生温かい風が頬を撫で、少年はふと立ち止まった。
 見上げた空は、背の高い建造物のせいで狭く、酷く澱んでいた。いつしかその重量に耐え切れず、冷ややかで無遠慮な雫を孤独な少年に落とす事だろう。
 少年は地上へ視線を戻し、冷静に屋根のある場所を探した。
 けれど、こんな路地裏にそんな都合の良い所などなかった。
 行く先に転がるは、無残に転がる人間の死体。既に腐敗が始まっていて、異臭を放つ。少年は死体を避けて歩く。まるで、道端の小石を避けるかの様に。
 行けども、行けども、そこに待ち受けているのは終わりのない闇。加えて、どんどん重量を増していく天上。

 一体、いつになったら辿り着けるのだろうか。

 長い間自由を奪ってきた鎖を断ち切り、屋敷から命からがら逃げてきたと言うのに、未だに絶望から抜け出せずにいた。
もう何年も、何十年も、もしかしたら何百年もこうしている。
 澄んだ空の様な色の髪も、陽だまりの様な色の瞳も、雪の様な肌も、当時の美しさはそこにはなく、あの空の様に濁っていた。

 父様、母様……。

 ぼんやりとしか思い出せない、最愛の者達の顔を思い浮かべては視界が滲む。

 何泣いてるんだ、オレは。もう子供じゃないのに。いや、身体は子供だけど。

 心の中で自嘲し、涙を拭い、薄汚れた布切れを白い素肌に巻き直した。
 ペタペタと、汚れたタイルを踏み締める素足から直に伝わる無機質な冷たさ……そして、孤独が少年に真冬の様な寒さを与えた。
 それでも、少年は歩みを止めない。
 少年の胸には今でも、両親がくれた愛と約束があるのだ。それを果たすまでは、立ち止まる訳にはいかない。
 遂に、雨が降り出した。一瞬で、景色が真っ白になり、雨が地上を容赦なく叩きつける音だけが辺りに響き渡った。
 道端の死体は原型をなくし始める。
 少年は、全身を雨色に溶かしながら歩いて行った。
 視界が悪くなる一方で、少年の琥珀色の瞳はそこに沈む確かな存在を見つけ出した。
 少年は、羽をもがれ空へ戻る事の叶わない哀れな烏に近付いた。
 漆黒の翼は雨で艶やかに輝いているが、同色の瞳は輝きをなくして空を見る事を諦めてしまっている。
 彼らは夜の使者の様なその不気味な風貌から、人間には忌み嫌われていた。

「……オレと同じだ」

 少年は哀れな烏の傍に膝をつき、手を翳した。瞬間、青白い光が生まれ、烏を包み込む様に魔法陣を描いていった。

「――――我が名はオズワルド・リデル・…………オズワルド・リデルだ。オレの魔力を与える。だから、共に来い」

 青白い光が烏に染み込み、魔法陣が消えた時には漆黒の翼が青みがかり、しっかりと開いた瞳はサファイアブルーへと変わった。
 烏は再び空を飛ぶ事を許された喜びに、雨の中飛び回り、それから満足した様に少年の細い肩に乗った。
 少年は烏の頭を撫で、降り続く雨の中をまた歩き出した――――。