小走りに進んでいくと、百万遍の交差点に、見慣れたシルエットが見えてきた。遠くからだって、背を向けていたって、すぐに分かる。凪いだ海のような、ふしぎな空気をまとっているから。

「間崎教授!」

呼びかけると、教授はすぐに振り向いてくれた。スピードを速めて近づくと、少し驚いた様子でわたしを見ている。

「……そんなに走ったら、また転ぶよ」

しかたないなぁ、と、保護者みたいな顔で笑う。挨拶をしようとしたら、走ってきたせいで上手に呼吸ができなかった。

「あの、これ」

それでもなんとか声を絞り出し、巾着から「香りのしおり」を取り出した。「京の七夕」という文字と笹のイラストが描かれている香り袋だ。

「わたし、京の七夕に行ってきたんです。そしたら、和装の人に先着順で配っているらしくて、本や手紙の収納場所に置くのもおすすめって会場の人が言っていたから、教授、こういうのすきかなと思って……」

早口で続けるうちに、胸の内に膨らんでいた衝動が、穴のあいた風船のようにしぼんでいくのが分かった。途端に、すぐそこを走る車の音が大きくなって、現実がふっと脳内に降りてきた。

「……って、急に呼び出すほどじゃなかったですよね……」

興奮しているわたしとは反対に、目の前の人が普段と同じ体温であることに気がついた。わたしは、慌てて乱れた髪を撫でつけた。

「すいません、京の七夕がすごくきれいだったので、テンションが上がっちゃったみたいです。こんな夜に、わざわざ呼び出してしまって、ほんと、何してるんでしょう……」

言い訳を重ねていると、教授がわたしの手から香りのしおりを受け取った。

「確かに、手紙への香りづけによさそうだね。ありがたくもらっておくよ」

暗闇に浮かび上がるその口元が優しく微笑んだのを見て、ほっとした。会いにきた本当の理由に、気づかれなくて、よかった。

「当然写真も撮ったんだろう」

「もちろん! ちょっと待ってください、えっと……ほら」

わたしはカメラを操作して、先ほど撮った写真を表示した。教授がいつものように画面をのぞき込んでくる。浴衣なんて着ているからだろうか、いつもと同じ距離なのに、心臓が大きく音を立てた。

「……きれいだな」

「暗かったのでうまく撮れるかちょっと自信がなかったんですけど、結構いい感じに撮れました。またレタッチして送りますね」

「ああ」

顔を上げると、教授が写真ではなくわたしを見ている。

「何でしょう?」

「……朝顔か」

教授の視線を追いかけたら、浴衣の柄を言っているのだ、と気づいた。

「あっ、はい。母が、その、送ってくれて」

「七夕にぴったりの柄だな」

教授は優しい声でそう言ってわたしから離れた。その言葉の意味が、無知なわたしにはよく分からなかった。教えてほしいと思うのに、うまく声が出てこない。何にもうまく話せない。

心があまって、言葉が、足りない。

「もう遅いから、早くおかえり。わざわざ、ありがとう」

「……いえ、こちらこそ」

もっと何か、伝えたいことがあったはずだった。先ほど見た七夕飾りのように、何色もの思いが渦巻いているはずなのに、教授を見たら言葉なんて意味を持たないような気がした。月明かりに照らされた教授は、いつもよりずっと穏やかで、優しくて、それでいてどこか少しさみしげだったから、この人が七夕に願うとしたら、それはどんな願いなんだろう、と気になった。そしてそれを、今のわたしは決して知ることができないことに、ひどく絶望したのだった。

「おやすみ、琴子さん」

「……おやすみなさい、教授」

別れの挨拶をすると、教授はすぐに歩き出し、振り向くこともせず、暗闇の中に消えていった。足が痛いせいだろうか、わたしはなかなかその場を離れる気になれなかった。走ったせいか頬は火照って、せっかくきれいにセットしてもらった髪の毛も、少し崩れてしまっている。

空を見上げると、小さな星がいくつも輝いていた。天の川は見えないけれど、織姫と彦星は会えたのだろうか。そんなことを考えたところで、わたしに分かるはずもない。生ぬるい風が、首筋の汗を控えめに乾かしていく。

京都の夏は、蒸し暑い。