ザバザバと、無意味に水が流れていく。

「水の出しっぱなしは勿体無いぞ」

 華音の目の前の鏡にオズワルドが映り込んだ。
 華音は「あ」と声を漏らし、蛇口を閉じた。
 水の音が止み、手洗い場に静寂が降りた。
 華音は辺りを何度も確認し、困惑した顔で鏡を見た。

「こんな所にまで出てくるなよ」
「安心しろ。お前が用を足しているところは見ていない」
「そこじゃなくて! まあ、見られても嫌だけどさ……。此処は家じゃないんだ。他の人達も居るし、もしお前の事がバレたら……」
「そっちか。それも問題ない。ちゃんとタイミングを考えている。それに、他の者には私の姿も声も認識出来ない。お前が鏡に1人語りかけているようにしか見えないから、問題はないぞ」
「いや、問題だらけだよ! オレが変人になるじゃないか……」
「そうか?」
「そうだよ。……なあ、オレの怪我治せないのか? 魔法使いなんだろ?」

 治せるものなら、恐らく包帯を巻くだけの処置はしなかっただろうが、意地の悪いオズワルドの事だ。魔力を消費するのが嫌だと言う理由で敢えて治癒しなかったのだと、華音は半分疑っていた。

「私を疑っているな? しかし、それは治癒術師(ヒーラー)の役目で、私には扱えぬ魔術だ。心配せずとも、そのうち治るだろう」
「そのうちって……」

 オズワルドは一切嘘をついている様に見えないが、投げやりな物言いに華音は不満だった。
 オズワルドは腰に手をやり、得意げな笑みを浮かべた。

「それはそうと、決心してくれたか? もう半日経ったが」
「それは……」

 華音は言いよどむ。
 オズワルドは深い溜め息をつき、スッと消えた。

「鏡崎、此処に居たか」

 壁の向こうから雷が顔を出し、華音の姿を捉えると手招きした。
 華音は自分の姿が映っているだけの鏡を気にしつつ、親友のもとへ向かった。

「何か、お前の声がしたからさ。誰か他に居たのか?」

 雷に少し聞かれていた様で、華音は背中に冷たい汗が伝うのを感じて苦笑いを浮かべた。

「あー……えっと、独り言」
「ほーん。それよか、ほい、これ」

 雷は華音に教科書類を渡した。表紙には『化学』と書かれている。華音は次の授業が移動教室だと言う事を思い出し、教室に居ない自分を親友がわざわざ捜しに来てくれたのだと理解した。

「ありがとう」

 2人で並んで長い廊下を歩いていると、ど真ん中で刃が待っていた。
 刃を仲間に加え、予鈴が鳴り響く中、3人は足を急がせながらも他愛ない会話を楽しんだ。


 今日は太陽の勤務時間内に帰路を辿る事が出来た華音達。雷とは校門で別れ、刃と暫く歩いた後、彼とも別れて、華音は1人歩き慣れた道を歩く。
 昨夜、魔物と戦ったとは思えないぐらい静かで平和な道だ。こうしていつも通りの生活を送っていると、夢だったのではないかとまた思ってしまう。と、華音は民家の敷地内の柚子の木で羽を休めている青みがかった烏を発見し、その宝石の様に青い目と目が合った瞬間、平和が遠ざかった様に感じた。
 あの烏はオズワルドの使い魔。昨夜、巨大化して華音と刃を自宅まで運んでくれ、今は魔力の消費によって休業中だと言う。半日経ったから、いつでも出動出来るのかもしれないが。

「昨夜はありがとう。お前、名前あるの?」

 使い魔は小首を傾げ、華音から視線を逸らして毛繕いを始めた。
 使い魔と言えど、動物。意思疎通が叶わないのかもしれないと、華音は諦め、その場を離れた。
 住宅街を暫く進むと、広いスペースに一際大きな建造物の目の前に辿り着いた。自動車が3台置ける車庫に、インターフォンと監視カメラが設置された重厚な門、その先に広がる芝生と石畳、ヨーロッパの貴族の屋敷の様なデザインの、窓の沢山ある白い外壁の家屋……誰もが圧倒される場違いな家の門を、手馴れた様子で華音は潜り抜けた。門の横には『鏡崎』と表札がかけられていた。
 門から玄関までの距離が長く、やっと辿り着いた華音は毎度ながら溜め息を吐いた。

「無駄に広い家」

 母が聞いたら激怒しそうな台詞だが、幸い此処には母は居ない。女社長として忙しい彼女は滅多に家に帰って来ないのだ。代わりに、別の女性が家に居る。
 華音は玄関扉を開き、すぐに出迎えてくれた20代前半の女性に穏やかな顔をした。

水戸(みと)さん、ただいま」
「おかえりなさい。華音くん。夕飯もう出来ていますから、荷物を置いたらリビングまでいらして下さいね」
「うん」

 華音はローファーからスリッパに履き替え、水戸の横を通り過ぎた。
 鏡崎家では家政婦を雇っていて、水戸ちかげは凡そ1年前から住み込みで働く3代目の家政婦だ。まだ23歳と若いが、家事は勿論の事、この家の1人息子の良き理解者でしっかり者だ。しかし、後頭部で結ったふんわりとした茶髪と焦げ茶色のタレ目、ふわふわした雰囲気が彼女の仕事ぶりを疑う要因となってしまうのが難点である。
 鞄とブレザーを置いて来た華音は水戸の待つリビングルームへ行き、席に着いた。テーブルの脇に立っていた水戸も、静かに斜め向かい側へ腰掛けた。
 テーブルの上には水戸手作りのポテトサラダ、コンソメスープ、デミグラスソースの煮込みハンバーグが並んでいる。本日も、いつも通り2人分だ。母の分は用意されていない。
 2人は手を合わせて挨拶し、食事に手をつけた。
 食事スペースの向こうには、ソファーとローテーブル、大型液晶テレビがあるが、テレビの電源はオフのまま。鏡崎家では食事中の視聴は禁止されていて、華音もそれが当たり前だと思って気にした事がなかった。唯、水戸との会話がない時はやけに部屋が静かで落ち着かなかった。
 今も会話がなく静寂が空間を支配しているが、華音は気にしておらず、水戸の方が落ち着かない様子を見せた。
 水戸は肉汁の溢れ出すハンバーグを噛み締め、俯いて手を止めている華音に首を傾けた。

「どうしたんですか? もしかして、ご飯……美味しくないですか?」

 悲しみを孕んだ水戸の声に華音はハッと我に還り、手を動かした。口に入れた瞬間溢れ出す肉汁のハンバーグが不味い筈がなかった。

「美味しいよ。……唯、考え事してただけだから」

 水戸の表情に安堵が浮かぶ。

「そうですか。何か困った事があったら相談して下さいね。私、華音くんの力になりたいですから……」
「ありがとう」

 水戸の優しさは嬉しかったが、とても他人に相談する訳にはいかなかった。変人になってしまう。オズワルドや魔女の事は他言せず、自分1人で何とかするしかないのだ。

「そういえば、ずっと訊きたかったんですけど……昨日って、いつの間に帰って来たのですか? ゴミ箱の片付けがまだだったので華音くんのお部屋に入ったら、華音くんがベッドで寝ていてビックリしました」
「え?」

 唐突に訊かれ、華音はきょとんとした。
 水戸は眼前で両手を振り、慌て出した。

「ごめんなさい! 訊かない方が良かったですか?」
「あ……うん。いや、別に……。昨日は疲れててそのままベッドで寝ちゃったんだ。水戸さんに何も言わずに、こっちこそ、ごめん」
「そ、そうでしたか。あの、次は気を付けますね。華音くんがお休みになっている時は、絶対にお部屋に入りません」
「そんなに気にする事ないのに。水戸さんは襲って来ないでしょ」
「お、襲……」

 水戸が顔を赤らめ、華音は首を傾げて食事用ナイフを持った。

「寝ている間にザクっと、さ」

 そのままハンバーグに突き刺し、水戸は更に顔を赤らめた。

「そっち……でしたか。そうですね。それはないです」
「他に何があるの?」
「な、ないですよ。……華音くん、鈍感」

 後半は本人に聞こえぬように言った水戸は、火照った頬を両手で包んで項垂れた。


 食事が終わると、華音はテレビ前のソファーに座り、水戸が淹れてくれた紅茶を飲む。カップとソーサーは外国の有名なメーカー製だが、華音はあまり興味がないので記憶していない。茶葉もその辺のスーパーでは手に入らない高級品だが、喉と心を潤す事が出来るのなら安物でも構わないと思っていた。食器や茶葉だけではない。この部屋、この家には、価値があるのか分からない豪華な調度品ばかりで埋め尽くされている。純白の高い天井で煌くシャンデリアも、大きな窓硝子を覆う光沢のあるカーテンも、純白の内壁を飾る絵画も、部屋の隅のチェストに置かれた不思議な柄の花瓶も、足下に敷かれた高級絨毯も、何もかもが華音の目には空虚に見えた。華やかなんて形だけで、そこに想いなんて込められていない。この家の主は自分の地位に酔っているだけだ。勿論、今の地位につく為に母が血の滲む様な努力をした事を幼い頃より知っている華音だが、地位や名誉よりも大切なモノを忘れてしまっている彼女と、彼女が手がけた家に好感は持てなかった。この家は落ち着かない……唯、それだけ。
 そうは言いつつも、隣で温かい笑みを浮かべている水戸が淹れてくれたお茶はいつでも美味しい。
 水戸はまだ何杯か紅茶が入っているティーポットをローテーブルに置き、パステルイエローのエプロンを翻して歩いて行った。

「もうすぐお風呂が沸くと思うので、タオルとお着替えをご用意しますね」
「うん」

 華音は返事をすると、ズボンからスマートフォンを取り出した。丁度、画面が光り輝いていて電話がかかって来ていた。『雷』と示されている。
 華音は画面をタップし、端末を耳に当てた。

「雷? どうした?」
『あ! 鏡崎! た、大変なんだ。妹と弟が突然気を失っちまってさ。救急車呼ぼうと思ったのに、全然電話に出てくれねーし、誰も通りかからねーし。お、俺、どうすればいいんだ!』

 電話越しでも緊迫した様子が覗えるが、実際の状況がよく分からない。華音は焦燥感に駆られる親友の代わりに、冷静に対応した。

「今何処に居るんだ?」
『い、今……今は家の近くのコンビニに向かう途中の道』
「雷の家の方面か……。今から行くから、そこを動くなよ」
『あ、ああ。ごめん、頼むよ……。待ってる』

 通話を終了させた華音はスマートフォンをズボンに滑り込ませ、足早に玄関へ向かった。大きな玄関の脇の姿見にオズワルドの全身が映り込む。

「魔物の仕業だな」

 当然の様に発せられた要因に、華音は静かに頷いた。向こうから、水戸が歩いて来る。

「華音くん? 何処か行くんですか?」
「ちょっと友達の所に。すぐ帰ってくるよ」
「はい。分かりました。気を付けて下さいね」

 何をしに行くかだけを省いた真実を伝えた華音は、自然な所作で家を出た。