雷の家は華音の家とは鏡国高校を挟んで向こう側、反対方面だ。水戸に車で送ってもらった方が良かったと思いつつも、大通り沿いまで出てしまってからでは遅い。適当にタクシーを捕まえ、雷のもとを目指す。
 車だと、雷の家はすぐだった。
 タクシーを降りた華音は雷の家から、1番近いコンビニを目指した。どの道で向かったのか分からないが、この2つの建物の中間地点に居る事は間違いない。
 華音は走った。
 オズワルドは魔物の仕業だと断定したが、それなら、先程まで電話をかけていた雷は無事なのだろうか? あの恐ろしい赤の双眸の魔物を思い出し、華音は身震いがした。
 民家の角を曲がると、街灯に照らされた3つの人影を発見した。すぐに雷とその妹と弟だと気付いた華音は、急いで駆けつけた。

「雷!」
「鏡崎!」

 顔を上げた雷の顔は、これまで華音が見た事のない程の弱々しいものだった。逞しい腕の中では、年端もいかない妹と弟が血の気を失ってぐったりとしていてびくともしない。大切な家族を抱え震える親友に手を差し伸べようとした華音だが、親友の背後に黒い影が忍び寄っていて血相を変えて親友の名を叫んだ。

「雷! 危ない!」

 ただならぬ事態に、雷は悲しみを一旦傍らに置き、後ろを振り返った。

「な、何だ、コイツは……」

 間一髪、魔物の牙から逃れる事が出来た。
 獲物を目の前で逃がした魔物は、腹の底に響く様な低い唸り声を上げた。
 影の様に黒い身体に、怪しく輝く赤の双眸……華音が初めて見た魔物と似ているが、形状が少し犬と言うより熊に近かった。身体も大きい。こんなものに襲われたら、人間など一溜まりもない。
 華音が魔物に近付くと、魔物は彼を飛び越えて闇の向こうへ消えていった。
 まさか、魔女のもとへ……。恐らく、あの魔物が雷の妹と弟の生命力を奪った犯人だ。このまま逃がす訳にはいかない。
 無意識に華音の足は魔物が向かった方へ向かっていた。
 後ろから、困惑した雷の声が聞こえた。

「か、鏡崎?」
「すぐに助けを呼んでくる!」

 華音は早口でそう告げ、雷の前から消えた。
 雷からすれば、得体の知れない生物が出現した場所で、気を失った妹と弟と一緒に置き去りにされた様で、より一層不安が増幅したのだった。

 華音は走っている最中、自分の行動の危うさに気付いた。親友を不安にさせ、オズワルドの力もなしに魔物を追いかけているだけなんて、唯の能無しだ。何をしているんだろうと思いつつも、足を止めて踵を返すのもおかしいと思ったので、そのまま走る。いつの間にか、使い魔が隣を羽ばたいていた。
 目の前に街灯の光よりも強い光が見え、華音はふと思い立って、使い魔同伴でそこに飛び込んだ。
 自動ドアを潜ると独特の電子音が鳴り、レジカウンターからアルバイト店員が「いらっしゃいませー」と気怠い挨拶をした。
 華音は綺麗に陳列されている商品に目もくれず、ペットボトル飲料の陳列棚横の細い通路を進んでいった。その先に1つの扉があり、開くと一面タイルに覆われた空間に出た。個室が2つに、人1人が通れそうな窓が1つ、蛇口と鏡が2つずつ備えつけられていて、華音は使い魔を肩に乗せて鏡の前に立った。ゆらりと鏡面が揺れ、異次元の魔法使いの姿が映し出される。

「オズワルド。力を貸してくれ」
「お前から頼んでくるとはな。勿論そのつもりだ。さあ、以前と同じく鏡に触れろ」

 向けられた手の平に、手を重ねる華音。触れた箇所から青白い光が溢れ、周りを包み込む。
 華音の目の前にオズワルドが現れ、両肩を掴まれて重なり合う様に一体化する。使い魔も、青水晶の杖へと変化する。
 パッと光が消えると、華音の姿は鏡の中にいた少年の姿と全く同じになり、杖が片手に収まっていた。
 華音は琥珀色の目を吊り上げ、窓を開けてヒョイっと猫の如くそこを飛び越えた。

『カノン、あそこだ!』

 脳内でオズワルドの声が響き、華音は視線を前方へ向けた。そこには、先程の熊の様な形状の魔物と、通行人と思しき会社帰りの男性が居た。両者は対峙……否、男性が魔物に睨まれて硬直していた。
 華音は魔物の背後目掛け、目一杯杖を振るった。
 ゴンっと重厚感たっぷりな音が響き、魔物は短い悲鳴を上げてぐらりと倒れた。

「おわぁっ」

 何故か男性の悲鳴も聞こえ、華音は青褪めた。

「し、しまった! あの人まで……」

 男性は倒れた魔物の下敷きになり、気を失った。
 オズワルドがクスッと笑った。

『まあ、この姿が見られなくて好都合だったじゃないか』

 聞き捨てならなかった。

「え……。これ、人に見えるの?」
『当たり前だろ。身体はお前なのだから』

 と、平然と言うオズワルド。
 華音はひらりとした白いローブを掴んで眉を顰めた。

「うわ……。こんなコスプレみたいなの見られたらおしまいだ……」
『おい、カノン』
「な、何だよ」

 何気ない発言がオズワルドの癇に触ったのだろうかと身構えたが、華音に憑依したオズワルドの視線と意識は別の方へ向いていた。

『魔物が起き出した』

 オズワルドの声によって華音も、彼と同じ方へ視線と意識を向けてギョッとした。オズワルドの言葉通りである。熊の魔物は頭を振り、鋭い牙の間から低い唸り声を漏らした。
 オズワルドは舌打ちした。

『今のうちに詠唱しておけば良いものを……』
「お前がずっと喋っていたからだろ」
『私のせいにするか。もう間に合わん。躱すか、防げ』
「無茶言うな!」

 もう既に体勢を立て直した魔物は、華音に一直線。大きな身体が猛スピードで迫って来ていた。
 華音は何も出来ず、あっさりと魔物に突き飛ばされた。
 背中が電柱に激突し、ずるりと落ちた華音に激痛が襲いかかってきて、思わずそこで蹲った。脳内では、オズワルドが必死に彼の名を呼ぶ。
 また目の前に、魔物が迫って来ていた。
 魔物が大口を開け、大気中のマナが収束していって口内が赤く光り出す。
 肌に感じた熱に顔を上げた華音の視界を、マナから姿を変えた紅蓮の炎が一瞬で覆い隠す。
 焼かれると思った瞬間、咄嗟に杖を盾にした。
 ザバっと水の流れる音がし、杖を軸に水の壁が出現。炎を遮った。
 華音は目を見開き、硬直した。

『水の加護を受けしこの私に、炎など効かない』

 自信しか感じられないオズワルドの声が脳内に響き、華音は瞬きをして呼吸をした。
 オズワルドは偉そうではなく、間違いなく偉いのだ。自画自賛しているのが残念なところであるが、それが事実で、華音は素直に感心した。
 渾身の一撃をあっさりと防がれるとは思っていなかった魔物は慄然とし、その隙に華音は塀の上に避難した。

『ダメージを与えてから、隙をついて魔術を使え。前やった通りにやれば大丈夫だ』

 オズワルドの戦法に従い、華音は決心を固めてそこから飛び降りて魔物のもとへ向かう。
 漸く動き始めた魔物の頭上目掛け、杖を振り下ろす――――が、寸前で弾かれてしまった。
 反動で吹き飛んだ華音は宙返りして着地。そこへ、魔物が勢いをつけて走って来る。
 躱そうと右へ動いたが、数秒遅れた左腕が魔物の餌食となった。鋭い牙で固定された左腕を無理に動かせば、忽ち血が溢れて激痛が走り抜ける。
 華音は脂汗で湿る右手で杖を振り回し、魔物の強面に命中させる。
 魔物は短い悲鳴を上げ、華音の左腕を離した。途端、血が吹き出す左腕。
 傷はズキズキと痛み、炎の中に突っ込んでいるかの様に熱く、そのうち燃え尽きてもげてしまいそうな、自分の腕が腕じゃなくなる感覚が華音を襲う。いっそ、腕を切り落としてしまった方がマシだと血迷った選択をしてしまいそうになる程に、耐え難い痛みだった。
 姿形はオズワルドだが、本人は魂だけなので華音のダメージを共有出来ない。実戦経験が皆無に等しい少年を戦わせているので、少なからず申し訳ないと思っており、実体のないオズワルドの表情は憂いを帯びていた。けれど、この戦いから降りていいとは決して口にしない。オズワルドは憂いを隠し、表情を引き締めた。

『真っ向から勝負を挑んでも力で負ける。相手の動きをよく見ながら攻撃しろ』

 正面より突進して来る魔物を、華音は擦れ擦れで躱した。
 血がポタポタと地面に落ち、激痛のせいで意識が朦朧としてきた。呼吸も苦しい。こんな戦い、早く終わらせてしまいたいが、死を以て終わりにはしたくない。それはつまり、自分が勝利する事でしか叶わない未来。華音は自分を奮い立たせ、杖を握り直した。眼光はこれまでで1番鋭く、真っ直ぐ獲物を見つめていた。
 オズワルドはニヤリと笑う。
 次に突進して来た魔物を軽々と躱した華音は、魔物がそれに気付いて振るった豪腕すらも反対側へ跳ぶ事で躱し、まだ痛みの引かない左腕を押さえた。
 遅い、新たに感じた魔物の印象だ。
 それを確かめるべく、華音は態と魔物の行動を待つ。
 魔物の攻撃はすぐに繰り出されたが、ほんの数秒遅れをとっていた。華音は魔物の頭上を跳び越え、背後に着地。

 急な方向転換は少し苦手みたいだ。普通にしたら十分速いけど、オレよりは遅い。

 気付いてしまえば何て事ない。華音は魔物が反応する前に、素早く杖を振るい、反撃して来る魔物を避けては杖を振るうを繰り返した。
 魔物に学習能力がない事が幸いし、同じ戦法を3度程繰り返した後、遂に魔物を地面に転がす事に成功。直ぐ様塀へと移動し、目を閉じて意識を集中させる。
 大気中のマナが引き寄せられて来る。
 華音の身体の中心から、泉の様に力が湧き出る。
 空気がヒュっと冷え、脳裏に呪文が浮かぶ。

「貫け! ――――アイシクルスピア!」

 琥珀色の目を開き、杖を対象へ向けると、空中に出現した無数の氷の刃が一斉に落下し、魔物を串刺しにした。
 魔物は消滅し、キラキラと輝くものが夜空へ舞い上がって何処かへ消えていった。
 華音は息をついて杖を下ろした。

「これで、雷の妹と弟も目を覚ますな」

 全てが終わって、夜は本来の静寂を取り戻した……かに思えた。