「桜花、遅いな……」
雑踏の中、鏡崎華音はスマートフォン片手にポツリと呟いた。
今立って居るのは、休日の駅の中央改札口前だ。都内で大きな駅の1つだけあって、改札を往来する人々で溢れている。家族連れだったり、きっちり背広を着たサラリーマンだったり、仲睦まじいカップルだったり、華音と同じく休日を満喫する学生であったり……。
同年代の女子は何度か通り過ぎたが、目的の人物ではなかった。
赤松桜花はまだ来ない。
***
華音が集合場所に到着する少し前。
桜花は自宅に居た。
洗顔と朝食を済ませた彼女は、自室で着替えに思い悩んでいた。
床には、脱ぎ捨てた服が沢山落ちていた。
鏡台の前、花柄のワンピースを着た自分の姿を映して唸る。
「ちょっと子供っぽいかしら……。でも、こっちだと……」
脱ぎ捨てた服の1つを掴み、合わせてみる。
「ボーイッシュかなぁ」
気に入らず、また床に放った。
どれも、しっくり来ない。いつもなら、こんなに悩む事はないのに。
「おい、桜花」
廊下から声がし、桜花が振り返ると、開いた扉の隙間から背広を着た父が顔を覗かせていた。
桜花の周りに広がる惨状を見て、忽ち父の表情が悪戯っぽい笑みに変わった。
「休日なのに、珍しく朝早いと思ったらデートか」
「デ、デート!?」
桜花は目を見開いた。
「例の彼氏……華音くんとか言ったか。何処行くか知らんが、楽しんで来いよ。俺は急に仕事が入ったから、独り寂しく出社してくるわ。んじゃ」
父は手を挙げると、桜花の視界からスッと消えた。
「ちょ、ちょっと!」
桜花は内から湧き上がって来る熱で頬を染め、慌てて扉を開いて父の背中を呼び止めた。
父はドアノブに手を掛けたまま振り返った。
「確かに、華音と遊園地に行くけれど、デートではないわ!」
「それをデートと言わず、何と呼ぶ? それに、そんなに服装選びに必死なとこ見ると、そうとしか思えないぞ」
「え? だって、これは……」
「そんじゃあな」
父はドアノブを回して出掛けて行き、桜花はまた元の位置に戻って鏡を見た。
いつもみたいに近所に出掛ける訳じゃない。沢山の人が来る遊園地に行くんだもの。おかしくない格好しなくちゃ……きっと、そう言う事よ。
自分を納得させ、気に入らない服を脱ぎ捨てた。
下着姿の自分が、鏡に映った。途端、桜花の脳裏に、あの日の華音との勉強会の光景が掠めた。
――――ちょっと! 何してるんだよ。
――――何って……着替えるのよ。部屋着にね。
――――待って! オレ、居るから! いきなり着替えるなんておかしいでしょ。
――――華音も私のお父さんみたいな事言うのね。一糸纏わぬ状態を見せている訳ではないし、何をそんなに……。
――――それを疑問に持つキミの神経を疑うよ! 着替えるなら、オレ出て行くから!
今思うと、とても恥ずかしい事の様に思え、桜花は赤面して頭を抱えた。
「やだ……。わたし、この姿を華音に見せても平気だと思っていたの? どうして」
確かに、完全に裸ではないから、そこまで恥ずかしい事だとは思っていなかった。ビキニで浜辺を歩く感覚と同じだと思っていた。
現に、ここ数日、父の前で着替えても何も思わなかった。
それが、華音の事を思うと恥ずかしくて仕方がないのだ。
桜花は自分の感情の変化に、首を傾けた。
と、とにかく、華音には見られたくない気がするわ。
すぐに、白色のワンピースを掴んで袖を通す。
それが、思いのほかしっくりときた。
模様や装飾がないものの、オフショルダーでシャーリング仕様。二の腕を隠すふんわりとした袖と膝が見え隠れする丈は、初夏にぴったりの爽やかな印象を与え、また、上品さがあった。
下ろしていた赤茶色の後ろ髪を上の方で水色の大きめリボンで結い上げれば、清楚な初夏コーデの完成だ。
桜花は鏡面に映る自分に、納得の笑みを向けた。
こうして後ろ髪を結い上げると、別次元のドロシー・メルツ・ハートフィールド第2王女と同じ生命体である事に納得がいく。
髪色も瞳の色も服装も地位も、全てが違うのに、やはり姿は瓜2つなのだ。
桜花はスマートフォンを手に取り、集合場所と集合時間を再確認する。
今日は、テスト最終日に華音と約束していた遊園地に行く日だ。
「場所はあそこね。それで、時間は……――――って、あぁ!?」
画面右上に記されている現在の時刻と、SNSのメッセージ画面上に記されている集合時刻に殆ど差がなかった。
気付かないうちに、時間だけが経過していたようだ。
桜花は急いでショルダーバッグを引き寄せ、スマートフォンを滑り込ませると、後片付けもせずにドタバタと部屋を出て行った。
ぜ、全力で走れば間に合うかも!?
それは現状不可能だった。
ブラックホールを抜け出す速さとまではいかずとも、とても人間の足では縮める事の出来ない差だった。
***
華音は行き交う同年代の女子を見ては、深い溜め息を吐いた。
待ち人来たらず。
自分の方が集合時間間違えたかな……と、スマートフォンに視線を落とすと、丁度桜花からメッセージが届いた。
土下座する猫のスタンプで『ごめん、遅れる』と記されていた。その後、すぐに『今向かっているから。もうちょっと待って』と文字が送られてきた。
華音は安堵し、桜花らしくて微笑ましいと思いつつ、大丈夫だと返信した。
それから、幾度か改札を人々が往来していった。
華音と同じ様に、近くで誰かを待っていた女性は改札口から出て来た男性に手を振り、2人仲良く並んで人混みの中へと消えていった。
もう着いてもいい頃だけど……。
華音はもう1度スマートフォンに視線を落とし、桜花に『まだ着かない?』とメッセージを送った。
返信はすぐだった。
「もう着いたって……。え? 中央改札口前に居る?」
華音は辺りを見回し、眉を下げ、視線も下げた。
沢山の人が居て、誰かを待つ人も居るが、アニメ系美少女の姿は何処にも見当たらない。
もう1度メッセージを打つ。
『居ないけど。何処?』
『だから、中央改札口よ。集合場所にちゃんと書いてあるじゃない。華音の方こそ、今何処に居るのよ』
逆に問い返された。
華音は頬を掻き、画面を見つめながらじっと考えた。
中央改札口ってところは合ってる。……いや、ちょっと待てよ。
スマートフォンを片手に提げ、少し歩いた。
辿り着いた太い柱の横には駅構内の案内図があり、駅名もちゃんと記されていた。
華音はその駅名を桜花に送り、返信を待った。
既読がついて数秒後――――。
『駅間違えちゃったみたい……』
と、返ってきた。
華音は「やっぱり」と口から零し、桜花が今居る駅を急いで本人に確認した。
『新が付いてるだけだけど、全く違う駅だね。じゃあ、オレが今からそっち行くから。そこを動かないでよ』
スマートフォン越しでも、物言いたげな桜花へ一方的にそうメッセージを押し付けると、華音はスマートフォンをズボンのポケットにしまって改札を潜った。
昼過ぎ、遊園地に到着した。
到着予定時刻から大分遅れてしまったが、逆に曖昧な時間帯故に人も少ないだろう……と華音は開き直ってみたものの、現実は甘くなどなかった。
この時間でも、入場口付近は人でごった返して、係員の立つ入場口までが遠かった。
チケット売り場もすぐそこにあり、長蛇の列が出来上がっていた。
しかし、コンビニで前売り券を購入していたから、並ぶ必要がないのが唯一の救い。問題は、やはり入場口への果てしない道程だ。
「これが遊園地なのね」
人混みにもめげず、幼子の様に栗色の瞳を輝かせている桜花を横目に、華音には今更帰ろうとも言えなかった。また、本当なら共有する事のなかった秘密を桜花に持たせてしまったのだから、その事の詫びを兼ねてこのぐらいは乗り切らなければならない。
あまり人混みの得意でない華音は、早くも疲弊していた。
ゴールデンウィークはとっくに過ぎたのに、この人混み……。本当、人が多くてはぐれそう……。
はたと思う。
今ですら、小柄な桜花の姿が周りの大人達の身体で見え隠れしていた。
華音は人の合間から手を伸ばし、桜花の小さな手を握った。
「か、華音?」
「は、はぐれると困る……から」
華音が頬をほんのりと赤く染めて横を向くと、桜花も頬を赤く染めて何故かリスの様に膨らませた。
「わたし、子供じゃないわ! 子供扱いしないでよ」
「そ、そうじゃない。子供じゃなくても、こんな人混みに居たら迷子になるだろ。……本当に嫌なら離すけど、絶対迷子になるなよ」
華音が手を離そうとすると、桜花はギュッとその手を握り返した。あまりの力強さに、思わず華音の口から苦痛の声が漏れた。
「嫌とは言っていないわ。唯、キミがわたしを子供扱いする事に不快を感じただけ。ドロシーの気持ちがようやく理解出来たわ」
「別にそう言う訳じゃないって。と言うか、ドロシー王女がどうかしたのか?」
「ドロシーね、オズワルドの事が好きなんだけど、全然女扱いしてもらえなくて、いつも子供扱いしてくるんだって。リアルムのオズワルドも同じって事ね」
「だけど、オズワルドは……」
華音の胸がチクリと痛んだ。あの日、夢として覗いたオズワルドの記憶の中で、彼の想いを共有した。ドロシーの事は大切に想っているが、それ以前に恋愛対象として誰かと愛し合う事は諦めてしまっていた。
そして、他にもドロシーをそう見る事の出来ない理由が彼にはあった。けれど、それはオズワルド自身しか知り得ない事だった。
スペクルムの自分の事を散々想いながら、華音はハッと心外だと言う顔をした。
「オレはオズワルドとは違う! あの傲慢魔法使いと一緒にするな」
「あれ? 華音はオズワルドと仲良くないんだ」
「仲良くない。ドロシー王女は性格良さそうだけど、オズワルドはかなり捻じ曲がってる。お願いしてる立場なのに、偉そうだし」
「そう。それじゃあ、仲が良いのね」
「な、何でそうなるんだ」
困惑した華音が桜花の方を見たが、彼女はもう前を向いて歩きだそうとしていた。
列が大分動いたのだ。
華音は息を吐き、桜花の手をしっかりと握ったまま、入場口へと進んだ。