「晃明がどう思うか、わからなくて。晃明の毎日の中にわたしはいないでしょう。最近よく連絡はくれるけど、その意図も、よくわからない。わたしは写真も、今会えたことも嬉しいよ。でも、もう随分、晃明の日常から外れているわたしが急に割り込むのは悪い気がして」


だから言えなかった、と顔を俯ける柚葉に、特大のため息が零れそうになるのを何とか飲み込んだ。文句はつらつらと出てくる。ただ、僕のことがよくわからない、という言い分が理解できないわけではなかった。

これまでろくに連絡をしていなかったのに、突然写真がほぼ毎日届くようになって、でも言葉でのやり取りは少ないままだなんて、きっと不安にさせていたのだろう。申し訳なさの半分を、それでも嬉しいと言ってくれた喜びに分けながら、緩みそうになる口元を引き締める。


「柚葉」


とん、と許可なく頭に手を置く。陽の下に立つと光を含んで瞬くように輝く髪を指先に絡めるように撫でると、僕を見上げて突き出した喉がこくりと上下した。頬が赤みを帯びるのは、笑ったときだけではない。わかりやすくて、愛らしい。こうめい、と呼ばれた名前をずっと耳に括り付けていられたらいいのに。そんなことは叶わないから、もう一度呼んでと不揃いな双眸を覗いた。


玄関に突っ立っていつまでも立ち話をする僕たちを、柚葉の母親が呼びに来た。外で会えば挨拶は交わすけれど、柚葉のことを尋ねたり聞かされることもなかったから、面と向かって話すのは緊張して、何をきかれて何と答えたのかすら覚えていない。


夕飯もご馳走になって、ソファで寛ぎながら話をしている途中、突然立ち上がったかと思うと、今夜僕を家に泊めてもいい?と何の躊躇もなく両親に伝えた柚葉の隣で呆気に取られ、数秒出遅れた後に自分からもお願いしますと頭を下げた。家族で過ごす時間に割って入れるような間柄でないことは承知している。たかが幼馴染み。それに男女。断られるだろうかと身構えていると、晃明くんならと落ち着いた声が降ってきた。

そんなつもりはなかったのに、というか夕飯だって。柚葉の家で食べると一言連絡は入れたけれど、その後の返事を見ていない。明日、学校もあるし、課題はなんだっけ。数学、わからなかったから復習しておこうと思っていたんだよな、とか。そんなことは、手放しで喜ぶ柚葉には適わなかった。ああいいや、嬉しそうだし、僕も本当は嬉しいし、と思考を放棄した頭で、お礼だけは伝えねばともう一度頭を下げた。


「あ、ありがとう、ございます」
「やった、晃明一度家に帰る?⠀あかねちゃんにも会えるかな?」
「帰る、し、茜も呼んで来るからそんなにはしゃぐな」


くるくると回り出しそうな柚葉の肩を掴む。細くて、小さい。触れた先から壊れてしまいそうなほど、弱い生き物だと感じさせられる。元々小柄だけれど、一層細くなった。

二階に上がった先の一室に足を踏み入れる。物が少ない柚葉の部屋は、綺麗に掃除されていた。小さな天窓には深い藍のウィンドウフィルムが貼られていて、金銀の星が散らばっている。


部屋の端には、ベルベッドの布がかけられた大きな何か。目隠しのように全面が布で覆われたそれは、幼い日、隣に並んだ弾いたアップライトピアノ。

窓の外を見た。もう日は落ちきっていて、ピアノの音が外に漏れても許される時間は過ぎている。でも確かこの部屋、防音だったよなと思い出す。


「何か弾いて、柚葉」
「え……」
「何でもいいから」
「何でもって、言われても」


困惑気な表情で、けれど絶対に嫌だという意思までは無いようだった。あれほど嫌がっていたのに、二度とピアノには触れないと言い放った唇を今はきゅっとかみ締めて、濃いワインレッドの布を取り払う。

白い指先が黒鍵を沈めて、躊躇いがちで繊細な音が部屋を満たした。たったの一音。そこで止まって、柚葉は深く息を吐いていた。

やがてしなやかに泳ぎ始めた指は音を繋いでいく。譜面は何もなくて、どこかで聴いたことがあるような、思い出の底で覚えのある曲だった。

時々半音どこかへ飛んでいった。でも、綺麗な音色だった。
今更、ピアノを弾いてみろと言われても、僕はきっと右手の数本がばたばたと鍵盤の上を跳ね回るだけだろう。それでも。


「柚葉の音なら、聞き分けられる」


遠くにいても、柚葉の音だとわかる、きっと。音に色が見えるような、そんな能力はないし、この耳が特別だなんて言わないけれど、柚葉の音なら決して間違えたくない。たとえこの自信が、明日には崩れ去るような脆さでいたとしても。


「そっか」
「嫌?」
「嫌とかじゃないけど……でも、わたしもう、昔みたいに弾けないよ」
「知ってる、でも今すごく楽しそうだった」


過去の感覚だけではないと思う。嬉しそうだった、楽しそうだった。僕にピアノを教えるその横で笑っていた昔の姿と変わらずに。

ぽた、と透明な雫が落ちていく。白鍵の隙間に消えたそれを見間違いかと疑うけれど、すぐに追いかける次の雫が今度は柚葉の手の甲に落ちた。


「できていたこと、たくさん、できなくなった」
「うん」
「余命宣告、さ、あるなら、するなら、本当にその通りになればいいのにって思ったの。新しい治療法だって何度試しても病気、なくならなくて。いのちのおわりが、先送りになっていくだけで。したいことももうほとんどないのに。自分のためじゃなくて、人のために……お母さんと、お父さんのために生きているみたいで。それが嫌なわけじゃないよ、しにたいわけでもないし、でも、時々全部、いやになって」


何度か相槌を入れていたけれど、途中で必要ないだろうなと気付いた。語りかけているというよりは独白のような。柚葉の本心に触れていると思うと、不用意に声をかけるべきではないような気がした。

河川敷の見える病室で、柚葉はいつもどんなことをしているのだろうと考えたことがある。穏やかに過ごせているだろうかと。きっとそんな日もあるだろう。痛みもなく、心の落ち着くときがたぶんあって、でもそれはずっとは続かない。痛いとか辛いとか、今だって一言も口にしないけれど、痩せた体躯や顔色を見ていれば、苦しいほどその痛みを感じる。それすら遠く及ばないのに。