電車に揺られ、華音は首筋を押さえた。

「大丈夫? やっぱり痛い?」

 隣に座る桜花が声を掛けると、華音は小さく頷いた。

「兎に噛まれると痛いんだな……」
「そりゃそうよ。見るからに歯が頑丈そうじゃない」
「草食動物だからってなめてた。……それにしても、アルナってさ」
「悪い娘じゃないわよね」
「けど、逃げられたぞ」

 扉横に設置された鏡から、さりげなくオズワルドが話に割り込んだ。

「それは……仕方なかったと言うか、こっちもタイムリミット迫ってたし」
「ん? 華音、話が繋がってない……」

 オズワルドの声が聞こえない桜花には、不自然でしかない流れになっていた。
 華音はそれに気付くと、鏡に視線を向けた。

「オズワルドの言葉に返しただけ。ドロシー王女は居ないのか?」
「第2王女とは言え、暇じゃないからな」
「それってつまり、お前が暇……」
「………………」

 オズワルドが何も反論してこなくなり、華音も何も言えなくなった。
 桜花は2人のやり取りが分からないので、ずっと首を傾げていた。
 2人を乗せた電車は、目的の駅に到着した。


 電車を見送り、駅から出ると、未だに隣に居る華音へ桜花は不満の目を向けた。

「ねえ、いつまで一緒に居るつもりなのよ」
「キミの家まで。って言っても、キミのお父さんに鉢合わせたら面倒だから、近辺までで」

 華音がサラっと返すと、桜花の表情は更に歪んだ。

「わ、わたし子供じゃないから1人で帰れるわ!」
「16歳って子供だと思うけど。じゃなくて、もう時間が遅いし。此処、人通りがあんまりないだろ」

 街灯が頼りなくチカチカ光る道に、寂しげな風が通り抜けていく。風樹のざわめきが一層静寂を際立てる。
 華音は不満げな桜花の脇を摺り抜けて一歩前に出た。

「ちゃんと送り届けるから」
「で、でも! わたしを送った後、キミが1人になっちゃうじゃない? そっちの方が心配よ」

 華音が向き直ると、桜花が不安げに両手を胸の前で重ねていた。
 華音はフッと笑った。

「桜花はオレを何だと思ってるんだよ」
「何だとって……人間!」
「はい、正解!」
「やった!」
「あーえっと、そうじゃなくて! 人間である前に男なんだよ。いくらキミの力が強くても、屈強な男が現れたら敵わないだろ。キミだって、か弱い女の子なんだ。だから、男であるオレが護らなきゃいけない」
「……屈強な男に華音は勝てる……の?」
「…………勝てないね。いや、例え話だから! とにかく、責任持ってキミを家まで送り届けるからね」

 華音が歩き出し、桜花はその後を小走りでついていった。
 夜の闇は、ずっと奥まで伸びている。万が一屈強な男が飛び出して来てもいいようにと、華音は桜花に歩調を合わせて隣を歩く。
 会話はなく、靴音だけが響いた。
 桜花の住むアパートの陰がぼんやりと街灯の向こうに見え、桜花は足を止めて口を開いた。

「今日はありがとう。うち、お父さんが仕事で忙しくて遊園地とか連れて行ってもらった事がなかったから、行けて良かったわ。魔物とか魔女が出て来て大変だったけど、すごく楽しかった」

 華音も、ゆっくりと立ち止まり、半歩後ろの桜花に向き直った。

「オレも、遊園地なんて父さんが生きていた頃に行った以来だよ。元々桜花の願いを叶える事が目的だったから、お礼を言うのはオレの方。ありがとう。オレも楽しかった」

 街灯に照らされた華音の顔は心から笑っていて、桜花はドキッとした。

「さあ、もう少しだよ」
「うん」

 2人はまた並んで歩いていく。
 アパートまですぐだった。
 階段下で別れを告げ、互いに進むべき方向へ一歩踏み出す。その時、はたと桜花は思い出して振り返った。

「華音!」

 桜花よりも少し進んでいた華音は足を止め、振り返る。と、すぐに桜花が走り寄って来た。
 桜花はショルダーバッグを漁り、丁寧にラッピングされた小包を取り出した。

「これ!」
「オレに?」
「今日一緒に遊園地に行ってくれた事と勉強教えてくれた事のお礼」
「別にいいのに。……ありがとう」

 半ば押し付けられたそれを華音は受け取り、桜花が期待の眼差しを向けているのでここで包みを開いてみる事にした。
 水色のリボンを解いてクリーム色の袋を逆さにすると、手の平にコロンと小さくて可愛いものが転がった。

「ペンギン……?」
「――――の消しゴムよ! どう? 可愛いでしょ。コウテイペンギンよ」

 何故か、桜花は自信満々に胸を張ってみせた。
 華音はペンギンの消しゴムを3本の指で掴み、色んな角度から眺めてみた。

「可愛いけど……。何故ペンギン……」
「だって、華音っぽいじゃない?」
「オレ、ペンギンっぽい!?」

 華音は消しゴム観察をやめ、心外と言った顔で桜花を見た。
 桜花は迷わず頷いた。

「お店で見た瞬間、これだって思ったのよ。大事に使ってね」
「うーん……ペンギン。消しゴムを大事に使うって難しい」
「それじゃあね、華音。屈強な男に襲われない様に、気を付けて帰るのよ」
「出会わない事を願うよ……。桜花も、階段に気を付けて」

 2人は今度こそ、別れを告げた。
 桜花が軽快に階段を上っていく音を背中に受けながら、華音は1人夜道を歩く。
 駅に近付くに連れ、華音の表情は曇っていった。

 さっき乗ってきたのが終電だったんだよな……。

 桜花の手前言い出せなかった。それでも、後悔はしていない。
 静かな駅の前、華音はスマートフォンの眩い液晶画面に視線を落とし、見慣れた電話番号を前に逡巡する。

 水戸さんに迎えに来てもらうって言うのは迷惑だろうし……。やっぱりタクシーを呼ぶべきかな。

 別の電話番号を表示させ、発信ボタンの上に指を移動させた。

 ガサッ。

 背後の低木が揺れ動き、華音はその状態のまま硬直した。
 風にしては不自然だった。

 ま、まさか……本当に屈強な男が!?

 ぎこちない動きで首を後ろへ捻ると、視界一杯に青みがかった黒翼が埋め尽くした。

「な、何だコイツ!?」

 それは屈強な男などではなかった。
 華音のよく知る青みがかった黒の羽毛を持つ、サファイアブルーの瞳の烏。だが、その大きさは記憶にないものだった。とにかく大きく、世界一大きいとされる鳥アンデスコンドルよりも大きかった。成人男性2人を乗せられるぐらいだ。
 大きさは迫力があるが、首を傾げたり、華音に甘噛みをしてくる仕草は愛らしい。

「ゴルゴ……なのか?」

 巨大烏は返事の代わりに、華音の目をじっと見る事で応えた。
 華音は確信し、そして、思い出した。初めてオズワルドを憑依させ、魔物を撃退した夜の事。力を使い果たして倒れたのだが、朝になるとちゃんと自分の部屋のベッドで目覚めた。それはオズワルドが使い魔を巨大化させて運んだからだった。
 これに運ばれたのか……と他人事の様に思っている矢先、ゴルゴがスッと華音に背中を差し出した。

「乗っていいのか? …………」

 ゴルゴがじっとその姿勢を保ち続けているので、華音は意を決して柔らかい羽毛に体重をかけた。
 華音は痩せ型であるが、身長もあるし、それなりに体重もある。元は華音の片手にちょこんと乗るぐらいの可愛いサイズのゴルゴに、大きな負担にならないだろうか?
 華音が労わる様にそっとゴルゴの羽毛に触れたのとほぼ同時に、ゴルゴの身体は地面から離れて、黒翼を忙しなく羽ばたかせてぐんぐん上昇していった。
 星空が近くなる。
 華音が風に踊る髪を押さえて下を見ると、街の明かりがもう大分遠くにあった。

「本当に飛んでる……」

 ある程度高度を上げたゴルゴは安定し、真っ直ぐ優雅に羽ばたいていく。
 暫し、この幻想的な一時に身を委ねる華音。ふと、脳裏に思い浮かんだのは別次元の自分の姿。

「もしかして、オズワルドが……」

 彼にしては気が利く……なんて思ったのも寸陰の間。突如、ゴルゴがぐるぐる旋回し始めた。遊園地の絶叫系アトラクションさながらの激しさだ。
 あまりの激しさに必死にゴルゴの背にしがみつく華音には、悲鳴を上げる暇さえない。目もぐるぐる回り始め、胃液が喉までせり上がって来る。
 もう心身共に限界だと心の中で白旗を挙げると、やっとゴルゴが大人しくなった。
 華音は青白い顔で口元を押さえ、胸を撫で下ろした。

「……ゴルゴ。一体、いきなりどうしたんだ……」

 覗き見たその顔は無表情ではあるが、何処か戸惑っている様にも見えた。
 華音の脳裏に、もう1度彼が現れた。不敵な笑みを浮かべる、鏡の向こうの魔法使い……。

「オズワルドか。アイツならやりそうだ」

 使い魔に指示する彼の姿が容易に想像出来た。鏡の向こうでは、きっと腹を抱えて笑っている事だろう。

「本当、性格捻れてるな。て言うか、ドS……いや、別次元の自分を虐げているから、ドMにな――――!?」

 途端、ゴルゴがガクンと傾き、華音の身体が宙へ浮いた。

「え? 何、これ」

 状況理解も出来ぬまま、華音は地上へ落ちていった。