「新選組の隊旗!」
八木邸の門にかけられた「誠」の旗を見つけたわたしは、間崎教授の前ということも忘れて甲高い声を上げた。
「さっきも通ったのに、気づかなかったのか?」
「教授と話していて気づきませんでした」
「注意力が足りないんだな……」
そういうところだぞ、と言わんばかりに、教授が短く息を吐く。いつもならむっとしてしまうところだけれど、今日のわたしは機嫌がいいので気にしない。壬生寺に続き八木邸まで来ることができるなんて、しかも、それぞれが徒歩1分もしない距離にあるなんて、それだけでファンとして冥利に尽きる。
「ドラマでよく見ますけど、やっぱりすごくかっこいいです。ここが新選組の屯所だったんですね」
入り口の右手側には「京都鶴屋 鶴寿庵」という暖簾がかけられたお店があった。看板には「御菓子司」とあることから、どうやら和菓子屋らしい。教授が暑さから逃れるように店の中に入っていくので、わたしもそのあとに続いた。
「和菓子でも買うんですか?」
「違う」
ぶっきらぼうに吐き捨てて、カウンターの向こう側にいるお店の人に「拝観、ふたりです」と言う。お店の人は、はいはい、と二度うなずいて、ふたり分のチケットを手渡してくれた。
「ここでは拝観とお茶菓子がセットなんだよ。あとでいただこう」
「さっきかき氷を食べたばかりじゃないですか」
「セットなんだから、しかたない」
そう言いながらも、教授は満更でもなさそうな顔をしている。この人の甘いものずきにはもう慣れた。
建物の中は撮影禁止だから、と教授に言われたので、門にかけてある「誠」の旗を1枚だけ写真におさめた。先ほどまでは壬生寺、そして今は八木邸。テレビの向こう側にあった世界がこんなに近くにあるなんて、京都に来るまで気づかなかった。
門を抜けて邸宅に上がると、昔ながらの和風な空間が広がっていた。足の裏から畳のひんやりとした感触が伝わってきて気持ちがいい。壁や家具はどれもこれも年季が入っているけれど、まだ普通の邸宅として住めそうなくらいには手入れされている。
「君のように新選組をかっこいいと思う若い女性も多いが、当時は『壬生狼(みぶろ)』と言われておそれられていたんだよ。元々浪人の集まりだから、問題を起こす者たちが多かったんだ」
「そんな問題児たちを取り締まるために、あの超絶厳しい局中法度があったんですよね」
「さぁ、どうだろうね」
「どうだろう、って、違うんですか?」
局中法度といえば、新選組の象徴とも呼べるものだ。教授は天井から吊るされたオレンジ色の照明をじっと見ている。
「大正時代まで生き残った隊士・永倉新八の『新選組顛末記』には、『禁令』という言葉は出てくるが、『局中法度』という言葉は出てこないんだ。それに、局中法度にある『私ノ闘争ヲ不許』はなかったともいわれている」
「なんだ、そこもフィクションなんですね。分かってましたけど、史実だけを忠実にドラマ化することってあんまりないんですね……」
「だからこそ、ファンが増えるんだろうな」
わたしたちが話している間にも、ひとり、またひとりと拝観者が増えていった。この人たちも、わたしと同じようにドラマや本で新選組を知ったのだろうか。
「8月18日の政変で活躍したことで『新選組』という名前を与えられた彼らは、どんどん活躍の場を増やしていくが、問題行動はなかなか減らなかった。そしてとうとう、会津藩から芹沢鴨らを処分せよとの密命が下るんだ」
あれほど「暑い」と言っていたくせに、教授は汗一つかかずにすずしい顔をしている。わたしの方は額や首筋にじんわりと汗がにじみ、頬が火照ってしかたない。せっかくお化粧をしてきたっていうのに、きっとファンデーションも相当崩れてしまっているに違いない。
「この近くの島原に『角屋』という揚屋があってね。決行当日、角屋で酒に酔った芹沢らは八木邸に連れ戻され、それでもまだ飲み足りないとなじみの芸者を呼んで飲み続けた。彼らが酔い潰れた頃合いに、土方歳三や沖田総司らが忍び込み、一気に斬りつけたんだ。だが、いくら酔っているとはいえ芹沢鴨は神道無念流の剣客だ。一筋縄ではいかなかった」
教授は絵本を読み聞かせるようにゆっくりと話しながら足を進めた。わたしも慌ててあとに続き、そのまま隣の部屋へと移動する。
「乱闘の末、芹沢は隣の部屋の文机につまずいて倒れたところを斬られたといわれている。ほら、これがその時の文机だ。そしてこっちが刀傷。誰がつけたかははっきりとしていないが」
見ると、畳の上には年季の入った文机が、そして鴨居には教授の言う通り刀傷が生々しく残っていた。刀傷は触れられないようにするためだろうか、プラスチックの板で覆われて保護されている。
「刀傷まで当時のまま残ってるんですね。やっぱりドラマで見るのと、実際に見るのとは全然違うなぁ。歴史がより事実として実感できる気がします」
「そうでしょう」
教授が満足そうに微笑んだ。
「芹沢派を粛清したあと、新選組はますます有名になっていった。池田屋事件はまさに絶頂期だったろう。だがそのあと鳥羽伏見の戦いで幕府ともども敗退し……近藤勇は35歳で斬首、土方歳三は五稜郭の戦いで銃弾に倒れた。同じ年、病に伏していた沖田総司は、25歳前後で病死したと言われている」
「みんな若いですよね。そんな若いうちから戦って、死んでいくなんて……」
「……どうした」
わたしの声がかすれたことに気づいたのか、教授が不審そうに顔をしかめた。わたしは「いえ……」と潤んだ瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「沖田総司といえば、黒猫のエピソード、ご存知ですか?」
「……結核で療養中の沖田の前に、死を予感させるような黒猫が現れ、それを斬ろうとしたが体力が落ちていて斬れなかった、というやつか」
「そうです!」
わたしが大きくうなずくと、教授はますます怪しそうに眉を寄せ、わたしから一歩距離を取った。
「言っておくが、それも事実とは……」
「あの天才剣士の沖田が病気でどんどん弱っていって、黒猫を斬れずに絶望したっていうことがとっても悲しくて、めちゃくちゃ印象に残ってるんです。だから改めて沖田のことを考えたらつらくなっちゃって」
「いや、だから」
「『動かねば闇にへだつや花と水』っていう、沖田総司の辞世の句をご存知ですか? まぁこの句自体が捏造だとか、いろいろな解釈があるみたいなんですけど、わたしそれもすきなんです。ドラマをずっと見ているとなんだか感情移入しちゃいますね。特に沖田が1番年齢が近いからでしょうか、若い時から国を思って戦い抜いていく強さとか、病で倒れてしまう弱さとか、いろいろ考え始めたらとまらなくって」
「分かった、分かったから」
教授がうんざりしたように両手を上げたので、ようやくしゃべりすぎた、と我に返った。すみません、と軽く頭を下げたが、それでも興奮は冷めない。
八木邸を出たわたしたちは、先ほど入った「鶴寿庵」に戻りお茶菓子をいただいた。店の中には大河ドラマのポスターが飾られている。壬生寺と八木邸、2ヶ所だけでも満足度が高いけれど、この地にはまだまだ新選組ゆかりの場所がある。同じく旧屯所の前川邸や、山南敬介の墓がある光縁寺など、新選組のファンにはたまらない場所ばかりだ。たとえドラマや小説で事実とは異なる伝え方がされていようとも、それが史実を知るきっかけになればいい。お茶菓子を食べながら、そんなことを思った。
八木邸の門にかけられた「誠」の旗を見つけたわたしは、間崎教授の前ということも忘れて甲高い声を上げた。
「さっきも通ったのに、気づかなかったのか?」
「教授と話していて気づきませんでした」
「注意力が足りないんだな……」
そういうところだぞ、と言わんばかりに、教授が短く息を吐く。いつもならむっとしてしまうところだけれど、今日のわたしは機嫌がいいので気にしない。壬生寺に続き八木邸まで来ることができるなんて、しかも、それぞれが徒歩1分もしない距離にあるなんて、それだけでファンとして冥利に尽きる。
「ドラマでよく見ますけど、やっぱりすごくかっこいいです。ここが新選組の屯所だったんですね」
入り口の右手側には「京都鶴屋 鶴寿庵」という暖簾がかけられたお店があった。看板には「御菓子司」とあることから、どうやら和菓子屋らしい。教授が暑さから逃れるように店の中に入っていくので、わたしもそのあとに続いた。
「和菓子でも買うんですか?」
「違う」
ぶっきらぼうに吐き捨てて、カウンターの向こう側にいるお店の人に「拝観、ふたりです」と言う。お店の人は、はいはい、と二度うなずいて、ふたり分のチケットを手渡してくれた。
「ここでは拝観とお茶菓子がセットなんだよ。あとでいただこう」
「さっきかき氷を食べたばかりじゃないですか」
「セットなんだから、しかたない」
そう言いながらも、教授は満更でもなさそうな顔をしている。この人の甘いものずきにはもう慣れた。
建物の中は撮影禁止だから、と教授に言われたので、門にかけてある「誠」の旗を1枚だけ写真におさめた。先ほどまでは壬生寺、そして今は八木邸。テレビの向こう側にあった世界がこんなに近くにあるなんて、京都に来るまで気づかなかった。
門を抜けて邸宅に上がると、昔ながらの和風な空間が広がっていた。足の裏から畳のひんやりとした感触が伝わってきて気持ちがいい。壁や家具はどれもこれも年季が入っているけれど、まだ普通の邸宅として住めそうなくらいには手入れされている。
「君のように新選組をかっこいいと思う若い女性も多いが、当時は『壬生狼(みぶろ)』と言われておそれられていたんだよ。元々浪人の集まりだから、問題を起こす者たちが多かったんだ」
「そんな問題児たちを取り締まるために、あの超絶厳しい局中法度があったんですよね」
「さぁ、どうだろうね」
「どうだろう、って、違うんですか?」
局中法度といえば、新選組の象徴とも呼べるものだ。教授は天井から吊るされたオレンジ色の照明をじっと見ている。
「大正時代まで生き残った隊士・永倉新八の『新選組顛末記』には、『禁令』という言葉は出てくるが、『局中法度』という言葉は出てこないんだ。それに、局中法度にある『私ノ闘争ヲ不許』はなかったともいわれている」
「なんだ、そこもフィクションなんですね。分かってましたけど、史実だけを忠実にドラマ化することってあんまりないんですね……」
「だからこそ、ファンが増えるんだろうな」
わたしたちが話している間にも、ひとり、またひとりと拝観者が増えていった。この人たちも、わたしと同じようにドラマや本で新選組を知ったのだろうか。
「8月18日の政変で活躍したことで『新選組』という名前を与えられた彼らは、どんどん活躍の場を増やしていくが、問題行動はなかなか減らなかった。そしてとうとう、会津藩から芹沢鴨らを処分せよとの密命が下るんだ」
あれほど「暑い」と言っていたくせに、教授は汗一つかかずにすずしい顔をしている。わたしの方は額や首筋にじんわりと汗がにじみ、頬が火照ってしかたない。せっかくお化粧をしてきたっていうのに、きっとファンデーションも相当崩れてしまっているに違いない。
「この近くの島原に『角屋』という揚屋があってね。決行当日、角屋で酒に酔った芹沢らは八木邸に連れ戻され、それでもまだ飲み足りないとなじみの芸者を呼んで飲み続けた。彼らが酔い潰れた頃合いに、土方歳三や沖田総司らが忍び込み、一気に斬りつけたんだ。だが、いくら酔っているとはいえ芹沢鴨は神道無念流の剣客だ。一筋縄ではいかなかった」
教授は絵本を読み聞かせるようにゆっくりと話しながら足を進めた。わたしも慌ててあとに続き、そのまま隣の部屋へと移動する。
「乱闘の末、芹沢は隣の部屋の文机につまずいて倒れたところを斬られたといわれている。ほら、これがその時の文机だ。そしてこっちが刀傷。誰がつけたかははっきりとしていないが」
見ると、畳の上には年季の入った文机が、そして鴨居には教授の言う通り刀傷が生々しく残っていた。刀傷は触れられないようにするためだろうか、プラスチックの板で覆われて保護されている。
「刀傷まで当時のまま残ってるんですね。やっぱりドラマで見るのと、実際に見るのとは全然違うなぁ。歴史がより事実として実感できる気がします」
「そうでしょう」
教授が満足そうに微笑んだ。
「芹沢派を粛清したあと、新選組はますます有名になっていった。池田屋事件はまさに絶頂期だったろう。だがそのあと鳥羽伏見の戦いで幕府ともども敗退し……近藤勇は35歳で斬首、土方歳三は五稜郭の戦いで銃弾に倒れた。同じ年、病に伏していた沖田総司は、25歳前後で病死したと言われている」
「みんな若いですよね。そんな若いうちから戦って、死んでいくなんて……」
「……どうした」
わたしの声がかすれたことに気づいたのか、教授が不審そうに顔をしかめた。わたしは「いえ……」と潤んだ瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「沖田総司といえば、黒猫のエピソード、ご存知ですか?」
「……結核で療養中の沖田の前に、死を予感させるような黒猫が現れ、それを斬ろうとしたが体力が落ちていて斬れなかった、というやつか」
「そうです!」
わたしが大きくうなずくと、教授はますます怪しそうに眉を寄せ、わたしから一歩距離を取った。
「言っておくが、それも事実とは……」
「あの天才剣士の沖田が病気でどんどん弱っていって、黒猫を斬れずに絶望したっていうことがとっても悲しくて、めちゃくちゃ印象に残ってるんです。だから改めて沖田のことを考えたらつらくなっちゃって」
「いや、だから」
「『動かねば闇にへだつや花と水』っていう、沖田総司の辞世の句をご存知ですか? まぁこの句自体が捏造だとか、いろいろな解釈があるみたいなんですけど、わたしそれもすきなんです。ドラマをずっと見ているとなんだか感情移入しちゃいますね。特に沖田が1番年齢が近いからでしょうか、若い時から国を思って戦い抜いていく強さとか、病で倒れてしまう弱さとか、いろいろ考え始めたらとまらなくって」
「分かった、分かったから」
教授がうんざりしたように両手を上げたので、ようやくしゃべりすぎた、と我に返った。すみません、と軽く頭を下げたが、それでも興奮は冷めない。
八木邸を出たわたしたちは、先ほど入った「鶴寿庵」に戻りお茶菓子をいただいた。店の中には大河ドラマのポスターが飾られている。壬生寺と八木邸、2ヶ所だけでも満足度が高いけれど、この地にはまだまだ新選組ゆかりの場所がある。同じく旧屯所の前川邸や、山南敬介の墓がある光縁寺など、新選組のファンにはたまらない場所ばかりだ。たとえドラマや小説で事実とは異なる伝え方がされていようとも、それが史実を知るきっかけになればいい。お茶菓子を食べながら、そんなことを思った。