男性が出してくれたチーズをつまみ、ワインを飲み干したマルスは満足げにグラスを置いた。向かいでは、まだ半分しか中身を減らしていないグラスと格闘しているオズワルドが居た。
時折、オズワルドは青臭さに噎せ返りそうになり、口直しにチーズを口に含んで落ち着き、またナチュラルブルースープに挑戦すると言う繰り返しをしていた。
「キミ、無理だったら残しても構わないよ? あとはコーヒーしか出せないけど、コーヒーでも飲むかい?」
オズワルドは顔を顰めて緑の液体を胃に落とし、ゆっくり首を横へ振った。
「せっかく出してもらった物を無駄には出来ない。それに、オレはコーヒーが好きじゃない」
「オズくん、コーヒー嫌いなのかぁ」
少し、マルスは残念そうだ。
気晴らしに、また男性がリデル様トークをし始め、それが終わる頃に漸くオズワルドはグラスを空にした。
まだ、口内が緑に侵されているので、最後のチーズを舌先に転がして相殺した。
男性が空になったグラスを盆に載せ、カウンター裏へと片付けに行く。
再び2人きりになった席。
マルスがすぐに口を開かなかった為に静かで、さっきまで微かにしか聞こえなかった外の喧騒が自然と耳に入ってきた。
オズワルドの耳と男性の愛犬の耳がその中から、更に遠くの音を拾った。
「……魔獣だ」
オズワルドが静かに言うと、マルスは真剣に耳を澄ませてから、首を傾けた。
「何も聞こえないっすけど……」
「きゃああぁぁぁっ!!」
「うわああぁぁぁっ!!」
外から男性や女性、子供の悲鳴が聞こえてきて、さすがに一般的な聴力のマルスとグラスを洗っている男性の耳にもハッキリと届いた。
マルスは長剣を手に持ち、男性が洗い物をそのままにカウンターから出て来た。
「一体何が起こっているんだ」
「ホントに魔獣が現れやがった……。しかも、」
マルスは奥歯をギリっと噛み、鋭い視線を窓の外へ向けた。
穏やかな空気が一変し、必死に逃げ惑うヒト達で溢れかえる別世界へと成り代わっていた。
オズワルドとマルスは目を合わせると、サッと席を立った。
男性は驚く。
「ま、魔獣って。危ないぞ」
それは騎士のマルスにではなく、男性の手前一般人であるオズワルドへ向けられた言葉だった。
「国民を護るのが騎士の務めっす!」
代わりにマルスが快活に応え、外へ出たオズワルドの後を追っていった。
必死に逃げ惑う妖精とドワーフ、商品を両腕に抱えて軽快に駆ける竜族、無関係だと全身で語る様に速やかに移動するエルフの合間を縫って、オズワルドとマルスは彼らとは逆方向へ走っていった。
先には少数の人間がまだ取り残されており、一部は敢えてそうしている様だった。
己の命よりも好奇心が勝り、馬鹿みたいに心躍らせる――――人間はリアルムでも、スペクルムでも、その本質は全く同じで愚かだ。
マルスは野次馬どもを蔑んだ目で見た後、その向こうで必死に武器を振り回す兵士達へ駆け寄った。オズワルドも後へ続く。
「一体何が起こった?」
「リ、リザーディア副団長……! 突然、オルトロスが侵入して来て街の者を襲い始めました」
兵士が視線を向けた先には、牛よりも一回り程大きい2つ頭のライオンが街を蹂躙していた。
オルトロスが暴れ回ると、連動して尻尾の代わりに生えた毒々しい色合いの蛇が、鞭の如く周囲の物を無造作に叩き飛ばしていく。その流れ弾がマルス達の方へも飛んできて、手前に居た兵士が長剣で斬り落とした。両断された瓦礫が地面に落ち、砂埃を散らした。
マルスは長剣を鞘から抜き、オルトロスの動きを目で追う。
「……戦況は?」
「は、はい。現在、オルトロス1体に兵士総出でかかっておりますが、相手に傷一つ付ける事が出来ていません……。そして、逃げ遅れた者が複数名、負傷者が1名。いずれも一般人です」
他の兵士達は魔獣にかかりっきりで、崩壊した建物の陰で蹲っている小さな女の子に構っている暇はなかった。
それなら、せめて野次馬がその役目を代行すればいいのに……と、マルスは心の中で悪態をつき、オルトロスに目を向けたまま後方へ声を張り上げた。
「オズくんはあの女の子を連れて、安全なところへ行って! あと、残りの逃げ遅れた人達の誘導もお願い!」
「何を言っている。私も……」
オズワルドは戦意を露にしていたが、騎士がそれを尊重する事はなかった。
マルスは後ろを振り向き、眉を下げて笑った。
「今日は“オズくん”でしょう。ここは僕らに任せて欲しいっす」
「…………分かった」
オズワルドは渋々首肯し、マルスの脇を摺り抜けて女の子の救助へ向かった。
足を骨折し、少しも歩く事が叶わないその小さな身体を背中に乗せ、周りで狼狽する人々を見回す。
「ここは危険だ。すぐに離れるぞ」
喧騒の中でも凛と響き渡った声に人々は冷静さを取り戻し、安心感を覚えてオズワルドの後へと続いた。
ぞろぞろと、一般人の姿が遠ざかっていき、マルスはふぅーっと息を吐いて長剣を構えた。
マルスと会話をしていた兵士も応戦へ向かっており、目の前では魔獣に銀の鎧が群がっては散っていく。
オルトロスは吹き飛ばした兵士を、鋭い爪の生え揃った前足で踏み付ける。
兵士は苦痛の声を上げながら、みるみるうちにタイルにめり込んでいく。仲間達が救助へ向かうが、振るった長剣ごと逞しい体躯に弾かれてしまう。
吹き飛ぶ兵士達と入れ替わりに、マルスが魔獣の懐へ飛び込む。
まだ、強面は兵士達へと向いている。
剣先が魔獣の喉笛を捉えるも、突き刺す寸前で左の顔がぐるんと騎士の方へと向く。
危険を察知しマルスが飛び退くと、瞬間魔獣の大口から赤黒いブレスが吐き出された。数秒前マルスが足をつけていた地面が、一瞬で灰燼と化す。
たとえ、1つの顔が別の方へ意識を向けていても、もう1つの顔に気付かれてしまう。2つ頭の視界と意識は360度に広がっているのだ。
これでは、多勢で攻めても傷1つ付けられない。
地面に転がって血を流す兵士、どんどん形を保てなくなっていく建造物……戦況は悲惨なものだ。
マルスは歯噛みし、もう1度長剣を構え直すと駆け出して飛躍する。バッと、今度は右の顔全体が向く。
眼下では力を振り絞って立ち上がった兵士が懸命に剣や槍を振るい、左の顔から放たれたブレスで一掃されていく。
マルスの目の前にも、同じモノが迫っていた。
「行動がワンパターン過ぎて面白みがないっすね」
全く恐れを抱く事なく、剣を眼前で盾にして下降していく。
左の強面から吐き出されたブレスの中、マルスは尚も下降を続けていた。
「リザーディア副団長――!」
「騎士様――!」
周りからは、兵士や野次馬の悲鳴が木霊する。
傍から見ると、完全に騎士がブレスに飲まれている。が、実際はそうではなかった。
マルスの長剣はブレスを易易と受け流していた。
そのままオルトロスの眼前へ狙い通り到達したマルスは、開けっ放しの大口へ剣先を突っ込んで喉を貫いた。
ブシュッと血が迸り、左の顔の激痛に連動してオルトロスの全身が大きく揺らぐ。
この隙を逃すまいと兵士達が群がり、マルスもまだマナが纏わりついてパチパチ音を立てる長剣を構える。
数本の剣と槍が巨体へ突き刺さる。
「グガアアァァァッ!!」
喉を潰された左の顔に代わり、右の顔が悲痛の叫びを天まで届かせる。
「これで止めっすよ!」
マルスが八重歯を見せ、構えた長剣を容赦なく振り下ろした。
オルトロスの体から2つの頭が斬り離され、ドンッと大きな音を立てて地面に落ちた。
大量の血がその場に大きな血溜まりを作る。
周りで歓声が上がり、兵士達もマルスも武器を下ろして安堵の笑みを浮かべた。
ところが――――
「グガアアァァァッ!!」
遠くから獣の咆哮が響き渡り、複数の大きな足音が近付いて来た。
時折、オズワルドは青臭さに噎せ返りそうになり、口直しにチーズを口に含んで落ち着き、またナチュラルブルースープに挑戦すると言う繰り返しをしていた。
「キミ、無理だったら残しても構わないよ? あとはコーヒーしか出せないけど、コーヒーでも飲むかい?」
オズワルドは顔を顰めて緑の液体を胃に落とし、ゆっくり首を横へ振った。
「せっかく出してもらった物を無駄には出来ない。それに、オレはコーヒーが好きじゃない」
「オズくん、コーヒー嫌いなのかぁ」
少し、マルスは残念そうだ。
気晴らしに、また男性がリデル様トークをし始め、それが終わる頃に漸くオズワルドはグラスを空にした。
まだ、口内が緑に侵されているので、最後のチーズを舌先に転がして相殺した。
男性が空になったグラスを盆に載せ、カウンター裏へと片付けに行く。
再び2人きりになった席。
マルスがすぐに口を開かなかった為に静かで、さっきまで微かにしか聞こえなかった外の喧騒が自然と耳に入ってきた。
オズワルドの耳と男性の愛犬の耳がその中から、更に遠くの音を拾った。
「……魔獣だ」
オズワルドが静かに言うと、マルスは真剣に耳を澄ませてから、首を傾けた。
「何も聞こえないっすけど……」
「きゃああぁぁぁっ!!」
「うわああぁぁぁっ!!」
外から男性や女性、子供の悲鳴が聞こえてきて、さすがに一般的な聴力のマルスとグラスを洗っている男性の耳にもハッキリと届いた。
マルスは長剣を手に持ち、男性が洗い物をそのままにカウンターから出て来た。
「一体何が起こっているんだ」
「ホントに魔獣が現れやがった……。しかも、」
マルスは奥歯をギリっと噛み、鋭い視線を窓の外へ向けた。
穏やかな空気が一変し、必死に逃げ惑うヒト達で溢れかえる別世界へと成り代わっていた。
オズワルドとマルスは目を合わせると、サッと席を立った。
男性は驚く。
「ま、魔獣って。危ないぞ」
それは騎士のマルスにではなく、男性の手前一般人であるオズワルドへ向けられた言葉だった。
「国民を護るのが騎士の務めっす!」
代わりにマルスが快活に応え、外へ出たオズワルドの後を追っていった。
必死に逃げ惑う妖精とドワーフ、商品を両腕に抱えて軽快に駆ける竜族、無関係だと全身で語る様に速やかに移動するエルフの合間を縫って、オズワルドとマルスは彼らとは逆方向へ走っていった。
先には少数の人間がまだ取り残されており、一部は敢えてそうしている様だった。
己の命よりも好奇心が勝り、馬鹿みたいに心躍らせる――――人間はリアルムでも、スペクルムでも、その本質は全く同じで愚かだ。
マルスは野次馬どもを蔑んだ目で見た後、その向こうで必死に武器を振り回す兵士達へ駆け寄った。オズワルドも後へ続く。
「一体何が起こった?」
「リ、リザーディア副団長……! 突然、オルトロスが侵入して来て街の者を襲い始めました」
兵士が視線を向けた先には、牛よりも一回り程大きい2つ頭のライオンが街を蹂躙していた。
オルトロスが暴れ回ると、連動して尻尾の代わりに生えた毒々しい色合いの蛇が、鞭の如く周囲の物を無造作に叩き飛ばしていく。その流れ弾がマルス達の方へも飛んできて、手前に居た兵士が長剣で斬り落とした。両断された瓦礫が地面に落ち、砂埃を散らした。
マルスは長剣を鞘から抜き、オルトロスの動きを目で追う。
「……戦況は?」
「は、はい。現在、オルトロス1体に兵士総出でかかっておりますが、相手に傷一つ付ける事が出来ていません……。そして、逃げ遅れた者が複数名、負傷者が1名。いずれも一般人です」
他の兵士達は魔獣にかかりっきりで、崩壊した建物の陰で蹲っている小さな女の子に構っている暇はなかった。
それなら、せめて野次馬がその役目を代行すればいいのに……と、マルスは心の中で悪態をつき、オルトロスに目を向けたまま後方へ声を張り上げた。
「オズくんはあの女の子を連れて、安全なところへ行って! あと、残りの逃げ遅れた人達の誘導もお願い!」
「何を言っている。私も……」
オズワルドは戦意を露にしていたが、騎士がそれを尊重する事はなかった。
マルスは後ろを振り向き、眉を下げて笑った。
「今日は“オズくん”でしょう。ここは僕らに任せて欲しいっす」
「…………分かった」
オズワルドは渋々首肯し、マルスの脇を摺り抜けて女の子の救助へ向かった。
足を骨折し、少しも歩く事が叶わないその小さな身体を背中に乗せ、周りで狼狽する人々を見回す。
「ここは危険だ。すぐに離れるぞ」
喧騒の中でも凛と響き渡った声に人々は冷静さを取り戻し、安心感を覚えてオズワルドの後へと続いた。
ぞろぞろと、一般人の姿が遠ざかっていき、マルスはふぅーっと息を吐いて長剣を構えた。
マルスと会話をしていた兵士も応戦へ向かっており、目の前では魔獣に銀の鎧が群がっては散っていく。
オルトロスは吹き飛ばした兵士を、鋭い爪の生え揃った前足で踏み付ける。
兵士は苦痛の声を上げながら、みるみるうちにタイルにめり込んでいく。仲間達が救助へ向かうが、振るった長剣ごと逞しい体躯に弾かれてしまう。
吹き飛ぶ兵士達と入れ替わりに、マルスが魔獣の懐へ飛び込む。
まだ、強面は兵士達へと向いている。
剣先が魔獣の喉笛を捉えるも、突き刺す寸前で左の顔がぐるんと騎士の方へと向く。
危険を察知しマルスが飛び退くと、瞬間魔獣の大口から赤黒いブレスが吐き出された。数秒前マルスが足をつけていた地面が、一瞬で灰燼と化す。
たとえ、1つの顔が別の方へ意識を向けていても、もう1つの顔に気付かれてしまう。2つ頭の視界と意識は360度に広がっているのだ。
これでは、多勢で攻めても傷1つ付けられない。
地面に転がって血を流す兵士、どんどん形を保てなくなっていく建造物……戦況は悲惨なものだ。
マルスは歯噛みし、もう1度長剣を構え直すと駆け出して飛躍する。バッと、今度は右の顔全体が向く。
眼下では力を振り絞って立ち上がった兵士が懸命に剣や槍を振るい、左の顔から放たれたブレスで一掃されていく。
マルスの目の前にも、同じモノが迫っていた。
「行動がワンパターン過ぎて面白みがないっすね」
全く恐れを抱く事なく、剣を眼前で盾にして下降していく。
左の強面から吐き出されたブレスの中、マルスは尚も下降を続けていた。
「リザーディア副団長――!」
「騎士様――!」
周りからは、兵士や野次馬の悲鳴が木霊する。
傍から見ると、完全に騎士がブレスに飲まれている。が、実際はそうではなかった。
マルスの長剣はブレスを易易と受け流していた。
そのままオルトロスの眼前へ狙い通り到達したマルスは、開けっ放しの大口へ剣先を突っ込んで喉を貫いた。
ブシュッと血が迸り、左の顔の激痛に連動してオルトロスの全身が大きく揺らぐ。
この隙を逃すまいと兵士達が群がり、マルスもまだマナが纏わりついてパチパチ音を立てる長剣を構える。
数本の剣と槍が巨体へ突き刺さる。
「グガアアァァァッ!!」
喉を潰された左の顔に代わり、右の顔が悲痛の叫びを天まで届かせる。
「これで止めっすよ!」
マルスが八重歯を見せ、構えた長剣を容赦なく振り下ろした。
オルトロスの体から2つの頭が斬り離され、ドンッと大きな音を立てて地面に落ちた。
大量の血がその場に大きな血溜まりを作る。
周りで歓声が上がり、兵士達もマルスも武器を下ろして安堵の笑みを浮かべた。
ところが――――
「グガアアァァァッ!!」
遠くから獣の咆哮が響き渡り、複数の大きな足音が近付いて来た。