朝起きてカーテンを開けると雪が降っていた。遠くに見える山々は白一色だし、目の前にあるイタリア料理店の屋根の上には、はちきれそうなくらい雪が積もっている。明日は雪が積もりそうです、なんてお天気お姉さんが言っていたものだから、いつもより早い時間にアラームをセットしてしまった。

行かなくてもいいかな、今年は。頭ではそう思っていても、自分の意思とは関係なく体は勝手に動いてしまう。顔を洗って歯を磨き、分厚い服に着替えてカメラを持ち、出かける準備を進めてしまう。さすがにメイクをする気力はなかった。

去年は意気揚々と前日から準備をし、ひとりで金閣寺を見にいった。凍えるくらい寒かったし、こん様のストラップはなくすし、散々な思いをしたけれど、黄金に輝く金閣寺と白い雪の美しさに見惚れた。わたしには写真を撮ってきてほしいと言うくせに、自分は寒い寒いなんて言って出かけようとしないから、今年こそは教授を連れ出そうとしていたのに。結局今年もひとりぼっちだ。

一乗寺駅から叡山電車に乗り、三宅八幡駅で下車した。乗車時間は約5分。そこからさらに5分歩けば、蓮華寺に到着する。昨日の夜、家からすぐに行ける場所を検索し、行ってみようと思ったのだ。

雪が積もっているせいなのか、普段からそうなのか、道を歩いている人はいなかった。「天台宗蓮華寺」という石標を見つけて、小さな山門をくぐる。木々の枝にはもみじの代わりに雪が積もり、風に揺られて小刻みにしなっていた。鐘楼も灰色の鳥居も、冬の日にふさわしく雪化粧をしている。

受付を済ませて靴を脱ぎ、本堂に上がった。堂内にはすでに数人の参拝者が座っており、みな黙ってお坊さんの話に耳を傾けていた。わたしもそこに合流し、畳の上に正座をする。

「蓮華寺は元々今の京都駅付近にありましたが、応仁の乱で荒廃し、寛文2年に加賀藩家老の今枝近義が祖父の重直を供養するために現在の地に再興しました」

本堂からは庭園がよく見えた。まるで水墨画のような景色だ。インターネットで秋の写真を見つけたら見事な紅葉が写っていた。秋に比べると、もみじのない今は少しさみしい。お坊さんの声だけが、ゆっくりと静寂に染み込んでいく。

「この庭園は石川丈山や狩野探幽などが協力して作庭したといわれていますが、正確には分かっていません。こちらの池は『水』の字形にかたどられているのが分かりますでしょうか。池の左前方には亀島と鶴石があり、亀島には、唐人帽丸形と呼ばれる石灯籠が据えられています。少し見えづらいですが、亀島の左後方には蓬莱山の姿が岩組みによって築かれているんですよ」

池の右手前を見てください、と、お坊さんが手で示す。

「あちらには舟石と呼ばれる石が配されています。舟石が置かれているのはめずらしいんですが、こちらの舟石は入舟の形をしている点でさらにめずらしいものとなっているんです」

舟石を置く庭園のほとんどでは、出舟の形があしらわれているそうだ。出舟とは、向こう岸に理想郷を見出し彼岸を想念させるもの。それに対し、入舟は浄土を此岸に見出す思想を表すもの、ということらしい。この池だけでも数えきれないほどの工夫がなされているのだ、と感心した。

「写真を撮る前に、どうかご本尊様にご挨拶をしてくださいね。景色を楽しむのはいいことですが、優先順位を間違えてはいけません」

このように雪が降り積もったり、紅葉の時期になると、その景色を見ようとたくさんの人が走ったり電話で紅葉状況を聞いてきたりするらしい。しかしそれは参拝のあるべき姿ではないのだ、とお坊さんは言った。目的を、見失ってはいけないのだと。

説明が終わったあと、わたしは本尊である釈迦如来像にご挨拶をして、もう一度雪景色に目を移した。去年は興奮で身を震わせていたけれど、今年は少しさみしく瞳に映った。

カメラにぶら下がっているこん様のストラップを、指の腹で撫でた。いつも聞こえるこん様の声も、今日は何も聞こえない。

本当は分かっている。こん様の声なんてきっとわたしの妄想だ。味方がほしかっただけなんだ。おまえは間違っていないんだ、頑張っているんだと、誰かに肯定してほしかっただけなのだ。自分に期待なんてしない方がいい。期待するから苦しくなる。写真を見せて10人が10人とも褒めてくれるとは限らない。そんなこと、とっくの昔に知っていたはずだった。

中学1年生のクリスマス、父に連れられて写真展に行ったことがある。父が写真仲間と一緒に開催した小さな個展で、父の写真と一緒にわたしの写真も飾ってもらった。大抵の人がわたしを我が子のように褒め、微笑ましい目で賞賛してくれた。まだ若いのにすごいねぇ、とか、この構図がいいねぇ、とか。お世辞だったのかもしれないけれど、子供のわたしにはそれが嬉しかった。

だけど父が離れひとりになった瞬間に、ある男性がわたしに近づき、明確な悪意を込めて言ったのだ。「伝えたいことが分からない」「どうしてこの構図にしたの?」「将来どうなりたいの? 写真家になるわけじゃあないんでしょ?」「基礎からちゃんと勉強したことある?」とか。世の中にはそういう、余計なお世話をしてくる大人が少なからずいる。

自己満足だよぉ、なんて赤の他人に言われても、そのアドバイスこそ自己満足なんじゃないか、中学生のわたしが高価なカメラで写真を撮っているのがそんなに気に入らないか、そんなにわたしが褒められていることが気に入らないか、とか思ったけれど、当時のわたしは自分の写真にそれほど自信がなく、父のメンツもあるので、とりあえずああ、ええ、まぁなんてあいまいにうなずいて逃げるようにその場を離れた。

家に帰ってその人の話をしたら、まずは自分が満足、そして人を満足させればいいのよ。人のことを優先させるなんてことはまた後々考えればいいの、だってこれでお金を稼ごうと思ってるわけでもないんだし、仲間と楽しんでいるところにそんな風に言うのは野暮ってもんよ! なんて母は怒って、そういう母を見ていたらわたしもなんだかむかむかしてきて、そんなわたしたちを見ていたら父までいらいらしてきたらしく、その年のクリスマスは荒れに荒れた。それ以来、理解できない人には最初から話さないようにしよう、分かってくれる人が数人いれば十分なのだ、なんて思うようになった。

忘れたつもりでいたけれど、やっぱり何年経ってもそういう経験は魚の骨のようにどこかに引っかかっているものだ。一度でも入賞すれば、わたしの若さや拙さを補い、あの時軽んじてきた人たちを見返せるかも、なんて、思っていなかったとは言い切れない。

入賞できなかったことを家族が知ったら何て言うだろうか。父の写真仲間が知ったら、何て言うだろうか。

「たった1回落ちただけじゃないか」
「あなたはまだ若いから」
「これからもっとうまくなるよ」

まぁ、そうですよ。そうなんですけどね。気にすることはない、なんて明るく言う父と母の姿が目に浮かぶ。考えすぎだ、落ち込みすぎだ、なんてことは分かっているんだこっちは。

たった1回落ちただけとかまだ若いんだからとか、そういうのは安っぽくて使い古された慰めだ。その言葉を理解しつつも、受け入れることはなかなか難しいものなのだ。

回数だけ見たらそうかもしれない。年齢だけで判断したらそうかもしれない。だけど、9年だ。わたしがカメラと向かい合ってきた時間は9年もあったのだ。その9年間を否定されたような気がしたから、わたしはこんなに苦しいのだ。
 
こういうことが、この先何度もあるのだろう。思い返せばわたしは、楽な人生を歩んできたのかもしれない。部活動には所属したことがないし、勉強だってなんとかなったし、大学だって現役で合格したし、まぁ一言で言うと、挫折というものを味わったことがなかった。恵まれていた証拠なのかもしれない。

だけどそれでも、心のどこかで焦りを感じていた。テレビで活躍しているアイドルやタレント、ニュースで話題になるアスリートに年下が増えた。母が何気なく「この子、琴子より年下ね」と言った、その言葉に少し傷ついた。夢がないとか目標がないとか言いながらも、結局わたしは、何者かになりたかったのだ。その他大勢ではない、わたしという存在になりたかったのだ。

「……思ふこと言はでぞただにやみぬべき我と等しき人しなければ」

1回生の時、間崎教授の講義で習った和歌を、ふと思い出した。伊勢物語124段に載っている和歌だ。

「心に思うことは言わないでそのまま黙っていた方がよいのだ。どうせこの世にわたしと同じ考えの人などいないのだから」

教授は和歌の意味を淡々と解説した。説明書きも少なくどんな状況で詠まれたものなのかは分からない。だけど、ものすごく納得したのを覚えている。投げやりな和歌だと思った。人に理解されることを諦め、伝えることを諦めた、悲しい歌だと思った。

この世界に、わたしとまったく同じ考えの人なんていない。わたしの気持ちを100パーセント理解してくれる人などいない。わたしがいいと思ったものがどこかの誰かの目に留まる確率なんて、高いわけがないのだ。

「……それでも」

わたしはこん様に語りかけた。

「わたしがいいと思うものを、みんなに共感してほしいと、思ってしまったんですよ」

こん様は何も答えない。ただ、無表情でわたしを見つめ返すだけだ。





吐いた息が白く染まり、たちまち空気に溶けていく。足をすべらせないように注意しながら庭園を歩き、雪景色を目に焼きつけていった。

嵐山に行った時も、同じようなことを思った。わたしの「美しい」が誰かの「美しい」とは限らないと。京都ではめずらしいこの雪景色も、雪の多い地域に住んでいる人から見たら、ただの日常なのかもしれない。感性は、ひとりひとり違うのだ。心は誰とも重ならないのかもしれない。誰にも、理解してもらえないのかもしれない。

マンションに戻り、今日撮った写真をパソコンに取り込んだ。きっと他の季節もきれいなのだろう。だけどこの少しさみしい風景もきらいじゃない。舟石に積もった分厚い雪も、葉のない枝も、時がとまっているかのように物静かで、呼吸を忘れてしまいそうになった。

少し迷った末、「蓮華寺に行きました」とメッセージを添えて、1枚の写真を教授に送ってみた。先日、柄にもなく教授の前で泣いてしまってからなんとなく気まずい。期待せずに待っていたら、5分も経たないうちに返事が来た。 

「素晴らしい」

絵文字も何もない、簡素な文章だった。いつも通りの教授だ。いつも通りの、教授の言葉だ。

「我と等しき、人しなければ」

わたしと同じ思いの人などこの世にいない。いたとしたらそれはきっと、奇跡と呼ぶのにふさわしい。

わたしは立ち上がって窓の外を見た。今朝方積もっていた雪は溶け、雲の隙間から太陽が顔を出している。春が近い。