だらけた生活習慣が身についてしまうと、いざ講義が始まっても、なかなか以前のように早起きするのは難しい。それでもなんとか体を起こして大学に向かわなければいけないから、学生も楽じゃないなぁ、なんて甘えたことを思う。

あれだけ強かった太陽光も、10月になると少しやわらいだような気がする。その日も爽やかな風を感じながら自転車をこぎ、講義を受け、みっちゃんと他愛もない話をし、部屋に戻って夜ご飯を済ませ、テレビを見ながらだらだらと過ごし、11時すぎに就寝した。いつも通りの1日、の、はずだった。

それなのに目が覚めたら、目の前にはお寺の本堂のような建物が建っている。背の高い木々が青空に向かって伸びていて、わたし以外に生き物の姿はない。

ずいぶん前にもこんなことがあった。確か、伏見稲荷大社の夢を見た時だ。あの時と同じように、周囲は靄がかかったようにぼんやりとしている。ああ、もしかしてこれも夢なのか。

「琴子さん、琴子さん」

誰かがわたしを呼ぶ声がする。突然肩に重みを感じたと思ったら、頬にやわらかいものが触れた。

「あれっ、こん様!」

そこにいたのは、白い毛をまとった小さなきつねだった。普段はカメラのストラップとして揺れている(と、わたしは思っている)子ぎつねが、今はちゃんと動物の姿になっている。伏見稲荷大社の夢を見た時と同じサイズだ。

「ストラップじゃない……」

「何を言っているんですか、私はいつもこのサイズです。琴子さんには見えないだけで、ずっとそばにいたんですから」

「ちゃんと気づいていましたよ。ああ、でもやっぱりこのもふもふ感は懐かしいです」

わたしはこん様を両手で抱きかかえ、すりすりと頬ずりをした。こん様は「こら、やめなさい」と小さな前足でわたしの頬を押しのける。全然痛くない。

「こん様がこのサイズってことは、やっぱりこれは夢ですか」

「そういうことになるでしょうね。それにしてもここは……」

その時、こーん……と遠吠えのような声が聞こえて、わたしとこん様は顔を見合わせた。

「……私じゃないですよ」

「ですよね。じゃあ一体誰が……」

ふと見てみると、わたしたちの前方に1匹のきつねがいた。こん様よりずいぶん大きいし、顔つきもきりっとしている。

「こん様のお知り合いですか?」

「違いますよ。よく見てください。ここ、伏見稲荷大社じゃないでしょ」

こん様の言う通り、周囲にはあの有名な鳥居もないし、どう見ても伏見稲荷大社ではなさそうだ。だとしたら、一体ここはどこだろう。

こん様とひそひそ話していると、そのきつねがもう一度こーん! と鳴いた。すると、一瞬できつねの姿が消え、代わりに着物姿のおじいさんが現れた。あれっ、と目をこすってもう一度見てみるけれど、間違いない、きつねが人間に変わっている。

おじいさんはわたしたちに背を向けて歩き始めた。わたしとこん様は目配せをし、その人のあとについていくことにした。しばらくすると、おじいさんは小さな部屋に入っていった。のぞいてみると、そこには掛け軸や茶道具があった。どうぞお座りなさい、と言うように、おじいさんが手招きをする。わたしとこん様は遠慮がちに部屋に入り、畳の上に腰を下ろした。

もしかして、わたしたちはお茶会に招待されたのかもしれない。そう思ったら急に緊張してきた。残念ながらわたしに茶道の経験はないので、こういう時どうしたらいいのか分からない。こんなことなら間崎教授に話を聞いておくべきだった、と後悔していると、わたしの心境を察したのか、こん様がちょんちょん、とわたしの足をつついてきた。

「大丈夫ですよ。私が見本を見せますから」

「えっ、でもこん様、きつねじゃないですか……」

「何言ってるんですか。あのおじいさんだって元々きつねでしょ」

「そうですけど、あの人はちゃんとしてそうだから」

「琴子さん、それどういう意味ですか?」

こん様が全身の白い毛を逆立てた。これじゃあきつねではなく猫だ。

襖が開いて、着物を着た女の人がお菓子の入った器を運んできた。「お菓子をどうぞ」とお辞儀をして、まずはこん様の前に器を差し出す。こん様はわたしに「お先に失礼します」と言って、器を丁寧に持って頭を下げた。こん様の小さな手に対し、器が相当大きいので、見ているこっちがはらはらする。

器を置いたこん様は、どこからか葉っぱを1枚取り出すと、小さく「こんこん」と唱えた。すると、葉っぱがたちまち紙と楊枝のようなものに変化した。「懐紙(ふところがみ)と菓子切です」こん様は小声でわたしにそう教えてから、お菓子をその上に移して、器をわたしに手渡した。

わたしは見よう見まねでこん様と同じように器を持って頭を下げ、畳の上に置いた。だけどわたしには懐紙も菓子切もない。助けを求めるように視線を送ると、こん様がもう一度小さく「こんこん」と唱え、わたしの分を用意してくれた。さすが、小さくても稲荷大神様のつかいだ。

お菓子を懐紙の上に乗せ、鑑賞するようにじっと見つめた。確かこういうお菓子を、練り切り、と言った気がする。もみじの形をした橙色が色鮮やかでとても美しい。食べるのが少しもったいないくらいだ。だけどおじいさんが「どうぞ」と言うので、わたしたちは「頂戴します」と応え、菓子切で切り分けながらお菓子を口に運んだ。上品な甘さがとてもおいしい。こん様によると、お菓子はお抹茶の前に食べ切ってしまうのがマナーらしい。

ちょうど食べ終わったくらいで、おじいさんがわたしとこん様それぞれにお抹茶を差し出した。こん様の方は、わたしよりずいぶん小さい茶碗だ。

「お点前、頂戴します」

こん様は背筋を伸ばし、小さな前足で器用にお茶碗を持った。わたしもこん様と同じように、茶碗を左手のひらに乗せて右手で添える。一礼し、時計回りに2回回したあと、ゆっくりとお抹茶を口に運んだ。先ほど食べたお菓子の甘味とお抹茶の苦味が混ざり合って口内に広がる。飲み終えたあとは、飲み口を左から右に1回、右手の指で清め、その指を懐紙で清めるらしい。

「最後に、お茶碗を反時計回りに2回戻すんです。そうすると、お茶碗の正面が自分に戻ってくるんですよ」

「こん様、詳しいですね。助かりました」

「このくらい当然です。それにしても……」

「どうしたんですか? お抹茶、苦かったですか?」

「そんなに子供じゃないです。お茶を点てるきつね、どこかで聞いたことがあるような……あっ」

こん様は短く声を上げ、興奮したようにわたしを見上げた。

「分かりました。この場所がどこなのかも、あのきつねのことも」

「えっ、本当ですか?」

「はい。確かあのきつねは……」





目を開けると、見慣れた天井が目に入った。

ぼんやりしながら重たい上半身を起こす。テーブルの上に置いたカメラを見ると、ストラップの姿をしたこん様がちょこんとついていた。もふもふ感はないし、当然だけどしゃべる気配もない。

変な夢だった。わたしはあくびをしながらうーんと伸びをした。きつねが人間に化けてお茶を点てるなんて。それにあの場所は一体どこだったんだろう。首をひねりながら時計を見ると、8時50分を示していた。

8時、50分。

頭のてっぺんから、さぁーっと血の気が引いていくのが分かった。

やばい。寝過ごした。わたしは転がるようにベッドから下り、慌てて身支度を整えて部屋を出た。ああ、どうして今日に限ってアラームをかけ忘れてしまったんだろう。後悔してももう遅い。全速力で自転車をこいでキャンパスへと急ぐ。

講義室をそっとのぞくと、教壇に立つ間崎教授と、椅子に座っている学生たちが見えた。 

忍び足で講義室に入ると、後ろの席に余りのレジュメが置かれていることに気がついた。手に取ろうとしたら、教授とばっちり目が合ってしまい、慌てて顔を伏せる。しまった、何で目を逸らしてしまったんだろう。気まずい。とても気まずい。

結局その日の講義は全然内容が頭に入ってこず、メモをしようと手に持ったシャープペンシルはほぼ動くことなく終わった。教授はいつも通り、講義が終わるとものすごいスピードで去っていく。わたしは少し迷った末、教授のあとを追いかけることにした。

1回生の時はおそるおそる訪問していた教授室も、いつの間にかもう慣れっこだ。だけど、さすがに今回は違う。どんな顔で教授が待ち受けているのか想像もつかない。

いつものように2回ノックすると、「どうぞ」といつも通りの声が返ってきた。失礼します、とつぶやきながら扉を開けると、教授がパソコンの前に座っている。どれだけ近づいても、わたしの方なんて見向きもしない。

「……あの」

声をかけてみたけれど、わたしの声、聞こえてないんじゃないかってくらい反応がない。

「今日は、すみませんでした」

「何が」

「寝坊して……その、遅れてしまったから」

低い声におびえながら続けると、教授は「別に」と素っ気なく返した。

「出席は個人の自由だと思っているから構わないよ。むしろ人数が多いと疲れる」

ようやくパソコンから目を離し、わたしの顔をじっと見つめる。圧がすごい。

「あの、何でしょう……」

「アイスコーヒー」

「……入れてきます」

わたしはそそくさと背を向けて、棚から教授のカップを取り出した。教授室にあるミニ冷蔵庫にコーヒーが常備してあるのも知っている。カップに氷を入れてコーヒーを注ぎ、シロップとミルクをセットして、使用人のように運んでいく。

「そんなことを言いにわざわざ来たのか」

教授はシロップとミルクをコーヒーに入れて、スプーンでくるくるとかき混ぜた。カランコロン、とすずしげな音が響く。 

「それもあるんですけど、それだけじゃなくて。実は、夢できつねに会ったんです」

「……夏休みボケが続いているのか」

「違います。真面目に聞いてください」

「真面目に聞いて何の得がある。前に言っていた、伏見稲荷大社の夢に出てきたっていうきつねか?」

「それが、違うんです。人間に化けてお茶を点てていたんですよ。見知らぬ場所だったし、一体あれは何だったんだろうって気になって」

「お茶?」

途端に、教授の目の色が変わった。カップを机の上に置き、考え込むように腕を組む。こうして見ていると、考える仕草がこん様そっくりだ。いや、こん様が教授に似ているのかもしれない。

「宗旦ぎつねだな」

「そうたんぎつね?」

聞き慣れない言葉に首を傾げると、教授は「相国寺に伝わる伝説だよ」とつけ足して、丁寧に説明をしてくれた。

――昔、相国寺境内に1匹のきつねが住んでいた。千利休の孫である宗旦が茶会を開いた際、このきつねが宗旦に化けて、見事なお手前を披露したそうだ。また、門前の豆腐屋の破産を救ったり、近くの店を繁盛させたりもした。このきつねは人々から宗旦ぎつねと呼ばれ、開運の神として信仰を得たという。

「へぇーっ。京都っておもしろい伝説があるんですね」

となると、夢で見たあの場所は相国寺だったのか。なぜわたしの夢に出てきたかは分からないけれど、教授の話を聞いたらますます興味が湧いた。

「そうだ。来週の講義までに相国寺の写真を撮ってきなさい」

「え、何でですか?」

「教えてあげた報酬。あと、遅刻した罰」

「……分かりました」

普段ならもう少し反論するところだけど、今日に限っては何も言えない。ちょうど行きたいと思っていたし、まぁ、いいか。わたしがうなずくと、教授は満足そうにアイスコーヒーを喉に流し込んだ。





翌日、土曜日。

わたしは教授に言われた通り、カメラを持って相国寺を訪れていた。大学からそんなに離れていないのに、訪れるのは初めてだ。相国寺という名前は知っていても、どこにあるのかは全然知らなかった。以前雪の写真を撮影した金閣寺や、同じく有名な銀閣寺も、この相国寺の塔頭寺院だ。どちらも塔頭とは思えないほど大きいので意外に感じる。

(大丈夫ですか、琴子さん)

カメラについているこん様が、今日は不安そうに揺れている。夢とは違いストラップだし、もふもふ感もないし、何かしゃべるわけでもないけれど、なんとなく、そう言っているように聞こえる。

「大丈夫です。ちゃんと事前に調べてきましたから」

自分を奮い立たせるようにそう言って、わたしは相国寺の境内へと入った。

相国寺は京都五山の第2位に位置する、臨済宗相国寺派の大本山だ。足利義満が発願し、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)や義堂周信(ぎどうしゅうしん)を招いて創建が計画されたのが始まりだという。たびたび火災によって焼失したけれど、そのたびに復興したタフなお寺だ。昔は高さ109メートルと伝えられる七重の大塔もあったようだけれど、これも落雷によって焼失してしまったらしい。

「あっ、あれが豊臣秀頼が寄進した法堂ですね」

大きな法堂を見つけて、わたしは思わず声を上げた。夢の中でも見た法堂は、現存最古かつ最大の規模を誇るというだけあって、とても迫力がある。今は残念ながら非公開だけれど、中の天井には狩野光信の「鳴き龍」が描かれているらしい。

(堂内で手を叩くと、音が反響して龍が鳴いているように聞こえることから、その名がついたそうですよ)

「中に入ることができたらやってみたかったです、それ」

(まぁ、また来ればいいじゃないですか)

「そうですね。近いし、何度でも来れるんだ……」

わたしは法堂の写真を1枚撮って、あたりを見渡した。夢と同じように背の高い木々が茂っている。来たこともない場所なのに、どうして夢に出てきたのだろう。それに、あのきつね。なぜわたしたちにお茶を出してくれたのだろうか。

ふしぎに思いながら、わたしは携帯電話を取り出した。教授に教えてもらった、宗旦ぎつねがいる場所の地図だ。確か法堂の近くに「宗旦稲荷社」と呼ばれる場所があるという。地図を見ながら歩いていくと、「洪音楼(こうおんろう)」という名の鐘楼の隣に、小さな鳥居と祠があった。鳥居の横には変わった形の石があり、「宗旦稲荷」という文字が刻まれている。

「ここが、宗旦稲荷……」

わたしはゆっくりと祠に近づいた。思っていたよりずっとこじんまりしている。祠の両脇には小さな松があり、さらに奥にはきつねの石像があった。わたしは手を合わせて一礼し、まじまじと石像を見つめた。このきつねが宗旦ぎつね。夢に出てきたきつねは当然石像ではなかったから、同じきつねかどうかはいまいち分からない。

ふと見ると、こん様がはしゃぐように揺れていた。それは確かにこの石像こそが夢に出て来たきつねなのだと、わたしに知らせているような気がした。

教授の言葉が気になったので、あれから自分でも宗旦ぎつねについて調べてみた。宗旦ぎつねは、相国寺の塔頭である慈照院の茶室開きでお点前を披露していて、その伝承のある「頤神室(いしんしつ)」は、今なお慈照院に伝えられているらしい。茶室の窓は、宗旦ぎつねが慌てて突き破って逃げた跡を修理したので、普通のお茶室より大きくなってしまったとか。人々から愛された宗旦ぎつねは、死後に修行僧たちの手によって祠を作られ供養されたらしい。その祠こそがここ、宗旦稲荷大社だという。

普通に相国寺を訪れていたら、見落としてしまいそうなほど小さな祠だ。夢に宗旦ぎつねが現れたからこそ、わたしはこうして訪れることができた。そう思ったら、縁を感じずにはいられない。

わたしは祠から少し離れて、宗旦稲荷を写真におさめた。もしかして夢に出てきたのも、久しぶりにお手前を披露したかったからなのだろうか。そうだとしたら、お招きにあずかれたわたしとこん様は、とんでもなくラッキーなのかもしれない。

「さ、他のところも見てまわりましょう」

(ずいぶんやる気ですね)

「教授からの宿題ですから」

わたしはふふっと笑いながら、ゆっくりと歩き出した。注意深く見てまわらなければ、見落としてしまう景色があるかもしれない。どこへ行く時も、その場所の魅力を取りこぼさないようにしたいと思う。

どこからか、こーん……ときつねの遠吠えが聞こえたような気がした。振り向いてみたけれど、きつねの姿はどこにもない。わたしは首を傾げ、再び前を向いて歩き出した。