肌寒さに目が覚めた。
 ぼんやりと視界に映るのは、仄暗い室内。全身を預けているものは感触からいって、ベッド。然程、質は良くないが、冷たい床の上で寝ていた頃よりも幾分かマシだった。
 少年の意識が徐々に覚醒していく。

「此処は……どこだ……」

 喉から出た声は、少し枯れているが、まだ成長途中の男の声だ。
 所々、人為的に付けられた赤い痣が目立つ白い身体も、成長しきっておらず、線が細い事もあって中性的である。
 尤も、それは外見だけであり、中身はもうとっくに成人していた。だが、本人も正しい年齢が分からない。
 少年はもう一度、琥珀色の瞳に辺りを映した。そして、全身が粟立った。

「まさか……此処は……」

 早く逃げ出さなければ。

 ベッドから降りようとし、片足が何かに引っ張られて顔から落ちてしまった。
 痛みに呻き、視線を足に向けると、頑丈な鎖が絡んでいた。
 その不安定な体勢から鎖に手を伸ばすが、エルフでも、人間でもない耳に、重たい靴音が聞こえて来て、つい中断してしまった。
 ギィッ……と扉が開き、外側から光が差し込んだ。
 少年が眩しさに目を細めていると、先程の靴音がすぐ傍で止まった。

「おお……大丈夫かい。ルイス」

 男の声が降って来て、身体を軽々と抱きかかえられ、ベッドの縁に座らされた。
 男も隣に座り、2人分の重みでベッドが少し沈んだ。
 少年は恐怖に支配されて、隣を見る事が出来ない。
 隣では、男が分厚いコートを脱ぎ、シャツのボタンを外しだしたが、どれも一糸纏わぬ少年に着せる為ではない。
 醜い上体を晒した男は、少年の水色の髪を愛おしそうに撫で、耳元に唇を近付けた。

「私の可愛いルイス。嗚呼、どれだけ年月が経とうと美しい……」

 ルイス。

 その名を少年は脳内で反芻し、すぐに否定した。
 もう何十年も呼ばれなくなったが、両親からもらった大事な名前がちゃんとある。忘れる筈がない。

「違う……違う! オレの名前は――――んっ」

 口が塞がれ、本当の名前は男の唾液と混じり、穢れ、喉の奥に消えていった。


 ***


「――――っ!」

 オズワルド・リデルはパッと目が覚めた。
 額には汗が滲み、水色の前髪が額に貼り付いている。呼吸は荒く、琥珀色の瞳には涙が溜まっていた。
 気怠げに上体を起こし、辺りを見渡した。
 上質なカーテンの向こうから差す陽光でほんのり明るい室内は、白を基調とする物が大半を占めている、広く洗練された空間だった。
 身体を預けている純白のベッドも、天蓋がついていて上質だ。
 ちゃんと、衣服も纏っている。
 全てを確認し終えると、オズワルドの呼吸は落ち着きを取り戻した。
 涙と汗を拭い、布団をギュッと握った。

 400年以上も前の事なのに、未だに時々夢に出て来る。もう存在する筈がないのに……あの場所も、あの男も……。

「うっ……」

 口内が掻き混ぜられる感覚が蘇り、激しい吐き気を覚えた。
 口元を押さえ、傍らの水差しからグラスに水を注ぐと一気に口内へ流し込んだ。

「ごほっ、ごほっ」

 噎せ返ってしまった……が、口内が清められた気がして気休め程度にはなった。
 咳が落ち着くと、オズワルドはベッドから降りてカーテンを開いた。
 眩しさに目を細めるが、とても心地の良い光だった。

 コンコン。

「リデル様」

 ノックの音が聞こえてすぐ、若い女性の声が聞こえた。
 オズワルドは、またノックの音がし始めた扉へ歩いていき、開いた。

「おはようございます。リデル様」

 小柄なおさげのメイドが、はにかんだ笑顔で立って居た。
 両手には、綺麗に折りたたまれた、鏡の破片が装飾された白いローブを乗せていた。

「こちら、お召し物です」

 言いながら、それをオズワルドへ差し出した。
 オズワルドがそっと受け取ると、メイドは彼の顔を覗き込んで眉を下げた。

「……顔色が優れませんね。具合が悪いのですか? すぐにお医者様を……」
「いや、大丈夫だ。……ありがとう」

 オズワルドが穏やかな顔をすると、メイドは姿勢を正して頬を紅潮させた。
 誰もを魅了する美しい外見のオズワルドであるが、人間がそう思うのは最初の数年だけ。10年、20年……と年月が経つにつれ、美しくありつづける彼に恐れを抱くようになる。
 最初に世話係になった者もそうだった。きっと、この無垢な少女も今のうちは初心(うぶ)な反応をしてくれるが、そのうち嫌悪に変わるのだろう。
 年齢を重ねる毎に老いるのが当たり前の人間の国ミッドガイアでは、不老のハーフエルフは異形なのだ。
 400年以上この国で生きてきたオズワルドにとって、人間の常識こそが当たり前になっていた為、今更いちいち反論する事はない。

「あっ! えっとぉ……それでですね、リデル様!」
「何だ」
「はいっ! あの、本日の朝食なんですけれど――――」

 わたわたしつつもメイドはメニューを一通り伝え、オズワルドが指定した時間に持ってくる事を約束すると、一礼して去っていった。
 オズワルドは扉を閉め、洗い立てのローブを抱えて併設された専用のバスルームへ足を運んだ。



 ――――あの人だけは何一つ変わらない。正直、こえーよ。

 ザーザーとバスタブを打ち付けるシャワーの音に紛れ、脳内で第2騎士団団長の声が響いた。
 人間の常識に反論する事はないが、未だに心が揺れる時がある。
 表面上は好意的でも、大概の人間は異形に対して悪魔の顔を隠していた。

 ()()()はそう言う点では真っ白だったな……。オレが不老だから、手元に置いていた。ある意味で純粋だったんだ……。

 よく泡立てたスポンジで、雪の様に白い肌を洗う。目に見える汚れよりも、過去に受けた屈辱を洗い落とす様に。
 濡れた髪の間から出た少し尖った耳は、外部の音を容易に拾った。
 いつもなら気にしないが、今回は不快な思いがした。

 またアイツか……。ちゃんとノックする様になったのは褒めてやるが、返事がないなら諦めて――――って、やっぱり勝手に扉を開けた。

 溜め息をつき、あくまで気付かない風を装ってシャワーで泡を流した。


「リデル様――? 何処ですか? あれ……シャワーの音が聞こえるっすねぇ」

 オズワルドの部屋の真ん中に、アイツ――――マルス・リザーディアは立って居た。本日は珍しく、重たい鎧は着ておらず、ラフな格好だった。唯、騎士の証として腰には長剣をぶら下げていた。
 マルスは天蓋付きベッドの脇を通り過ぎ、入って来た扉よりもシンプルな扉のノブに手を掛けた。

「おい。騎士のくせに宮廷魔術師の部屋……しかも、バスルームに入ってくるなんていい度胸だな?」

 ドスを利かせた声が湯気の間を裂き、その先のバスタブで優雅に足を伸ばす宮廷魔術師の姿があった。
 マルスは態とらしく笑い、全く反省していない様子でバスタブに近付いた。途端、シャワーの水を存分に浴びせられた。それでも、怯まない。

「入浴中にすみません。前に、お茶しようって約束したものですから。つい、来ちゃいました」
「すまないと思っているのなら、さっさと出て行け。次は魔術を使うぞ」

 オズワルドは琥珀色の瞳で、騎士を睨んだ。

「んーじゃあ、出ていくんで、テーブルで待ってますね……――――うわっと!」

 踵を返そうとした背中に、氷の刃が飛んできて、マルスは何とか避けた。余裕が半減した顔でオズワルドを振り返り、遠慮がちに手を振ると、足早に立ち去った。
 椅子を引く音が聞こえ、オズワルドは溜め息を吐いた。

 本当に、何なんだ……アイツは。


 シャワーを済ませたオズワルドはタオルで身体を包み、水気を拭き取る。
 まだ、扉の向こうには能天気騎士の気配があった。
 溜め息を吐き、タオルを放って着替えに手を伸ばすと違和感に気付いた。

「あれ? これはローブじゃない……?」

 色合いといい、手触りといい、明らかに自分が持ち込んだものではなかった。
 脳裏に、能天気騎士の笑顔が掠めた。

「まさか!」

 慌ててノブを回して、部屋に出た。

「マルス!」
「あ。リデル様」

 マルスは、窓際のテーブル席について暢気に手を振っていた。
 オズワルドのそれは確信へ変わり、怒りが込み上げてきた。

「私の服を何処へやった?」
「洗濯に出しました!」
「さっき洗ったばかりだぞ!」
「え! そうだったんですか!? これはこれは……申し訳ないっす。あーでも、そこに僕が用意した服があるので、それ着ちゃって下さい」

 終始、表情も仕草も態とらしかった。
 まだ怒りの治まらないオズワルドへ、マルスは更なる追い打ちをかけた。

「それとも、服が洗濯出来るまでそのままで? さすがにご自分の部屋でも一糸纏わぬ状態って、宮廷魔術師としてどうなんすかね」
「お前の性格がどうかと思うよ」

 オズワルドは怒る気にもなれず、大人しく着慣れない服に袖を通して、マルスのもとへ向かった。