心臓はまだ忙しなく頬も熱いが、華音は反射的に身を引いていた。
 その無遠慮な行為に、桜花は頬を膨らませた。

「もしって言ったでしょ!? 本気で引かないでよ!」
「いや……だって、ねえ」

 華音は同意を求める様に、教卓上の使い魔を一瞥した。
 ゴルゴは真っ直ぐなサファイアブルーの瞳を向けるだけで、返事はしない。代わりに、そこから此方の様子を覗っているであろうオズワルドが代わりに応えているかもしれない。
 桜花は咳払いをし、表情を真剣なものに戻した。華音も表情を引き締めた。

「ねえ、どうなの? キミは何でもいいって言ったけれど、それがわたしの本気のお願いだったら?」
「そう……だね。桜花が本気でそれを望むのなら、オレは……」

 途端、桜花はスッと目を細め、机上のネクタイを鷲掴みにした。

「キミは馬鹿ね」

 そのネクタイを華音の首にかけた。

「桜花……?」
「……駄目よ、そんなの。好きでもない相手に、軽々しくするものじゃないわ。特別なものなの。キミは自分を大切にして」



 桜花は丁寧にネクタイを結んだ。その表情は俯いていて、華音が窺い知る事は出来なかった。
 華音は桜花を見下ろし、健気なその頭部に手を乗せようとしたが、寸前でやめた。

「好きでもない相手……ね」

 言葉に引っ掛かりを覚えた。
 親友にも語った事のない過去を語った時もそうだった。不思議と、桜花に対しては思っていた程抵抗がなかった。
 胸がドキドキとして締め付けられる感覚……オズワルドの記憶を夢として見た時に感じたモノと似ていた。唯、オズワルドとは少し何か違う気がした。その不思議な感覚を言語化する事はまだ、この時の華音には出来なかった。けれど、決して嫌ではない感覚だった。
 華音は仕上げに、自分でネクタイをキュッと上まで締め、ニコッと笑った。

「じゃあ、それ以外で何か」

 桜花は天井を見て唸り、少ししてひらめいた様に、華音の顔を見た。

「遊園地! わたし、遊園地に行きたい。都内で1番大きなあそこ。1度も行った事がないのよ」
「遊園地? えーっと……うん。分かった。遊園地、行こう」
「やったぁ」

 女子高生の願いがそれとは。しかし、それが桜花らしくもあり、華音は微笑ましく思った。
 2人の頬は同じ様に赤く、手が汗ばむ程に身体が熱かった。

「何だか、暑いわね」
「え? 桜花も?」

 華音の胸を支配する感覚を桜花も感じている……のかと思いきや、華音は、はたとそれが恐らく違う事に気付いた。

「暖房入れてたんだった。もう服もだいぶ乾いたな」
「なるほど。それでなのね。心臓もドキドキよ」
「…………え?」

 カツカツカツ……。

 2人の耳に、此方へ近付いて来るヒールの音がはっきりと聞こえた。

「先生が戸締りに来たんだ」

 華音は手早くエアコンを冷房に切り替えてから切り、ぼんやり突っ立っている桜花を手招いた。

「早く帰ろう」
「え、あ……うん」

 ゴルゴを引き連れて教室を出ると、ヒールの音が大分近くにあり、当然2人の生徒を呼び止める教師の声が廊下を反響した。
 しかし、2人は気付かぬフリをして走り去った。その表情は何処か楽しげだった。


 校門が見えて来ると、華音と桜花は息を整えてゆっくりと歩き出した。使い魔は町の見回りと言う、本来の勤務へと戻っていった。
 華音は「あ。そうだ」と切り出すと、手に持ったままだったハンカチを桜花にも見える様に持ち上げた。

「これ、洗って返すよ」
「ううん。華音にあげる」
「いや、でも……」

 華音は、眉を下げて猫柄のハンカチを見つめた。華音が使ったからいらなくなったと言う意味なのだろうか。もし、そうだとしたら、華音は強引に自分の意思を貫く事は憚られる。
 仕方なくハンカチをズボンのポケットにしまおうとすると、急に桜花がそれを横取りした。動作があまりに早く、華音は一瞬何が起こったのか分からなかった。
 桜花はハンカチを大事そうに握り締め、目を伏せて頬を桜色に染めた。

「やっぱり、これは駄目。華音にはもっとイイモノをあげるわ」
「え? イイモノ……?」
「ねえ。華音の誕生日っていつ?」

 パッと桜花が顔を上げ、目が合ってしまった華音は面映くて、すぐに逸らした。
 視線の先には、澄んだ青空が何処までも広がっていた。

「何だよ。いきなり……。10月7日だけど」
「そうなんだ! だいぶ先ね。じゃあ、すっごくイイモノ用意するから楽しみにしていてね」
「う、うん。……桜花の誕生日はいつなの?」

 華音が視線を戻すと、嬉しそうな桜花の横顔があった。

「わたしは2月2日。にゃーにゃーの日よ。すごいでしょ」
「本当だね。じゃあ、桜花も楽しみにしてて。オレもすっごくイイモノを用意するから」
「えへへ。今から楽しみだわ」

 桜花と居ると、心がぽかぽか温かくなる。すっかり凍りつき冷風が吹いていた筈なのに、今は春の草原に居るみたいに穏やかだ。
 桜花に、ずっと内に溜め込んでいたモノを知ってもらえて良かった……と、華音は心から安堵した。
 青空に視線を戻そうとすると、視界の端で鞄が揺れた。桜花が肩に提げている、猫のマスコット付きの鞄だ。
 対して、華音の両手はすっきりとしていた。
 華音はサッと青褪め、踵を返した。

「鞄! 校舎に忘れてきた! ごめん。取ってくるから、先に帰ってて」
「普段わたしの事ドジって言うのに、呆れちゃう。いいわ。わたしも一緒に行ってあげる」

 既に走り出していた華音の背中を桜花は追う……が、自分の右足に左足を引っ掛けて見事に地面へダイブした。

「痛い……」
「呆れちゃうのはどっちだよ」

 華音は桜花のもとへ戻って来て、苦笑しながら手を差し伸べた。



 チャイムが鳴り終わった教室内は、全員席にピタッと着き、いつもに増して静かで緊張感が漂っていた。
 そんな中、華音はいつもと変わりなく、ぼんやり教壇の方を見つめ、同じ様な心持ちで刃が大きな欠伸をしていた。
 教卓の前で、眼鏡を光らせたキツイ顔つきの女性教師が紙の束を手に、コホンと咳払いした。

「では、この前の中間テストを返却します」

 名簿順に名前が呼ばれ、生徒が取りに行く。一足先に解答用紙を手にした生徒は席に着くなり、ガッツポーズをしたり、溜め息を吐いたり、興味深げに頷いたり、各々の反応を見せた。
 華音の横を通り過ぎた桜花は、解答用紙を凝視しながら幸せそうにしていた。英語は元々それなりに出来ていたし、きっちり勉強もしたから、それが点数に反映されたのだろう。
 華音は桜花の様子に安心しつつ、普段通りに解答用紙を受け取って席に着いた。
 自分は何の問題もない……。だが、それは過信していただけだった。

「えぇっ!?」

 思わず感情が声になり、滅多に聞かないそれに周りは驚いて優等生の方を一斉に見た。
 華音は注目を浴びている事にも気付かない程、解答用紙の右上に示された赤い数字に狼狽えていた。
 解答用紙をヒラヒラさせながら教壇から戻って来た刃は、悪戯に華音の解答用紙を覗き込んだ。

「へえ~。一体どんな酷い点数かと思ったけど、99点じゃん?」

 周りは1度静まったが、一部がまたざわめき出した。

「鏡崎くんが満点じゃないなんて……」
「一体何を間違えたのかなぁ」

 優等生へ絶対なる期待を寄せている女子生徒達は、少し不満そうだった。

「何で、オレ……」
「ここの英文、watch(ウォッチ)witch(ウィッチ)になってんな」

 刃と入れ替わりに、雷が解答用紙を覗き込み、告げられた確かな真実に華音は項垂れた。
 認めたくないけれど、何度見返しても同じ結果に終わった。
 雷が自分の解答用紙を取りに行き、華音は現実から目を背ける様に窓の外を眺めた。
 青空の中を、青みがかった烏が優雅に羽ばたいている。あれは使い魔。オズワルドが魔女殲滅を華音に代行してもらう為に、送り込んだ存在。

 いつの間にか、頭の中が魔女の事で一杯だ……。

 時を刻む時計よりも、時を壊そうとする魔女の方がずっと重要だ。

「わたしも、ウィッチって書いたわ!」

 後ろから、誇らしげな可愛い声がし、振り返った華音が見たのはバツばかりの桜花の解答用紙だった。
 華音は呆れた。

「綴り違うし」
「えぇっ!?」

 今度は桜花が大きな声を出し、周りの注目を集めたのだった。


 返却してもらったばかりの解答用紙を鞄に詰め、いつも通り華音は帰路を歩く。刃とは数分前に別れ、今は1人、自宅付近だ。
 大きな門が見えて来た所で、脇を黒の高級車が通り過ぎた。
 華音は振り返り、遠ざかっていくそれに首を傾けた。

「……母さん?」
「華音くん!」

 名を呼ばれて視線を戻すと、水戸が車庫の前から華音の傍へ移動して来た。

「お帰りなさい」
「水戸さん。今、母さん帰って来てた?」
「あ、はい。華織様はお仕事の途中でいらしたみたいで、すぐにまた会社へと戻られました」
「ふぅん……。何しに帰って来たんだろう」

 華音はもう一度、振り返った。もう母の車は見えなかった。

「夕飯、もう出来ていますので、食べましょう?」
「……うん。そうだね」

 水戸の笑顔に導かれる様に、華音は門を潜った。


 当たり前になった、2人きりの食卓。
 テーブルには水戸が腕に()りを掛けた料理が並び、本日も美味しそう。しかし、1つだけ不自然なものがあった。けれど、何処か見覚えがあった。
 華音は箸でそれを突っついた。

「これ……水戸さんが作ったものじゃないよね?」

 ()してや、惣菜屋さんに並べられる出来ではない。形がボコボコ歪で、不揃いだ。きつね色の衣を纏っている為、辛うじて揚げ物である事は分かる。
 水戸は、目を細めるだけだった。
 華音は疑問を抱いたまま、箸で歪な揚げ物を割ってみた。

「まさか、これ……」

 鮮やかな山吹色の、ホクホクとした断面が露となった。
 誰がどう見ても、これはカボチャだ。

「……華織様が作られたんですよ」

 水戸の声は、いつもに増して優しかった。
 華音の脳裏に、家族3人、幸せに溢れた風景が掠めた。
 記憶の中の父は勿論の事、母も華音も笑っていた。
 現在(いま)の華音の顔にも、自然と笑みが浮かんだ。

「まったく……相変わらず、料理下手なんだから」

 そう言いつつも、頬張ったカボチャのコロッケは甘くて美味しくて、懐かしい味がした。

 まだ華音は母を許した訳じゃないけれど、親子の間で止まっていた時間はゆっくりと進み始めている――――。