学祭が終わると大学はいつもの雰囲気を取り戻し、街中に見えるもみじも徐々に色褪せ始めた。秋が過ぎ去り、冬の気配が着実に濃くなっていくようだ。 

2限の講義が終了した昼休み。わたしは文学部棟にある間崎八束教授室の前に立っていた。本当は訪ねる予定はなかったし、メッセージで済ますことだってできたし、なんなら自分ひとりで解決できる問題でもあった。だけどいつまで経っても結論が出ず、ついついこんなところまで来てしまったのだ。この時間なら中にいるはずだが、いつもと違ってなかなか扉をノックすることができない。どうしよう、やっぱりやめようか……なんて迷っていると、突然扉が開いて教授が出てきた。わたしが声をかける間もなく、教授は急ぎ足でどこかへ歩いていく。

「あの、教授」

わたしは思わずあとを追い、エレベーターの前でようやく声をかけた。教授はわたしの顔をちらりと一瞥すると、「何だ」と素っ気ない声を出した。なんだか、今日は機嫌が悪いような気がする。もしかしてタイミングを間違えたのかもしれない。引き返そうかとも思ったが、ちょうどエレベーターが到着したので、ついつい一緒に乗り込んでしまった。もうあとには引けない。

「すいません、ちょっと相談したいことがあって。忙しいですか」

教授はネイビーのコートを羽織り、首にはマフラーまで巻いている。どこかへ行く途中だったのは明らかだ。エレベーターが下降するにつれ、わたしの気持ちも沈んでいく。やっぱり、衝動的に訪ねるべきではなかったのかも。たまに、わたしは自分が学生だということを忘れてしまう。

エレベーターが1階へと到着し、再び扉が開いた。

「……話したいなら、君がついてくればいい」

教授はそう言って、またまた素っ気なく歩き始めた。けれど、さっきよりスピードは遅い。わたしは安心して、教授のあとについていった。

「どこへ行くんですか?」

「安息の地」

「安息?」

問いかけても、教授はそれ以上何も答えてくれない。わたしたちはいつの間にか大学のキャンパスの外に出ていた。百万遍の交差点を渡り、出町柳駅のある方向へひたすら進む。教授はまるでたばこを我慢している喫煙者みたいにピリピリしている。早く相談したいけれど、これじゃあなんとなく切り出しづらい。

歩いて向かっているということは、目的地はそれほど遠くないだろう。それにこの道のりを、わたしは知っている。鴨川を渡ってすぐの道を北へ。これは以前、みっちゃんと河合神社に行った時に通った道だ。

「安息の地って、河合神社……あっ、下鴨神社ですか?」

「違う」

教授はいらいらした口調でそう言った。舌打ちでもしそうな勢いだ。じゃあ一体どこなんだ、と考えていたら、教授が下鴨神社の鳥居の少し手前で立ちどまった。入り口にあるもみじはまだわずかに紅葉している。どこだろう、と門を見ると、そこには「重要文化財 旧三井家下鴨別邸」と書かれていた。河合神社に来た時に前を通っているはずなのに、こんな場所があるなんて全然気づかなかった。

敷地内には大きな建物があった。入り口は開かれており、誰でも入れるようになっている。

「三井財閥、知っているだろう」

わたしたちは靴を脱ぎ、入場料を払って中に入った。

「あの銀行とか、不動産とかで有名な豪商ですよね」

「ああ。元々この地には三井家の祖霊を祀る顕名霊社(あきなれいしゃ)が鎮座していて、ここはその参拝のための施設として作られたんだ」

広々とした座敷に上がると、大きな窓から庭園がよく見えた。冬の始まりとは思えないほど緑に溢れている。そんな庭園を眺めながら、抹茶を飲んでくつろいでいる人もいた。

教授とわたしは窓に近い場所に腰を下ろした。風は冷たいが日差しはあたたかく、さほど寒さは感じない。

「下鴨神社の近くにこんな場所があるなんて知りませんでした。でも、どうしていきなり?」

「最近忙しすぎていらいらしていた。こういう時は静かな場所でぼんやりするに限る」

教授は庭園を眺めて長く息を吐いた。先ほどまでのピリピリした様子は少しやわらぎ、憑物が落ちたような顔をしている。何だそれ。アルプスの少女じゃん、と、某国民的アニメを思い出した。

「すいません。そんな時についてきてしまって」

「いいよ。君なら問題ない」

「それ、どういう意味ですか」

「空気だと思っているから」

「ああ、そう……」

それはたぶん、わたしにとっては大問題だ。

「で、相談というのは?」

「あ、いえ、実は……」

わたしはポケットから携帯電話を取り出した。相談するつもりだったとはいえ、いざ口を開こうとすると少々ためらってしまう。

「先日、源光庵に行きまして」

「知っている。写真を送ってきただろう」

「その前に、毘沙門堂と岩屋寺にも」

「それも知っている。一緒に行っただろ……何が言いたいんだ、君は」

ええっと、その……と、無意味な単語を吐き出しながら、わたしは携帯電話の画面を操作した。

「撮影した写真の中で、どれが一番いいと思うか聞きたくて。数枚に絞ったんですけど……今、送りますね」

あらかじめ選んでいた写真を教授の携帯電話に送る。教授は自分の携帯電話を取り出して、わたしが送った写真を見つめた。それから顔を上げ、

「何でいきなりそんなことを聞くんだ」

「いえ、その、えっと」

「コンテストにでも出すのか」

わたしはぐっと言葉に詰まった。違うんです、そういうんじゃなくて。ただ、純粋にどの写真がお好みなのか知りたいんです。

「……何で分かるんですか」

頭では言い訳を並べていても、ごまかすような言葉は出てこなかった。この人に言い訳もごまかしも通用しないことは、もうとっくに理解している。

教授は何か言おうとするように口を開いたが、やがて目を逸らして「……なんとなく」と小さくつぶやいた。あやしい。きっと、何か思い当たることがあったに違いない。

「わたし、春に教授に言われた言葉をずっと考えていて、自分なりに写真と向き合ってきたつもりなんですけど、やっぱり目に見える成長というか、結果というか、そういうのがほしくて。それで、京都の秋に関するフォトコンがもうすぐ締め切りなので、出してみようかなって」

インターネットで写真に関するコンテストを検索していたら、「京の四季 フォトコンテスト」というものを見つけた。季節ごとに開催されているもので、大賞、準大賞、入賞、奨励賞などなど、わりと入賞できる数が多い。大賞とまではいかなくても、少しでもかすれば……なんて思っていたのである。

「自分で選んだ方がいいんじゃないのか。私は、写真に関する知識はないし」

「参考にするだけなので! 教授の意見が聞きたいんです」

教授はわたしが送った数枚の写真を再び見つめた。自分で言い出したこととはいえ、そんなにまじまじと写真を見られると緊張する。そわそわしながら待っていると、教授がいきなり立ち上がった。

「外の空気が吸いたい。庭に出る」

「え? あ、はい」

写真は? と思ったが、教授がさっさと歩いていってしまうので、わたしも慌てて立ち上がった。





庭園に出ると、冬の弱い日差しが降り注いで気持ちがよかった。無鄰菴に行った時、庭園には芝が植えられていたけれど、ここには苔が広がっている。池には滝口が設けられていて、水の音が心地よく響いていた。振り返ると、先ほどまでいた建物の上部には望楼があり、青い空によく映えていた。

「建物からお庭を眺めるのもいいですけど、こうしてお庭から建物を眺めるのもいいですね」

「この別邸は庭園からの眺めを意識して作られているんだよ。あの玄関棟は大正期、茶室は江戸期、主屋は明治期に建てられたものだ。玄関棟が書院造、茶室が数寄屋造、主屋はその中間」

どうやら先ほどまでわたしたちがいたのが主屋で、その隣にあるのが茶室らしい。今までどちらかというと庭園の美しさばかりに注目していたけれど、建物も古きよき時代の日本を感じられて、とてもいい。心が落ち着く、と言っていた教授の言葉にもうなずける。

「昔、カメラを始めようと考えたけれどやめた、と君に話したことがあったね」

教授は風で乱れたマフラーを首に巻き直しながら言った。

「あ、はい。確か、恵文社で……」

それは昨年の春、恵文社でたまたま出会った時に教授がわたしに話してくれたことだ。思えばあれがきっかけで、こうして一緒に京都を巡ることになったのだ。

「確か、設定とか構図を考えるのが面倒だから、とか言って。教授、意外とめんどくさがりですよね」

「まぁ、理由はそれだけじゃないが……大抵の人はそうだ。やりたくても行動に移さなかったり、始めてみてもすぐにやめてしまったり。一つのことを長く続けることは難しい。だから、向上心を持ってカメラをずっと続けているということは、それだけですばらしいと思う」

その上で、だけれど。教授はそう言って、携帯電話を取り出した。

「私は、個人的にはこの写真がいいと思う。室内外の明暗差が美しい」

差し出された画面をのぞくと、そこには源光庵で撮った1枚の写真が映っていた。迷いの窓から朝日が差し込んでいる。

「よく撮れている」

教授はわたしに向かって穏やかに微笑んだ。

「……わたしも、この写真が一番気に入っています」

もしかしたら、わたしは背中を押してほしかっただけなのかもしれない。フォトコンテストに挑戦したい。挑戦して、賞を獲りたい。そしたらきっと、何かが変わるだろう。そう思った。