五山の送り火を見た翌日、わたしは昨年より少し遅れて名古屋の実家に帰省した。「冬はいみじう寒き、夏は世に知らず暑き」と清少納言が枕草子にも記しているように、京都の夏は肌が焦げてしまいそうなくらい暑い。いくら京都がすきと言えども、灼熱の太陽の下何時間もカメラを下げて歩くことはできないので、この時期は実家でクーラーにあたりながらだらだらと過ごすに限る。
久々の帰省とはいえ、特に楽しいイベントがあるわけでもない。地元の友だちと遊んでも、暑すぎるのでランチを食べたらすぐに解散してしまう。高校までと違って課題も夏期講習もないから、ひたすら父の漫画を読み漁る日々だ。しかし、3日も経てばすべて読み尽くしてしまったので、今度は母がハマっているという大河ドラマを片っ端から見ることにした。ただの暇つぶし、そう思って見始めたのだけれど。
「教授、幕末に関する場所に行きたいです」
「……何だ、いきなり」
8月の最終日、以前みっちゃんとも来た甘味処「みつばち」のあんず氷を食べながら言うと、目の前の男性はあからさまに顔をしかめた。
「母が大河ドラマにハマってて、わたしも帰省中に見始めたんです。そしたらわたしもどハマりしちゃって。いろいろ見たんですけど、新選組とか坂本龍馬とか、幕末がすごくおもしろいなって思ったんです。それぞれドラマがあって、もう本当に最高で、龍馬が殺されるところなんかもう見ていられなかったし、新選組だと山南敬介が切腹するところが悲しくって悲しくって」
「分かった、分かったから」
間崎教授は冷静な声でわたしを制し、目の前のあんず氷をスプーンですくい上げた。てらてらと光る濃厚なあんずを、一口食べては顔をゆるめている。やはりわたしの目論見通り、濃厚なこの味は教授のお気に召したらしい。それがなんだか嬉しくって、わたしもあんず氷を口に運んだ。つい2週間前にも食べたはずなのに、なぜだろう、今の方がもっとおいしく感じる。
「それなら木屋町通周辺でも歩いてきたら。維新の史跡がたくさんあるよ」
「いや、それもいいですけど、そうじゃなくて……今日は送り火に遅れたお詫びに、すきなところに連れていってくれるって言ったじゃないですか」
「去年も同じパターンだったな……」
「教授が毎回お詫びするようなことをするから悪いんです」
去年は帰省中のわたしを強引に京都に呼びつけ、今年は前日にドタキャン。来年こそは穏やかな気持ちで送り火を見たいものだ。
そういえば、教授が地元に帰った理由は何だったのだろう。電話の向こうから聞こえた、焦った声を思い出した。教授があんなに動揺するなんて初めてだ。気になるけれど、なんとなく聞いてはいけないような気がして、聞き出せずにいる。
外に出ると、かき氷で冷えた体が再び太陽熱に晒された。明日から9月なのに、やはりまだまだ灼熱地獄だ。ここ数年、どんどん夏が長くなっている気がする。数十年後には9月、10月も夏真っ盛りと認識されそうだ。
ちょうどよいタイミングで来たバスに乗り、25分ほどかけて壬生の地へと向かった。バスに揺られている間も、よりによってこんな暑い日に出かけるなんて、とか、熱中症になりそうだ、とか、教授はぶつぶつ文句を言っている。
「まだかき氷を食べてバスに乗っただけですよ」
「そうだな、そのままクーラーのきいた部屋で読書をすれば最高だった」
そんな実家で漫画を読むわたしみたいなことを言わないでほしい。
壬生の地は低湿地であることから小泉が多く、水がよく湧き出たことから、「水が生じる地」という意味で「水生」となり、それがいつしか「壬生」という表記になったらしい。バスから降り、日陰を歩きながら、そう教授が教えてくれた。
「京都の地名っておもしろいですね。『天使突抜通』とか、『悪王子町』とか。読めない名前もいっぱいあるし……」
「また気になる地名があったら由来を調べてみるといい。……ほら、着いた」
教授に言われて右側を見ると、「壬生寺延命地蔵尊」と掲げられている大きな門があった。
「ここが壬生寺ですね!」
「壬生には新選組ゆかりの場所がたくさんあるが……まずは、墓参りからじゃないか」
なるほど、とうなずいた。ここ、壬生寺には、新選組隊士が多く眠っているのだ。いつもだったら教授に教えてもらうことばかりだけれど、ドラマで得た知識があるので、さすがのわたしもそのくらいは知っている。今回ばかりは無知を笑われることはあるまい。
「壬生寺は大念仏狂言でも有名でね。知って、いるわけないか……」
「そんなに早く諦めないでください。知っていますよ。えっと、その、狂言くらいなら……」
どんどん声が小さくなるわたしを見て、教授が鼻で笑った。おかしい。こんなはずじゃなかった。
「簡単に言うと、念仏布教のために催された民俗芸能のこと。壬生寺、嵯峨釈迦堂、千本閻魔堂の三つが京都の三大念仏狂言として知られているんだ。京都にいるうちに、狂言や能も見ておきなさい」
「勉強になります……」
境内を歩きながら、わたしは身を縮めた。京都で暮らし始めて1年以上経つというのに、まだまだ知らないことばかりだ。
本堂でお参りを済ませてから阿弥陀堂に入ると、さすが新選組ゆかりの地。阿弥陀如来三尊像が安置されているだけでなく、新選組のグッズが数多く販売されていた。
「お目当てはこっちでしょう」
顔を上げると、教授が受付の人に入場料を払っている。どうやら、さらに奥があるらしい。
教授に導かれるがまま進んでいくと、何やら音楽が流れていることに気がついた。何だろう、この歌は。目の前には赤い橋があり、左手の池には龍の像がある。先ほどまでとは少し、雰囲気が違うような気がする。橋を渡ると、「あゞ、新撰組」という大きな歌碑があった。
『加茂の河原に 千鳥が騒ぐ
またも血の雨 涙雨
武士という名に 生命(いのち)をかけて
新撰組は きょうも行く』
「本当に、新選組って実在したんですね」
「何だ、その小学生みたいな感想は」
「だって、ドラマを見ているとなんとなくフィクションのような気がしちゃって……」
「じゃあ、これを見て現実だと実感しなさい」
歌碑の右手を見ると、少し進んだ先に男性の胸像があることに気がついた。近づいて見てみると、「近藤勇之像」と書いてある。
「これが新選組局長である近藤勇ですね! すごく凛々しいです。ドラマとそっくり」
「いや、ドラマはまた違うだろう……。ほら、こっちの塔が近藤勇の髪が祀られている遺髪塔。新選組隊士の墓があるここは、壬生塚と呼ばれているんだ。芹沢鴨や平山五郎などが眠っている」
「ここに、新選組隊士が……」
わたしはカメラを構えるのをやめ、新選組隊士たちに向かって手を合わせた。幕末の動乱の時代を生きた彼らは、どんな思いで亡くなったのだろう。ドラマや小説でしか知ることができないけれど、現実は想像がつかないほど過酷だったのだろう、とも思う。
「ドラマを見ただけで分かった気になっていたけど、現実は全然違うんですよね。その時代に生きた人じゃないと、その時の日本がどんな空気だったのか、全然分からないんだなぁ」
「だからこそ、知ろうとする気持ちを大切にしなさい。そういう姿勢が何よりも重要だよ」
教授は講義の時のように厳かな声で言った。普段は適当だけれど、やはり教授のこういう言葉は、重く受けとめなければいけない、と感じた。
阿弥陀堂の地下には、壬生寺歴史資料室と呼ばれる空間があった。設置されているテレビには壬生狂言の映像が流れており、狂言に使われているらしき仮面や、新選組古文書・新選組連名墓漢詩拓本といった新選組についての資料、仏像や寺宝などが所狭しと並べられている。
「これが壬生狂言最古の仮面である壬生仮面だよ」
教授に言われて見てみると、それは猿のお面のような、ふしぎな顔立ちをしていた。「最古の仮面」というだけあって、かなり年季が入っていることが分かる。
「あの、教授」
「何」
「狂言って、どんなのでしたっけ。なんだか、能とごっちゃになっていて、よく分からなくて」
「……さっき、狂言は知っていると言わなかったか」
教授の冷めた眼差しに気づいて、さっと目を逸らす。そんなあからさまにあきれた眼差しを向けなくてもいいのに。
暑い日だからか、室内にはわたしたち以外誰もいない。地上でも人の姿はあまり見えなかった。いくら有名な場所とはいえ、この暑さで出歩く人は少ないのだろう。
「ものすごく簡単に言うと、能は歌謡や舞踊が中心で……まぁ現代で例えるとオペラだな。一方、狂言は庶民の日常生活をコミカルに描いたコメディ、という感じか」
「ものすごく簡単に説明していただいてありがとうございます。分かりやすいです」
その平易な説明は、わたしのレベルに合わせてくれたからだろうか。とか思ったものの、口には出さないことにした。
壬生寺は新選組ゆかりの場所、というイメージしかなかったけれど、深く知るとこんなにおもしろい場所だったのか。いつだって実際に足を運ぶと、当初は想像していなかったことを知ることができるから楽しい。
展示室の中を一通り見たあと、わたしたちは阿弥陀堂をあとにした。やはり外に出ると太陽の光が容赦なく降り注いで、また汗が浮かび上がってくる。こうも暑いと、日向に出る勇気がなかなか持てない。わたしはリュックからペットボトルを取り出して水分補給をした。
「そもそも、なぜ幕末がすきなんだ?」
「何でって?」
「ドラマなら、他にもいろいろあるだろう。戦国時代とか、源平の時代とか……」
「そうですね……やっぱり、今までの価値観とか、国のあり方ががらっと変わった時代じゃないですか。新選組だけじゃなくて、坂本龍馬とか勝海舟とか、いろんな人の考え方が混在して、それが今に続いてるんだなぁって思ったら、一番興味が湧きます」
「なるほどね」
教授が歩き始めたので、わたしも慌ててペットボトルをリュックにしまった。
「それだけすきなら、幕末史はもう完璧だな」
「もちろんです。わたし、こう見えて日本史の成績はよかったんですから。ペリーが浦賀にやってきて、大老の井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されて、幕府が京都守護職を作って、会津藩の松平容保を任命して……」
「へぇ、よく知っているじゃないか」
「それで、あとはなんやかんやで新選組ができて、坂本龍馬とか、桂小五郎とか、西郷隆盛とか、いろんな人が活躍して、それが今の日本に繋がっているんです!」
「……本当に分かっているのか?」
わたしはさっと目を逸らした。夏の強い日差しよりも、教授の冷たい眼差しの方がいやだ。教授が大きくため息をついた。
「幕末は国内外の動きが活発となり、これまでの常識がどんどん通用しなくなっていった激動の時代だからね。当初は将軍の警護を名目として上洛した浪士組だったが、清河八郎が尊皇攘夷の大義を説き、その大半は江戸へと引き上げてしまった。この清河と決別したのが、有名な近藤勇・土方歳三、芹沢鴨らだ。彼らは京都に留まり、京都守護職である松平容保の預かりとなって、壬生村にある八木源之丞の邸宅に滞在したんだ」
「そう、そんな感じでしたよね、確か!」
わたしは顔を上げて大袈裟にうなずいた。ドラマでも見たから知っているはずなのに、説明しようと思うとなかなか難しい。教授が「わざとらしいな……」とつぶやく。わたしたちは壬生寺の門を抜け、また路地を歩いた。
「それでよくうちの大学に入れたな」
「いや、説明が苦手なだけで……。八木邸くらいは知ってますから」
「じゃあ、早速その八木邸に行こう」
教授はそう言うと、ぴたりと足をとめた。まだ壬生寺を出たばかりなのに。わたしも慌てて立ちどまると、教授の後ろに、見覚えのある「誠」の御旗印が見えた。目を輝かせたわたしを見て、教授が満足そうに微笑んだ。
「ここが、新選組屯所のあった場所だよ」
久々の帰省とはいえ、特に楽しいイベントがあるわけでもない。地元の友だちと遊んでも、暑すぎるのでランチを食べたらすぐに解散してしまう。高校までと違って課題も夏期講習もないから、ひたすら父の漫画を読み漁る日々だ。しかし、3日も経てばすべて読み尽くしてしまったので、今度は母がハマっているという大河ドラマを片っ端から見ることにした。ただの暇つぶし、そう思って見始めたのだけれど。
「教授、幕末に関する場所に行きたいです」
「……何だ、いきなり」
8月の最終日、以前みっちゃんとも来た甘味処「みつばち」のあんず氷を食べながら言うと、目の前の男性はあからさまに顔をしかめた。
「母が大河ドラマにハマってて、わたしも帰省中に見始めたんです。そしたらわたしもどハマりしちゃって。いろいろ見たんですけど、新選組とか坂本龍馬とか、幕末がすごくおもしろいなって思ったんです。それぞれドラマがあって、もう本当に最高で、龍馬が殺されるところなんかもう見ていられなかったし、新選組だと山南敬介が切腹するところが悲しくって悲しくって」
「分かった、分かったから」
間崎教授は冷静な声でわたしを制し、目の前のあんず氷をスプーンですくい上げた。てらてらと光る濃厚なあんずを、一口食べては顔をゆるめている。やはりわたしの目論見通り、濃厚なこの味は教授のお気に召したらしい。それがなんだか嬉しくって、わたしもあんず氷を口に運んだ。つい2週間前にも食べたはずなのに、なぜだろう、今の方がもっとおいしく感じる。
「それなら木屋町通周辺でも歩いてきたら。維新の史跡がたくさんあるよ」
「いや、それもいいですけど、そうじゃなくて……今日は送り火に遅れたお詫びに、すきなところに連れていってくれるって言ったじゃないですか」
「去年も同じパターンだったな……」
「教授が毎回お詫びするようなことをするから悪いんです」
去年は帰省中のわたしを強引に京都に呼びつけ、今年は前日にドタキャン。来年こそは穏やかな気持ちで送り火を見たいものだ。
そういえば、教授が地元に帰った理由は何だったのだろう。電話の向こうから聞こえた、焦った声を思い出した。教授があんなに動揺するなんて初めてだ。気になるけれど、なんとなく聞いてはいけないような気がして、聞き出せずにいる。
外に出ると、かき氷で冷えた体が再び太陽熱に晒された。明日から9月なのに、やはりまだまだ灼熱地獄だ。ここ数年、どんどん夏が長くなっている気がする。数十年後には9月、10月も夏真っ盛りと認識されそうだ。
ちょうどよいタイミングで来たバスに乗り、25分ほどかけて壬生の地へと向かった。バスに揺られている間も、よりによってこんな暑い日に出かけるなんて、とか、熱中症になりそうだ、とか、教授はぶつぶつ文句を言っている。
「まだかき氷を食べてバスに乗っただけですよ」
「そうだな、そのままクーラーのきいた部屋で読書をすれば最高だった」
そんな実家で漫画を読むわたしみたいなことを言わないでほしい。
壬生の地は低湿地であることから小泉が多く、水がよく湧き出たことから、「水が生じる地」という意味で「水生」となり、それがいつしか「壬生」という表記になったらしい。バスから降り、日陰を歩きながら、そう教授が教えてくれた。
「京都の地名っておもしろいですね。『天使突抜通』とか、『悪王子町』とか。読めない名前もいっぱいあるし……」
「また気になる地名があったら由来を調べてみるといい。……ほら、着いた」
教授に言われて右側を見ると、「壬生寺延命地蔵尊」と掲げられている大きな門があった。
「ここが壬生寺ですね!」
「壬生には新選組ゆかりの場所がたくさんあるが……まずは、墓参りからじゃないか」
なるほど、とうなずいた。ここ、壬生寺には、新選組隊士が多く眠っているのだ。いつもだったら教授に教えてもらうことばかりだけれど、ドラマで得た知識があるので、さすがのわたしもそのくらいは知っている。今回ばかりは無知を笑われることはあるまい。
「壬生寺は大念仏狂言でも有名でね。知って、いるわけないか……」
「そんなに早く諦めないでください。知っていますよ。えっと、その、狂言くらいなら……」
どんどん声が小さくなるわたしを見て、教授が鼻で笑った。おかしい。こんなはずじゃなかった。
「簡単に言うと、念仏布教のために催された民俗芸能のこと。壬生寺、嵯峨釈迦堂、千本閻魔堂の三つが京都の三大念仏狂言として知られているんだ。京都にいるうちに、狂言や能も見ておきなさい」
「勉強になります……」
境内を歩きながら、わたしは身を縮めた。京都で暮らし始めて1年以上経つというのに、まだまだ知らないことばかりだ。
本堂でお参りを済ませてから阿弥陀堂に入ると、さすが新選組ゆかりの地。阿弥陀如来三尊像が安置されているだけでなく、新選組のグッズが数多く販売されていた。
「お目当てはこっちでしょう」
顔を上げると、教授が受付の人に入場料を払っている。どうやら、さらに奥があるらしい。
教授に導かれるがまま進んでいくと、何やら音楽が流れていることに気がついた。何だろう、この歌は。目の前には赤い橋があり、左手の池には龍の像がある。先ほどまでとは少し、雰囲気が違うような気がする。橋を渡ると、「あゞ、新撰組」という大きな歌碑があった。
『加茂の河原に 千鳥が騒ぐ
またも血の雨 涙雨
武士という名に 生命(いのち)をかけて
新撰組は きょうも行く』
「本当に、新選組って実在したんですね」
「何だ、その小学生みたいな感想は」
「だって、ドラマを見ているとなんとなくフィクションのような気がしちゃって……」
「じゃあ、これを見て現実だと実感しなさい」
歌碑の右手を見ると、少し進んだ先に男性の胸像があることに気がついた。近づいて見てみると、「近藤勇之像」と書いてある。
「これが新選組局長である近藤勇ですね! すごく凛々しいです。ドラマとそっくり」
「いや、ドラマはまた違うだろう……。ほら、こっちの塔が近藤勇の髪が祀られている遺髪塔。新選組隊士の墓があるここは、壬生塚と呼ばれているんだ。芹沢鴨や平山五郎などが眠っている」
「ここに、新選組隊士が……」
わたしはカメラを構えるのをやめ、新選組隊士たちに向かって手を合わせた。幕末の動乱の時代を生きた彼らは、どんな思いで亡くなったのだろう。ドラマや小説でしか知ることができないけれど、現実は想像がつかないほど過酷だったのだろう、とも思う。
「ドラマを見ただけで分かった気になっていたけど、現実は全然違うんですよね。その時代に生きた人じゃないと、その時の日本がどんな空気だったのか、全然分からないんだなぁ」
「だからこそ、知ろうとする気持ちを大切にしなさい。そういう姿勢が何よりも重要だよ」
教授は講義の時のように厳かな声で言った。普段は適当だけれど、やはり教授のこういう言葉は、重く受けとめなければいけない、と感じた。
阿弥陀堂の地下には、壬生寺歴史資料室と呼ばれる空間があった。設置されているテレビには壬生狂言の映像が流れており、狂言に使われているらしき仮面や、新選組古文書・新選組連名墓漢詩拓本といった新選組についての資料、仏像や寺宝などが所狭しと並べられている。
「これが壬生狂言最古の仮面である壬生仮面だよ」
教授に言われて見てみると、それは猿のお面のような、ふしぎな顔立ちをしていた。「最古の仮面」というだけあって、かなり年季が入っていることが分かる。
「あの、教授」
「何」
「狂言って、どんなのでしたっけ。なんだか、能とごっちゃになっていて、よく分からなくて」
「……さっき、狂言は知っていると言わなかったか」
教授の冷めた眼差しに気づいて、さっと目を逸らす。そんなあからさまにあきれた眼差しを向けなくてもいいのに。
暑い日だからか、室内にはわたしたち以外誰もいない。地上でも人の姿はあまり見えなかった。いくら有名な場所とはいえ、この暑さで出歩く人は少ないのだろう。
「ものすごく簡単に言うと、能は歌謡や舞踊が中心で……まぁ現代で例えるとオペラだな。一方、狂言は庶民の日常生活をコミカルに描いたコメディ、という感じか」
「ものすごく簡単に説明していただいてありがとうございます。分かりやすいです」
その平易な説明は、わたしのレベルに合わせてくれたからだろうか。とか思ったものの、口には出さないことにした。
壬生寺は新選組ゆかりの場所、というイメージしかなかったけれど、深く知るとこんなにおもしろい場所だったのか。いつだって実際に足を運ぶと、当初は想像していなかったことを知ることができるから楽しい。
展示室の中を一通り見たあと、わたしたちは阿弥陀堂をあとにした。やはり外に出ると太陽の光が容赦なく降り注いで、また汗が浮かび上がってくる。こうも暑いと、日向に出る勇気がなかなか持てない。わたしはリュックからペットボトルを取り出して水分補給をした。
「そもそも、なぜ幕末がすきなんだ?」
「何でって?」
「ドラマなら、他にもいろいろあるだろう。戦国時代とか、源平の時代とか……」
「そうですね……やっぱり、今までの価値観とか、国のあり方ががらっと変わった時代じゃないですか。新選組だけじゃなくて、坂本龍馬とか勝海舟とか、いろんな人の考え方が混在して、それが今に続いてるんだなぁって思ったら、一番興味が湧きます」
「なるほどね」
教授が歩き始めたので、わたしも慌ててペットボトルをリュックにしまった。
「それだけすきなら、幕末史はもう完璧だな」
「もちろんです。わたし、こう見えて日本史の成績はよかったんですから。ペリーが浦賀にやってきて、大老の井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されて、幕府が京都守護職を作って、会津藩の松平容保を任命して……」
「へぇ、よく知っているじゃないか」
「それで、あとはなんやかんやで新選組ができて、坂本龍馬とか、桂小五郎とか、西郷隆盛とか、いろんな人が活躍して、それが今の日本に繋がっているんです!」
「……本当に分かっているのか?」
わたしはさっと目を逸らした。夏の強い日差しよりも、教授の冷たい眼差しの方がいやだ。教授が大きくため息をついた。
「幕末は国内外の動きが活発となり、これまでの常識がどんどん通用しなくなっていった激動の時代だからね。当初は将軍の警護を名目として上洛した浪士組だったが、清河八郎が尊皇攘夷の大義を説き、その大半は江戸へと引き上げてしまった。この清河と決別したのが、有名な近藤勇・土方歳三、芹沢鴨らだ。彼らは京都に留まり、京都守護職である松平容保の預かりとなって、壬生村にある八木源之丞の邸宅に滞在したんだ」
「そう、そんな感じでしたよね、確か!」
わたしは顔を上げて大袈裟にうなずいた。ドラマでも見たから知っているはずなのに、説明しようと思うとなかなか難しい。教授が「わざとらしいな……」とつぶやく。わたしたちは壬生寺の門を抜け、また路地を歩いた。
「それでよくうちの大学に入れたな」
「いや、説明が苦手なだけで……。八木邸くらいは知ってますから」
「じゃあ、早速その八木邸に行こう」
教授はそう言うと、ぴたりと足をとめた。まだ壬生寺を出たばかりなのに。わたしも慌てて立ちどまると、教授の後ろに、見覚えのある「誠」の御旗印が見えた。目を輝かせたわたしを見て、教授が満足そうに微笑んだ。
「ここが、新選組屯所のあった場所だよ」