爽やかな快晴の青空とは対照的に、地上を吹き抜ける風は荒々しく通り道にある物全てを乱暴に揺らした。
 青々とした木々は葉を大量に持って行かれ、道行く人は速度を奪われた。
 全開にした窓から荒くれ者の風が迷い込んで純白で満たされた室内を物色していき、窓辺に腰掛ける少年の茶色い短髪と病院服を乱して去って行った。
 少年は乱れた髪を手櫛で軽く整え、儚げに笑った。

「自分勝手でごめんね、姉さん。けれど、もう僕にはこの世界で幸せに生きていく事なんて出来ないよ……」

 ふわっと窓の外へ背中から落ちていく。それは皮肉にも彼が得意だった高跳びを連想させた。

「だ、駄目!」

 伸ばした手は何も掴めず、少年は外で待ち構えていた風に攫われていった――――。

 ***

 水戸ちかげはハッと目を覚ました。片手は天井へ伸び、額には汗の玉が幾つも浮かんでいた。

 ああ……夢か。

 一気に力が抜けた手はだらりと下がり、ついでに額の汗を拭う。
 カチコチと時計の音がする。辺りは仄暗い。
 家事を終えてソファーで一休みしていたら眠ってしまっていたようで、開けっぱなしのカーテンの向こうは夜だった。
 水戸は気怠げに身体を起こし、壁掛け時計を見た。もうそろそろ夕食の時間だが、出掛けたきり鏡崎親子は帰って来ない。アルナもまた、いつの間にか姿を消していた。
 ローテーブルを見るとスマートフォンのお知らせランプが光っていた。華音からのメッセージ通知だった。
 内容は祭りに行って来るから夕食はいらないとの事だった。
 水戸はスマートフォンを握ったまま背もたれにもたれかかった。

「お祭り、か」

 もうそんな時期。思い浮かぶのは少年の儚げな笑顔。
 水戸が学生だった頃、毎年彼を連れて祭りに行った。その時の彼の笑顔には儚さはなく、無邪気で輝いていた。幾つになっても少年心を忘れていなかった。
 だから、あんなに儚げに笑った姿が衝撃的で今でも忘れる事が出来なかった。夢にまで出るぐらい。
 水戸はスマートフォンを眼前に持って来て、表示させた写真を眺めた。

千尋(ちひろ)……」

 そこに映っていたのは、夢で再会した儚げに笑うあの少年だった。



 煌びやかな市街地から少し外れた場所に、高い門と塀に囲まれた荘厳な建造物が建っていた。そこは刑罰を犯した者が収容される刑務所だ。
 容易には侵入不可能なその場所の塀を1つの兎程の小さな影がよじ登っていく。
 明かりの下明らかとなったのはとげとげとした土色の身体をした、一般的なトカゲよりもお腹周りがふっくらやや円形になっているフトアゴヒゲトカゲだった。恐竜の様なカッコイイ風貌が人気で近年飼う人が増えていると言うが……。
 フトアゴヒゲトカゲは外来種。当然日本に生息していない為、野生で見掛けた場合は飼育されていたものが逃げ出したとしか考えられない。
 しかし、現在刑務所内を堂々と歩くトカゲはペットと呼ぶには忠実な配下の様な雰囲気があり、極めつけは瞳がエメラルドグリーンである事が唯一の可能性を否定した。本来、瞳は黄色である。
 得たいの知れないトカゲは建造物の僅かな隙間からしゅるりと内部へと侵入。牢が並ぶ暗い通路を進んでいく。
 牢の中からは規則的な寝息が聞こえて来る。
 トカゲは1番奥の牢の前で止まると、鉄格子に近付いてエメラルドグリーンの瞳にベッドの上で眠っている青年を映した。
 トカゲ自身が視ていると言うよりも、トカゲの目を通じて誰かが覗き見ている様だった。
 トカゲは鉄格子の間を難なく通り抜け、ベッドによじ登る。そこで青年の姿を再確認した。
 前髪の一房が跳ね上がっている黒の短髪に、健康的な肌、体格は程よく筋肉が付いていて男性的だ。瞳の色は閉じていて分からないが睫毛は標準的な長さで、整った顔立ちであるが華音とは違うタイプだ。
 トカゲの視線に気付いたのか、不意に青年が目を覚ました。オリーブ色の瞳で猫目だった。
 トカゲは反射的に固まった。

「んん? ちっちゃな恐竜? あーいや、フトアゴヒゲトカゲ? 何でこんなところに……。まあ、いいや……」

 青年は布団を被り直し、瞼を閉じた。
 数分もしないうちに寝息が聞こえ始めると、トカゲは何事もなかったかの様にベッドから降りた。


 翌日の早朝、まだ夢の世界の青年のもとへ看守がやって来た。

「おい、起きろ」

 看守が布団を剥ぎ取ろうとすると、青年は布団を強く引っ張って寝返りを打った。

「うーん……コーヒーはドリップする前にまず蒸らさないと……」
「何を言っているんだ。さっさと起きろ!」

 看守は目一杯布団を引っ張り返し、青年から奪い取った。
 青年は薄らと目を開けた。

「ありゃ……もう朝食の時間ですか?」
「忘れたのか。これで最後だろう。竜泉寺賢人(りゅうせんじけんと)お前は今日釈放されるんだよ」
「あぁっ!? そうでした!」

 青年――――賢人は飛び起き、せっせと身支度を始めた。
 看守に連れられて門を潜った賢人は、久しぶりに外の空気を身体全体で味わった。
 朝日が眩しくて心地良い。ひんやりしたそよ風が気持ち良い。
 刑務所内でも決してずっと牢の中という訳ではなくある程度の自由は許されていたのだが、やはり気持ち的にも刑務所の外は広大で伸び伸びとしていた。
 賢人は看守に最後の挨拶を済ませ、歩いて行く。
 ひっそりと音も立てずにフトアゴヒゲトカゲがついて来ている事には気付く事はなかったのだった。