茶葉を無事に購入し終え、2人は小路を戻っていった。
 茶葉が沢山詰め込まれた紙袋を持つのは、当然マルスだ。それは本来の身分差によって成り立ち、互いに文句もなく自然であった。
 大勢のヒトが往来する大通りに出ようとした――――その時だ。

「リデル様!」

 後ろからマルスが叫んだ。
 前方から飛び出した大きな影が、オズワルドをすっぽりと覆い隠した。
 咄嗟に避ける事が叶わなかったオズワルドは、あっさりと相手の餌食となってしまった。
 マルスは血相を変え、急いで長剣の柄を握りながら駆け出した。

「このっ! リデル様から離れろ!」

 背中を硬いタイルに打ち付けて呻くオズワルドの双眸に、黒い長毛が映り込んだ。更に、黒い鼻と黒い目が見えた。

「え……犬?」
「わう!」

 オズワルドが正解を口にすると、犬は彼に覆い被さったままご褒美と言わんばかりに、ペロペロと彼の白い頬を舐め始めた。

「あははっ! 何だ、お前っ。オレは食べ物を持っていないぞ」

 あまりのくすぐったさに耐え切れず、オズワルドは身体を捩って笑い始めた。

「えーっと……?」

 拍子抜けする展開に、マルスは駆け出していた足をそのままに呆然と立ち尽くした。鞘から殆ど刀身が見えていた。
 オズワルドは上体を起こし、じゃれつく犬の頭を撫でた。
 こんなにもオズワルドに懐いている犬だが、人当たりの良いマルスには一瞥もくれなかった。
 マルスは長剣を鞘に戻して、暫くオズワルドの少年らしい一面を眺めた後、手を叩いた。

「エルフは動物に好かれる特性を持っているから、その血が混じっているオズくんにも反応を示したのか。それにしても、オズくんって自分の事“オレ”って言うんだ?」

 マルスのからかう様な言葉に、オズワルドは横を向いた。頬は笑っていた為か、ほんのりとまだ赤みを帯びていた。

「……何だっていいだろう。それより、この犬は」
「おお! ジオ、こんなところに居たか!」

 快活な男性の声に、オズワルドの言葉は遮られた。
 黒い大型犬は男性のもとへ尻尾を振ってのしのし歩いていき、その隙にオズワルドは服についた砂埃を払って立ち上がった。
 犬がオズワルドの方へ振り返った事で、男性はオズワルドとその後ろに立つマルスの存在に気が付いた。

「こんにちは。あ……もしかして、ジオが何かしてしまったかい?」
「いや……」

 オズワルドが言いかけると、また犬が飛びつこうとし、慌てて男性が止めた。
 愛犬が人様に迷惑をかけてしまった事は明白。男性は眉を下げ、頭を掻いた。

「本当にすまなかった。まさか、ジオが俺以外に懐くなんて。不思議だねぇ、キミ」
「不思議と言うか……」

 オズワルドが言葉を詰まらせている後ろで、マルスは含み笑いをしていた。それを背中で感じ取ったオズワルドは心の中で舌打ちし、怪訝な顔に変わりつつある男性に外見年齢通りの笑みを向けた。

「オレ、動物が好きなんです」
「そうか、そうか。犬は特に感情に敏感だと言うし、そうなんだな!」

 男性も笑顔になった。

「しかし、迷惑をかけてしまった事には変わりない……。そうだ。うちでお茶していかないかい? カフェ&バーをやっているんだ」
「迷惑だなんて……」

 オズワルドはチラリとマルスに視線を飛ばした。思った通り、マルスの口角は上がりそこから笑い声が漏れない様に必死だった。
 オズワルドは憤怒を抑え、視線に次いで言葉を飛ばした。

「おじさんがこう言ってるけど、どうする?」
「どっ、ふふふ! どうするって、いいんじゃない? せっかくだし。ははははは!」

 口を開いた事で、ついに笑い声が解放されてマルスが盛大に笑い出した。
 男性は、マルスを不審な目で見て首を傾げた。

「彼はどうしたんだ?」
「気にしないで下さい。頭おかしいんで」

 オズワルドは凍り付いた視線をマルスに送り、男性とその愛犬と共に、男性が営む店に向かった。


 大通りから少し離れたところに、その店はあった。今日は休業という事で、扉は固く閉ざされて“CLOSE”のプレートがかけられていた。
 男性は愛犬と二人の客を引き連れ、裏口から店に入った。
 店内は、床やテーブルや椅子……殆どの物が木製で温もりを感じさせる空間だった。一見すると、唯のくつろぎの空間の様だが、カウンター後ろには酒瓶が行儀よく並んでいて、日が落ちた後には賑わう事が予感させられる。
 オズワルドとマルスは、陽のよく当たる窓際のテーブル席に向かい合わせで座った。
 マルスは長剣を外してテーブルの隅に置いた。
 男性の愛犬がオズワルドの足元を陣取り、男性は「悪いねぇ」と苦笑しながら、指を3本立てた。

「赤ワイン、コーヒー、ナチュラルブルースープ……今出せるのはこれだけなんだが、どれがいい?」
「僕、赤ワインがいいっす」と、間髪入れずにマルスが答えた。
「じゃあ、オレも」
「了解! 赤ワイン1つに、ナチュラルブルースープ1つね!」

 そんな注文はした覚えはない。
 オズワルドは去って行こうとした男性を呼び止めた。

「いや、オレも赤ワインがいいんですけど……」
「駄目だよ、駄目駄目。だって、キミ未成年でしょ? 未成年にお酒を提供しちゃいけない事になってるんだよ。ごめんよ」

 瞬間、マルスが吹き出した。それを横目に見た後、オズワルドは窓ガラスに映る己のあどけなさの残る顔を見て落胆した。
 外見だけでは否定出来る要素がまるでなく、黙って男性を見送るしかなかった。
 男性がカウンターの向こうへ消えていき、2人きりになった席で、マルスが声を少し潜めて言った。

「あの人もオズくんの方が年上だって、夢にも思わないだろうね」
「お前……何か楽しんでいないか?」

 オズワルドは呆れた顔で、頬杖をついた。

「楽しんでるっす! 普段見られない光景で、新鮮すぎて面白いよーもう」
「私は不愉快なんだが。……マルス。何故、お前は私に絡んでくるんだ。普通は忌避するものだろう」
「いつからそれが普通になっちゃったんですか。僕は貴方に興味がある、もっと言えば好きなんです。それじゃあ、理由になりませんか?」
「私に興味を持つ者は良い意味でも悪い意味でも多々居るが、好きと言うのはよく分からないな。私はお前に好かれる覚えはない」

 琥珀色の瞳は、全てを悟ったかの様に冷めていた。
 マルスはサファイアブルーの猫目を細めた。

「リデル様ってさ……普段は偉そうにしているけど、本当は他人の事ばかり考えて行動しているでしょ。一番傷付いている筈なのに、絶対に誰も傷付けようとはしない。真っ直ぐで揺るぎない信念があって、優しくて……そう言うところが良いなって憧れるんです」

 オズワルドは何も言わず、横を向いた。マルスの純粋さが面映かった。

「だけど、最近は魔女の事もあって、何処か張り詰めている気がして。ドロシー王女も心配しているんですよ? 前までは一日に10回お茶していたのに、最近は全然だ――――と嘆いておられました」
「今まで、一日10回もお茶をした事はないが。どれだけ気楽な者だと思われているんだ、私は」

 オズワルドは前方へ視線を戻し、真面目な顔で否定した。

「まあ、お茶の回数はともかく、頑張り過ぎてるリデル様が心配って事です。だから、今日みたいに、たまには息抜きも必要ですよ」

 マルスが八重歯を見せて笑い、オズワルドも諦めた様に小さく笑った。

「……そうだな」

 足音が近付いて来て、犬は耳をピクピク動かし、オズワルドとマルスは横へ視線を向けた。
 男性が盆に赤の液体のグラスと緑の液体のグラスを載せて、上機嫌で戻って来た。

「へい、お待ちどーさん。赤ワインとナチュラルブルースープね」

 赤の方はマルスの前へ、緑の方はオズワルドの前へ置かれた。
 マルスは慣れた様子でグラスに口を付け、オズワルドはグラスを持ち上げて怪訝そうな顔で睨んだ。
 男性の視界に、テーブルに置かれた長剣が入った。

「さっきまで気付かなかった。兄ちゃん、アンタ……」

 更に、柄に彫られた国章が目に付き、男性はゴクリと唾を飲み込んだ。
 マルスがヘラっと笑い、男性の言わんとしている事を先に言った。

「ハートフィールド王家に仕える騎士っす」
「騎士様でしたか! とんだご無礼を!」
「とは言え、今は休暇中の身でして。さっきみたいに気楽にしてもらえると嬉しいっす」
「あーはい!」

 2人が話している間に、オズワルドは意を決してグラスに口を付けた。途端、採れたての濃厚な草の匂いが鼻をつき、眉間に皺が寄った。

「うぐっ」

 苦痛な声に、2人の視線はオズワルドに集中した。
 オズワルドは口元を押さえ、青褪め、俯いていた。グラスを持つ手が微かに震えている。

「オ、オズくん? どうしたの?」

 少しも笑えない状況に、マルスからも笑みは消えていた。
 男性も、心配そうにオズワルドを見ていた。
 オズワルドは微かに顔を上げ、口を開いた。

「何だこれは。不味い……」
「もう一杯?」と、男性が笑みを含ませて問い掛けた。

 オズワルドはグラスから手を離し、全力で首を横へ振った。
 男性は豪快に笑い出した。

「はははは。最近、キミぐらいの若者の間で流行っているらしくてな。健康に良いらしいし、流行りに便乗してうちの店でも出してみたんだ。若者だからって、皆が好む訳じゃないんだな」
「オレは……ごほ、ごほ」
「おいおい、大丈夫かい」

 男性は笑みを消し、心底心配そうにオズワルドの顔を覗き込んだ。

「おや?」

 帽子の陰になっているが、瞳がハートフィールド国王陛下と同じ色をしていた。だが、男性が連想したのはその人物ではなかった。

「キミ……オズワルド・リデル様に似ているね」

 オズワルドとマルスの心臓が跳ねた。
 冷ややかな汗が2人の背中を伝っていく。

「そ、そんな訳ないでしょう」

 オズワルドが弱々しく否定すると、意外にも男性はあっさりと引き下がった。

「だよね。あのリデル様がナチュラルブルースープで噎せるなんて事ないもんな」

 どの、かは分からないが、男性が言う宮廷魔術師はナチュラルブルースープで噎せる目の前の少年である。
 オズワルドは不服ながらも、男性にバレなくて良かったと安堵した。

「そういや、さっきキミ達リデル様の話をしていなかったかい?」
「え? してたっけ……」

 マルスは言いかけ、ハッと気付いた。無意識のうちに、目の前の少年をいつもの様に呼んでしまっていた。
 しかし、男性はそこには触れずにどんどん話を展開させていった。

「俺、リデル様の大ファンなんだよね! ハートフィールド王家の宮廷魔術師。魔術も然ることながら、武術にも猛ていて。戦場で軽やかに舞うお姿は、まるで精霊の様。凛とした立ち振る舞いも麗しいし……」

 始め、男性の勢いに気圧され気味だったオズワルドだが、次第にその純粋さに胸焼けを覚え表情を凍りつかせた。

「何を言っている。ハーフエルフだぞ」

 声も10代の外見から発せられたとは思えない程、淡々としていた。
 しかし、男性は凍てつく空気さえも払拭する程の熱と輝きを持っていた。

「だからこそだよ! 俺の子供の頃からずっと変わらぬお姿で居て下さる……それって、何か嬉しいんだよ。変化する事も大事だけどさ、変化のない事もそれと同じぐらい大事だと思うんだ」

 ――――素敵じゃないですか。ずっと綺麗な姿で居られるなんて。寧ろ、誇れる事だと思いますけれど。

 ふと、男性の顔と声が白い花畑で微笑むドロシーと重なった。
 オズワルドは一瞬目を見張った後、肩の力が抜けた様に静かに息を吐いた。
 男性のキラキラとした瞳はとても眩しくて直視出来ないが、確かに凍てついた心さえもゆっくり溶かしてくれる様な気がした。
 マルスも穏やかな表情でオズワルドを見ながら、男性の楽しげな話に耳を傾けていた。

「子供の頃、リデル様が街に押し寄せた魔獣を魔術で一掃したのを見てから、ホント憧れで! 俺、魔術を習おうと必死だったんだが、そもそも魔力を持ってなくてな。でも、諦めきれずに、たまに魔術書に載っている呪文を口にしたりして。まあ、俺の妻はあまりリデル様をよく思わないみたいで、俺がリデル様を語ると機嫌を損ねちまうんだが」
「なかなかっすね」

 マルスが笑って相槌を打つ。
 いつの間にか、オズワルドの心の中の雪原に絶え間なく吹き荒れていた冷風は止み、暖かい風に包まれて麗らかな春の日差しに照らされていた。