見慣れた家の対面式キッチンに、若い女性の姿がある。後ろで結った髪は黒く、長身である為、水戸ではない。誰だったか思い出そうとすると、女性が顔を上げた。長い睫毛の縁取る大きな黒目に、形の良い唇、ほんのりと桜色の頬……思い出した。この人は母だ。自分の知る彼女はこんな風に柔らかな表情をしているイメージはなかったが、見間違える筈がなかった。

「華音。今日はね、カボチャのコロッケを作ってるの。好きでしょう?」

 ああ……そうだ。この日の夕食は母手作りのカボチャのコロッケで、少し歪な形をしていたけれど美味しかった。父も居て、久しぶりの家族3人での食卓だった。高価な調度品で溢れている室内は温かさに包まれていた。
 それが、いつからだろうか。空虚だけが募る空間へと変わったのは……。
 薄暮時、母は部屋に灯りも点けずにローテーブルに突っ伏している事が多くなった。小学校から帰って来た華音が灯りを点けると、母は顔も上げずに「お帰り」と寝言の様に呟いた。
 華音がキッチン前のテーブルに目をやると、皿一枚置かれていなかった。華音はランドセルを下ろし、腹の前で抱えてじっと母を見下ろした。

「ねえ、お母さん。ご飯は? お腹空いた」
「あぁ……そうだったわね」と、母は気怠そうに起き上がり、のそのそと歩き出す。「出前頼むわ。何でもいいわよね」

 華音が何か言う前に母はリビングルームから消えてしまったので、反論の余地はなかった。本当は母の手料理……あの日の様な歪なカボチャのコロッケが食べたい、だなんて言える筈がなかった。
 今でこそ頭脳明晰、運動神経抜群の優等生である華音だが、最初からそうではなかった。他人よりは優れてはいたが、目立つ程でもなく、テストの点数も70点台を採る事もあった。少々、国語の物語の読み取りが不得意だった。
 多少苦手があるのは仕方がない事だと担任教師は優しく笑ってくれたが、母は許してくれなかった。70点台の解答用紙を見た母は眉を吊り上げ、華音の手首を握ると、発狂した様にこう言った。

「何で出来ないの!」

 こんなに激怒した母を見た事がなくて、恐くて、華音は唯母の言葉を脳内で反芻した。結果、何でも出来る子供になろうと思った。「何で出来ないの!」その言葉を2度と聞かない為に。

 ***


 長い夢から目が覚めた華音の額には、汗の玉が浮かんでいた。記憶の奥底に沈めておいたモノが、ご丁寧に映像になって夢で流されるなんて思ってもみなかった。最悪な目覚めだ、と不機嫌な顔で上体を起こす。横には丸椅子に腰掛ける水戸の姿があった。

「華音くん! も、もう大丈夫そうですか?」

 水戸の瞳には涙が浮かんでいて、華音は驚いた。そんなに不安にさせていたのだろうか。水戸にとって華音は雇い主の息子であって、それ以上でもそれ以下でもない、生活を共にしているだけの存在。身内ならともかく、血の繋がりも一切ない彼女が自分を心配してくれている状況が華音には意外で、だけどすぐに、雇い主の息子に何かあれば水戸の立場がないと言う事に気付いて納得した。そうだ。所詮そんなものだ。
 華音は水戸の問い掛けに頷く事で返し、辺りを確認した。洗練された白の空間に、自分が身体を預けている白のベッド、薬品か何かの独特なニオイ、遠くの景色がよく見える窓――――此処は病院だ。
 この病室は個室で、華音と水戸の2人きりだ。妙な緊張感と静けさはそのせいかもしれない。
 華音は綺麗に包帯の巻かれた左腕を見た。魔物を4体倒し、魔女を探したが見つけられずに帰宅した事を、ぼんやりと思い出す。あの時は夜だったが、窓の外は既に明るく、夜が明けている事は明白だった。華音はハッとした様に、水戸の顔を見た。

「水戸さん、今何時?」
「はい。今は15時20分を過ぎたところです」

 水戸は腕時計を見ながら言い、華音はゾッとした。

「嘘でしょ……。そんなに寝てたの?」
「出血が酷かったですからね……」
「学校、今からじゃ間に合わない……」
「そうですね。今日は安静にして、明日行きましょう? あ。ちゃんと、学校には連絡を入れてありますので、ご安心下さい」
「そ、そう言う問題じゃなくて」

 もうつける嘘がない。2日連続で怪我をし、その2日目でこうして病院行きだ。雷には学校で会う約束までしたのに、何があったらこうなるのか、最早説明のしようがなかった。心配するだろう、と言うのは自意識過剰かもしれないが、不安要素が増えるのは双方よくない事だ。
 華音は眉間に皺を寄せ、ギュッとシーツを握った。

「華音くん……」

 水戸の低い声がし、華音は手と表情を緩めて水戸を見た。真剣な視線がぶつかる。

「通り魔かと思ったのですが、どうやら、その怪我は肉食動物か何かに噛まれたんじゃないかって。何があったんですか?」

 水戸の真剣な眼差しから目を逸らす様に、華音はシーツを見つめた。

「凶暴な大型犬に出くわしてね。でも、警察の人がちゃんと捕まえてくれたから、水戸さんが襲われる事はないと思うよ」

 これを聞いたら、雷が土下座しそうだと思った。実際、雷は何も悪くないのだが、そもそも雷が華音を電話で呼び出さなければ、こんな怪我をせずに済んだ訳で。雷からすると、自分が華音を怪我させてしまったと責任を感じてしまうのだ。元より、そう言う心優しい奴だ。
 水戸は大きな目をパチクリさせ、眉を下げた。

「それは……恐かったですね」

 水戸は嘘を信じてくれた様だ。
 華音は水戸が同情してくれている最中、話の穴に気付いてひやっとした。警察が居たのなら大怪我をした少年を放置する筈がないし、華音も警察にお世話になれば良かったのだ。水戸がそこについて触れなかったのは、態となのか天然なのかは分からないが、助かった。しかし、問題なのが、この嘘が益々雷に話す事が出来なくなったのと、別の嘘を半日で考えると言う事だ。
 気晴らしに窓の外を見ると、駐車場脇に植えられた木に、雀と混じって使い魔が停っていた。あれはオズワルドの目であり、耳だ。オズワルドは使い魔を通じて華音の近況を知る事が出来、今もそんなところだろう。

「あの、何か食べますか?」

 水戸の控えめな声が聞こえ、華音の視線は再び彼女へ戻った。そういえば、昨日の夕食を摂ってから何も食べておらず、胃の中は空っぽだ。食事と言う気分ではなかったが、水戸が自分の薄い腹をさり気なく摩っていたので、ベッドから降りた。

「食べようか。水戸さんも、何も食べていないんでしょ?」

 水戸は目を丸くすると、斜め下を向いて頬をほんのり赤く染めた。

「よく分かりましたね」
「水戸さん、分かり易いから」
「分かり易いですか? でも、華音くん……気付いていないですよね」
「ん? 何が?」

 既に一歩踏み出していた華音は、何処かあどけない表情で振り返った。

「いいえ。何でもありません。さて、行きましょうか」

 水戸はニッコリと笑い、華音の後をついていった。鼓動は早くなり、頬は熱を帯びる。華音が気付く筈もない、ひっそりと胸に秘めた水戸の想いを。


 翌朝、華音は水戸の運転する軽自動車に揺られていた。ドアに肘をついた顔は不機嫌そのもの。家を出る時、水戸に呼び止められて車で行く事を勧められた……いや、どちらかと言えば決められたのだ。華音が丁重にお断りしても無駄だった。
 水戸は、ルームミラーに映る華音の顔が不機嫌なままである事を気にしていた。

「あんな怪我をして帰って来たので、まだ心配なんです」
「心配しすぎだよ。ほら、皆普通に歩いてるし……」

 華音は道路沿いを歩く学生や会社員を、少し羨ましそうに見ていた。彼らからすれば、車に揺られているだけの華音の方がそう見えるのだが。
 水戸の優しさも、華音にとってはいい迷惑だ。車での登校なんて、目立って仕方がない。
 高校が近くなると、華音はスッと人通りがまばらな脇道を指差した。

「あの辺でいいよ」
「校門まですぐですし、校門でも大丈夫ですけど……」
「いいんだよ。目立つから」
「そうですか。分かりました」

 水戸が華音の指定する場所に車を停めると、華音は鞄を肩から提げて車を降りた。バタンとドアが閉まり、車が発進すると、同級生達が横を通り過ぎた。一瞬華音へ向けられたその目は羨望。さすが、鏡崎家。良いな、金持ちは。自分達とは住む世界が違うよ。最近は言われなくなったその言葉が微かに聞こえ、華音は溜め息を吐いた。
 お金があるから幸せだとは限らない、お金では家の空虚感は埋まらない。人を羨むばかりで本質を見ようとしない彼らに、本当、嫌気が差す。

「あれ? かがみん!」

 後ろから間の抜けた声がし、華音は振り返った。すぐに視界に飛び込んで来たアホ面に、モヤモヤと湧き上がっていた黒い感情が何処かへいってしまった。華音は態と呆れ顔を作った。

「……何だ、アホか」
「アホじゃない、刃だ! ほら、一緒に。やーいーばっ!」
「はいはい。刃さん」
「華音ちゃん冷たーい」

 2人のいつも通りのやり取りを、通り過ぎていく鏡国(きょうごく)高校の生徒達は不思議そうな顔で一瞥していく。優等生と不良の組み合わせが意外なのだ。一見楽しげだが、下手をすれば、優等生が不良に絡まれている様に見えてしまう。
 周りの視線を気にしていない2人は、その雰囲気のまま、背の高くて立派な校門を潜っていく。

「華音ちゃんさー」
「その呼び方はやめろ」
「……かがみんさー」
「その呼び方もやめろ」
「…………鏡崎さんさー」
「……もう好きに呼んで」
「えっ! じゃ、かがみんさー」
「何?」
「昨日、学校休んだじゃん。怪我で入院したんだって? 雷から聞いた話だと、最後に電話した時は元気そうだったって言うじゃない。あの後、一体何があったんよ?」
「えっと……」
「鏡崎!」

 刃のものではない声が聞こえ、華音は刃と一緒に後ろを振り返った。長い前髪ごと後ろで結った黒髪を揺らしながら、雷が走って来た。

「雷……」

 華音は気まずさを感じた。
 親友2人が早くも揃ってしまった状況に、もう逃げ場はない。
 雷が華音の予想通り華音を心配し、刃と同じ事を質問してきた。先程雷の登場に遮られたそれを、ローファーから上履きに履き替え、教室へ向かう道のりで何て事はない風に答える。

「脇道から飛び出して来た車に接触して怪我したんだ。そんなに大した事はないんだけど、水戸さん……うちの家政婦が心配してね」

 半日で考えついた嘘。完璧なポーカーフェイスと合せ、これを嘘だと見抜く事は容易ではないと華音は自信があった。
 教室に着いた頃には話題は全く別の方向へ逸れ、華音の嘘は2人の親友の中では真実になった。