6月上旬になるとますます気温が上がり、日ごとに夏の気配が濃くなってきた。九州地方ではもう梅雨入りが宣言されていたけれど、京都ではまだかろうじて雨の気配はない。それどころか30度を超える日も増えてきて、一気に夏が来てしまったみたいだ。
京都は冬も寒いけれど、夏も相当暑い。去年、母と一緒に貴船神社に行った時も、暑さで倒れそうになったのを覚えている。あとちょっと気温が上がれば、カメラを持って1日中歩き回ることもできなくなるだろう。
そう考えると、出かけるチャンスは今しかない。梅雨が始まるその前に、どうしても行きたい場所があるのだ。去年の秋、混雑していて写真を撮るのを断念したあの場所に、今こそ行かねばなるまい。
「わぁっ、青もみじがすごくきれい!」
東福寺の臥雲橋から境内を見下ろすと、美しい緑が海のように広がっていた。
「新緑の東福寺、最高です! 臥雲橋が混んでないなんて……紅葉の時と全然違う」
「まだ参拝料すら払ってないのに、気が早いな」
背後からあきれたような声が聞こえてきた。間崎教授はわたしの隣にやってくると、眼下に広がる深い緑を柔和な表情で眺め始めた。喜んでいるのはお互い様だ。
東福寺は紅葉の名所として人気が高く、秋には国内外から数多くの観光客が訪れる場所だ。去年の秋、わたしたちもその美しさを一目見ようと訪れたのだけれど、予想以上に混雑していたので泣く泣く断念したのだった。その時から、青もみじの季節には必ず来ようと心に決めていたのだ。
秋には歩くことすら一苦労だったこの臥雲橋にも、今は数人ほどしかいない。そのおかげで、目下に広がる美しい青もみじをゆっくりと見渡すことができた。
今日の気温は25度で、少し暑いけれど日陰に入ればそれほどでもない。清々しい風を感じながら、わたしたちはゆっくりと境内へと歩いていった。
東福寺はとにかく広い。大きな建物がたくさんあって、どこから見たらいいのか分からなくなる。とりあえず教授に案内されるがまま通天橋の入り口で受付をして、臥雲橋の上から見た青もみじが溢れる場所へと降り立った。洗玉澗(せんぎょくかん)というらしいそこは、夏色の太陽光に照らされたもみじが美しく輝いている。やっぱり近くで見るともみじの葉それぞれが微妙に形も色も違っていて、とても興味深い。光にあたっているところとそうでないところがあるから、一言で青もみじと言っても決して単色ではないのだ。筆で色づけしたように濃淡が生じていて、ああ、そういえば去年の春もこうして新緑の美しさを感じたなぁ、と懐かしくなった。
「季節が違うだけでこんなに混み具合が違うんですね」
参拝客は何人かいるけれど、やはり秋に比べると格段に空いている。写真は撮りやすいけれど、ここまで差があるのはちょっと意外だ。
「やはり秋は全国から人が集まるからな。観光シーズンだし、知名度もあるからしかたない」
「新緑の時期もこんなにきれいなのに。なんだかもったいないですね……」
「そういう考えを持つ人が秋に比べて少ないということだよ。残念ながら」
教授は講義の時とまったく違う柔和な表情で、溢れんばかりのもみじを見ている。
「紅葉は一瞬だが、青もみじは時期が長いからね。あたりまえのようにそこにあるから、みんな美しさに気づかないのさ。誰かに言われて初めて気づくこともある」
「確かに……わたしも教授と京都を見て回るようになってから、一層京都のよさを感じられるようになった気がします!」
「つまりは、私のおかげということかな」
「……まぁ、そういうことにしといてあげます」
否定することもできず、わたしはぎりぎりと歯を食い縛った。悔しいけれど、教授の言う通りだから何も言い返せない。こうして教授と一緒に京都を巡らなければ、興味も感動もずっと薄まっていただろう。写真もこれほどまでには撮らなかったかもしれない。たった一つの縁でこんなにも生活が変わるのか。教授と茂庵で出会わなかったら、今頃どうなっていただろう。お寺や神社にも行きはするんだろうけれど、きっと頻度は減っていただろうし、たぶん、他の学生と同じように、勉強やバイトに明け暮れるだけの毎日になっていた。そう思うと、一応目の前のこの人に感謝の念を持たないわけでもない。
「そういう教授はどうなんですか」
「どうって」
「教授の京都好きも、誰かの影響を受けてたりするのかなぁって」
「……まぁ、そうかもな」
教授は短くそう答えると、逃げるように歩調を速めた。あれっ、どうしたんだろう。何気なく尋ねただけだったのに、言い表しようのない違和感を覚えて、わたしは足をとめてしまった。おかしいな、もっと聞きたいことがあったはずなのに、何も言葉が出てこない。やわらかく拒絶されたような気がするのは、気のせいだろうか。
「早く来ないと、置いていくよ」
「えっ、あっ」
わたしは不安を振り払うように、駆け足で教授の元へと向かった。そうだ、せっかく東福寺に来たんだから、些細なことを気にしている場合じゃない。秋に来られなかった分まで、たくさん写真を撮らなくては。
歩いても歩いても、青もみじは途切れることがない。こんなにもみじが多いなら、秋に混雑するのもしかたがないのかもしれない。
「紅葉の時もきれいだったんだろうなぁ。さすが、京都随一のもみじの名所ですね」
「元々は桜だったんだけどね」
「えっ、そうなんですか」
そうだよ、と、教授が優しくうなずいた。
「明兆は知っているかい」
「えっと、確か水墨画の人ですよね?」
「そう。東福寺の僧侶でもあった明兆が描いた『大涅槃図』に、足利義持がひどく感銘を受け、褒美を与えると言った。その時に明兆が願ったのが、桜の伐採だったんだと」
「ええーっ、どうして? 何で?」
「桜があると遊興の場となり、僧侶たちの修業の妨げとなる、という理由だったらしい」
「そ、そんな理由で……?」
わたしはショックで頭を抱えた。昔の人って、やることが大胆すぎる。
「分からなくもないですけど、ちょっとやりすぎじゃないですか? 桜ともみじ、両方植えればいいのに……」
「まぁ、考え方は一つではないからね。今はもみじの名所だが、桜が溢れた東福寺も見たかった気がするよ」
教授はさみしげにそう言うと、致し方ない、と肩をすくめた。今更わたしたちが悲しんだところでどうにもならない。
確かに教授の言う通り、桜の植えてある東福寺も見てみたかった。桜ともみじ、どちらも植えられていたら、きっとまた違っていただろうに。そうは思うものの、もし東福寺が桜の名所のままだったら、秋の紅葉も見られることはなかったのだ。そう考えると悩ましい。あたりまえのように存在している光景も、さまざまな理由があるんだなぁ、と痛感した。
続いてわたしたちは、国指定の名勝だという本坊庭園に向かうことにした。
「『八相の庭』はおもしろいから、きっと琴子さんも気に入ると思うよ」
「八相の庭? どういう意味ですか?」
「それは、見てからのお楽しみ」
意味ありげに微笑みながら、教授が先に進んでいく。
まず初めに見えてきた南庭には、見事な砂紋の上に大きな石と苔山があった。教授によると、砂紋は「八海」、石は東の大海の彼方に仙人が住むといわれている「四仙島」、そして苔山は「五山」を表しているらしい。
そして東庭に置かれている円柱型の七つの石が表すのは「北斗七星」。西庭は井田を表した大市松模様、北庭は苔と板石による小市松。ぐるりとまわると、なるほど、確かにどこも違った魅力があっておもしろい。
「庭に盛り込まれた北斗七星、四仙島である蓬莱、瀛洲(えいしゅう)、壺梁(こりょう)、方丈、京都五山、須弥山、市松の八つの意匠。これが釈迦の入滅を表す『釈迦八相成道』にもあたることが、『八相の庭』の由来だよ」
「すごいなぁ。お庭って、ただきれいに整えられているんじゃなくて、しっかりと意味があるんですね。光明院の時も思ったけど、『きれいだなぁ』って眺めているだけじゃ分からないですよね」
わたしは教授の説明に感心しながら、八相の庭にカメラを向けた。去年、いろいろな寺院の庭を見てきたけれど、一つとして同じものはなかった。どれも細部まで計算されて作られていることを念頭に置きながら眺めると、印象がぐんと違って見える。
「あっ、そういえばわたし、バイト始めました。祇園にあるおばんざい屋さんで」
ふと思い出して報告すると、庭を眺めていた教授が振り向いた。
「今までバイトもしてなかったのか。だからいつも暇そうだったんだな……」
「あの、そろそろわたしが何か言うたびに嫌味で返すのやめてもらえます?」
わたしがいつ暇そうだったのか教えてもらいたいものだ。単位の揃っていない1回生こそ、大学の4年間で一番忙しいというのに。幸い、去年頑張ったおかげで全学部共通科目はすべて単位を取り終えたので、去年に比べたら若干の余裕がある。
「今更だが、サークル活動もしていなかったね。写真サークルに入ろうとは思わなかったのか」
「ああ、去年見学には行ったんですけど……夜遅くまで飲み会があったり、あんまり自由がきかなさそうだったので入らなかったんです。自分のペースで撮りたい時に撮る方が向いてるなぁって……」
去年の春を思い出し、わたしは顔をしかめた。今思えば、あんなに躍起になって各サークルの見学になんか行かなくてもよかったんだ。みっちゃんが「見学に行けばタダでご飯が食べられるから!」と言うから、節約とご飯のために時間を割いてみたものの、結局どこにも所属せずに終わってしまった。そのせいで貴重な4月を自分のために使うことができなかったのが、未だに悔やまれる。
「確かにね。まぁ、サークルなんかに入らなくても、写真仲間なんて作りたくなったらすぐに作れるだろうし。最近では、いいカメラを持っている学生も多いだろう」
「え? えーと……あっ、いましたね……」
わたしの声が萎んでいったのは、同じ学部にいる、とある女の子を思い出したからだ。去年の特別講義で石清水八幡宮に行った時、大きな一眼レフを持って、撮影した写真を自慢げに教授に見せていた。
「わたし、あの子とは系も違うし親しくないんです。話したこともないし、名前も知らないし。もう、全然仲よくないんです。ほんと、ちっとも」
「ああ、そう……」
何かを察したのか、教授は短く相槌を打っただけで、それ以上は突っ込んでこなかった。
方丈を出ると、強い太陽光が目の奥をつん、と刺激した。あと1週間も経てばもっと気温が上がって、夏に突入してしまいそうだ。年々季節の変わり目は曖昧になっているようで、このままだと春や秋もなくなってしまうんじゃないか、とすら思う。
「それで、今日の撮れ高はどうかな? 小さなカメラマンさん」
教授は暑さなど気にも留めていないような、すずしげな顔をしている。暑さなんかよりも写真が気になってしかたない様子だ。この人はたまに、わたしよりも写真がすきなんじゃないか、と感じる時がある。
「ばっちりです。青もみじのグラデーションがいい感じに出てると思います。でも……」
「どうした?」
「今の季節、青もみじがきれいなのは十分分かっているんですけど、他に何かないかなって。あじさいは去年三室戸寺で撮ったし、今年はもう少しバリエーションを増やしたいなぁって思ってるんですよ」
「……それは、私に案内しろということか」
「えへ、つまりそういうことです」
意図を見透かされ、わたしは頭に手をあてた。教授は大げさに息を吐いた。
「この1年でだいぶ遠慮がなくなったようだ」
「教授は1年前から変わらず性格が悪いです」
「まぁ、今日は特に予定もないし、このまま連れていってあげよう」
「本当ですか! ありがとうございます」
もう少ししたら梅雨が来るし、梅雨が明けたら灼熱地獄だ。やはり何ヶ所もまわるなら今しかない。やったぁ、と両手を上げたわたしを見て、教授はふっと表情をゆるめた。
「その代わり、今年も『優』を取れるよう、勉強も頑張りなさい」
「はい!」
わたしは勢いよくうなずいて、次の目的地を想像した。このあと、どこに行くんだろう。何が待っているんだろう。そう考えただけで胸が高鳴る。わたしたちは東福寺の境内を出て、意気揚々とタクシーに乗り込んだ。
京都は冬も寒いけれど、夏も相当暑い。去年、母と一緒に貴船神社に行った時も、暑さで倒れそうになったのを覚えている。あとちょっと気温が上がれば、カメラを持って1日中歩き回ることもできなくなるだろう。
そう考えると、出かけるチャンスは今しかない。梅雨が始まるその前に、どうしても行きたい場所があるのだ。去年の秋、混雑していて写真を撮るのを断念したあの場所に、今こそ行かねばなるまい。
「わぁっ、青もみじがすごくきれい!」
東福寺の臥雲橋から境内を見下ろすと、美しい緑が海のように広がっていた。
「新緑の東福寺、最高です! 臥雲橋が混んでないなんて……紅葉の時と全然違う」
「まだ参拝料すら払ってないのに、気が早いな」
背後からあきれたような声が聞こえてきた。間崎教授はわたしの隣にやってくると、眼下に広がる深い緑を柔和な表情で眺め始めた。喜んでいるのはお互い様だ。
東福寺は紅葉の名所として人気が高く、秋には国内外から数多くの観光客が訪れる場所だ。去年の秋、わたしたちもその美しさを一目見ようと訪れたのだけれど、予想以上に混雑していたので泣く泣く断念したのだった。その時から、青もみじの季節には必ず来ようと心に決めていたのだ。
秋には歩くことすら一苦労だったこの臥雲橋にも、今は数人ほどしかいない。そのおかげで、目下に広がる美しい青もみじをゆっくりと見渡すことができた。
今日の気温は25度で、少し暑いけれど日陰に入ればそれほどでもない。清々しい風を感じながら、わたしたちはゆっくりと境内へと歩いていった。
東福寺はとにかく広い。大きな建物がたくさんあって、どこから見たらいいのか分からなくなる。とりあえず教授に案内されるがまま通天橋の入り口で受付をして、臥雲橋の上から見た青もみじが溢れる場所へと降り立った。洗玉澗(せんぎょくかん)というらしいそこは、夏色の太陽光に照らされたもみじが美しく輝いている。やっぱり近くで見るともみじの葉それぞれが微妙に形も色も違っていて、とても興味深い。光にあたっているところとそうでないところがあるから、一言で青もみじと言っても決して単色ではないのだ。筆で色づけしたように濃淡が生じていて、ああ、そういえば去年の春もこうして新緑の美しさを感じたなぁ、と懐かしくなった。
「季節が違うだけでこんなに混み具合が違うんですね」
参拝客は何人かいるけれど、やはり秋に比べると格段に空いている。写真は撮りやすいけれど、ここまで差があるのはちょっと意外だ。
「やはり秋は全国から人が集まるからな。観光シーズンだし、知名度もあるからしかたない」
「新緑の時期もこんなにきれいなのに。なんだかもったいないですね……」
「そういう考えを持つ人が秋に比べて少ないということだよ。残念ながら」
教授は講義の時とまったく違う柔和な表情で、溢れんばかりのもみじを見ている。
「紅葉は一瞬だが、青もみじは時期が長いからね。あたりまえのようにそこにあるから、みんな美しさに気づかないのさ。誰かに言われて初めて気づくこともある」
「確かに……わたしも教授と京都を見て回るようになってから、一層京都のよさを感じられるようになった気がします!」
「つまりは、私のおかげということかな」
「……まぁ、そういうことにしといてあげます」
否定することもできず、わたしはぎりぎりと歯を食い縛った。悔しいけれど、教授の言う通りだから何も言い返せない。こうして教授と一緒に京都を巡らなければ、興味も感動もずっと薄まっていただろう。写真もこれほどまでには撮らなかったかもしれない。たった一つの縁でこんなにも生活が変わるのか。教授と茂庵で出会わなかったら、今頃どうなっていただろう。お寺や神社にも行きはするんだろうけれど、きっと頻度は減っていただろうし、たぶん、他の学生と同じように、勉強やバイトに明け暮れるだけの毎日になっていた。そう思うと、一応目の前のこの人に感謝の念を持たないわけでもない。
「そういう教授はどうなんですか」
「どうって」
「教授の京都好きも、誰かの影響を受けてたりするのかなぁって」
「……まぁ、そうかもな」
教授は短くそう答えると、逃げるように歩調を速めた。あれっ、どうしたんだろう。何気なく尋ねただけだったのに、言い表しようのない違和感を覚えて、わたしは足をとめてしまった。おかしいな、もっと聞きたいことがあったはずなのに、何も言葉が出てこない。やわらかく拒絶されたような気がするのは、気のせいだろうか。
「早く来ないと、置いていくよ」
「えっ、あっ」
わたしは不安を振り払うように、駆け足で教授の元へと向かった。そうだ、せっかく東福寺に来たんだから、些細なことを気にしている場合じゃない。秋に来られなかった分まで、たくさん写真を撮らなくては。
歩いても歩いても、青もみじは途切れることがない。こんなにもみじが多いなら、秋に混雑するのもしかたがないのかもしれない。
「紅葉の時もきれいだったんだろうなぁ。さすが、京都随一のもみじの名所ですね」
「元々は桜だったんだけどね」
「えっ、そうなんですか」
そうだよ、と、教授が優しくうなずいた。
「明兆は知っているかい」
「えっと、確か水墨画の人ですよね?」
「そう。東福寺の僧侶でもあった明兆が描いた『大涅槃図』に、足利義持がひどく感銘を受け、褒美を与えると言った。その時に明兆が願ったのが、桜の伐採だったんだと」
「ええーっ、どうして? 何で?」
「桜があると遊興の場となり、僧侶たちの修業の妨げとなる、という理由だったらしい」
「そ、そんな理由で……?」
わたしはショックで頭を抱えた。昔の人って、やることが大胆すぎる。
「分からなくもないですけど、ちょっとやりすぎじゃないですか? 桜ともみじ、両方植えればいいのに……」
「まぁ、考え方は一つではないからね。今はもみじの名所だが、桜が溢れた東福寺も見たかった気がするよ」
教授はさみしげにそう言うと、致し方ない、と肩をすくめた。今更わたしたちが悲しんだところでどうにもならない。
確かに教授の言う通り、桜の植えてある東福寺も見てみたかった。桜ともみじ、どちらも植えられていたら、きっとまた違っていただろうに。そうは思うものの、もし東福寺が桜の名所のままだったら、秋の紅葉も見られることはなかったのだ。そう考えると悩ましい。あたりまえのように存在している光景も、さまざまな理由があるんだなぁ、と痛感した。
続いてわたしたちは、国指定の名勝だという本坊庭園に向かうことにした。
「『八相の庭』はおもしろいから、きっと琴子さんも気に入ると思うよ」
「八相の庭? どういう意味ですか?」
「それは、見てからのお楽しみ」
意味ありげに微笑みながら、教授が先に進んでいく。
まず初めに見えてきた南庭には、見事な砂紋の上に大きな石と苔山があった。教授によると、砂紋は「八海」、石は東の大海の彼方に仙人が住むといわれている「四仙島」、そして苔山は「五山」を表しているらしい。
そして東庭に置かれている円柱型の七つの石が表すのは「北斗七星」。西庭は井田を表した大市松模様、北庭は苔と板石による小市松。ぐるりとまわると、なるほど、確かにどこも違った魅力があっておもしろい。
「庭に盛り込まれた北斗七星、四仙島である蓬莱、瀛洲(えいしゅう)、壺梁(こりょう)、方丈、京都五山、須弥山、市松の八つの意匠。これが釈迦の入滅を表す『釈迦八相成道』にもあたることが、『八相の庭』の由来だよ」
「すごいなぁ。お庭って、ただきれいに整えられているんじゃなくて、しっかりと意味があるんですね。光明院の時も思ったけど、『きれいだなぁ』って眺めているだけじゃ分からないですよね」
わたしは教授の説明に感心しながら、八相の庭にカメラを向けた。去年、いろいろな寺院の庭を見てきたけれど、一つとして同じものはなかった。どれも細部まで計算されて作られていることを念頭に置きながら眺めると、印象がぐんと違って見える。
「あっ、そういえばわたし、バイト始めました。祇園にあるおばんざい屋さんで」
ふと思い出して報告すると、庭を眺めていた教授が振り向いた。
「今までバイトもしてなかったのか。だからいつも暇そうだったんだな……」
「あの、そろそろわたしが何か言うたびに嫌味で返すのやめてもらえます?」
わたしがいつ暇そうだったのか教えてもらいたいものだ。単位の揃っていない1回生こそ、大学の4年間で一番忙しいというのに。幸い、去年頑張ったおかげで全学部共通科目はすべて単位を取り終えたので、去年に比べたら若干の余裕がある。
「今更だが、サークル活動もしていなかったね。写真サークルに入ろうとは思わなかったのか」
「ああ、去年見学には行ったんですけど……夜遅くまで飲み会があったり、あんまり自由がきかなさそうだったので入らなかったんです。自分のペースで撮りたい時に撮る方が向いてるなぁって……」
去年の春を思い出し、わたしは顔をしかめた。今思えば、あんなに躍起になって各サークルの見学になんか行かなくてもよかったんだ。みっちゃんが「見学に行けばタダでご飯が食べられるから!」と言うから、節約とご飯のために時間を割いてみたものの、結局どこにも所属せずに終わってしまった。そのせいで貴重な4月を自分のために使うことができなかったのが、未だに悔やまれる。
「確かにね。まぁ、サークルなんかに入らなくても、写真仲間なんて作りたくなったらすぐに作れるだろうし。最近では、いいカメラを持っている学生も多いだろう」
「え? えーと……あっ、いましたね……」
わたしの声が萎んでいったのは、同じ学部にいる、とある女の子を思い出したからだ。去年の特別講義で石清水八幡宮に行った時、大きな一眼レフを持って、撮影した写真を自慢げに教授に見せていた。
「わたし、あの子とは系も違うし親しくないんです。話したこともないし、名前も知らないし。もう、全然仲よくないんです。ほんと、ちっとも」
「ああ、そう……」
何かを察したのか、教授は短く相槌を打っただけで、それ以上は突っ込んでこなかった。
方丈を出ると、強い太陽光が目の奥をつん、と刺激した。あと1週間も経てばもっと気温が上がって、夏に突入してしまいそうだ。年々季節の変わり目は曖昧になっているようで、このままだと春や秋もなくなってしまうんじゃないか、とすら思う。
「それで、今日の撮れ高はどうかな? 小さなカメラマンさん」
教授は暑さなど気にも留めていないような、すずしげな顔をしている。暑さなんかよりも写真が気になってしかたない様子だ。この人はたまに、わたしよりも写真がすきなんじゃないか、と感じる時がある。
「ばっちりです。青もみじのグラデーションがいい感じに出てると思います。でも……」
「どうした?」
「今の季節、青もみじがきれいなのは十分分かっているんですけど、他に何かないかなって。あじさいは去年三室戸寺で撮ったし、今年はもう少しバリエーションを増やしたいなぁって思ってるんですよ」
「……それは、私に案内しろということか」
「えへ、つまりそういうことです」
意図を見透かされ、わたしは頭に手をあてた。教授は大げさに息を吐いた。
「この1年でだいぶ遠慮がなくなったようだ」
「教授は1年前から変わらず性格が悪いです」
「まぁ、今日は特に予定もないし、このまま連れていってあげよう」
「本当ですか! ありがとうございます」
もう少ししたら梅雨が来るし、梅雨が明けたら灼熱地獄だ。やはり何ヶ所もまわるなら今しかない。やったぁ、と両手を上げたわたしを見て、教授はふっと表情をゆるめた。
「その代わり、今年も『優』を取れるよう、勉強も頑張りなさい」
「はい!」
わたしは勢いよくうなずいて、次の目的地を想像した。このあと、どこに行くんだろう。何が待っているんだろう。そう考えただけで胸が高鳴る。わたしたちは東福寺の境内を出て、意気揚々とタクシーに乗り込んだ。