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「華音くんは偉いわね。算数なんて、また100点よ。国語はちょっと苦手なのかしら」

 向かいに座る若い女性教師は、子供好きのする笑みを浮かべて手を叩いた。
 華音は褒められて子供らしく素直に喜んだが、机上に並ぶ解答用紙を不満げに眺めた。

「算数は簡単だけど、国語はちょっとむずかしい。登場人物の思ったことなんて、おれには分からないよ。おれじゃないもん」

 尤もな意見に、少々教師の笑みが困惑の色を帯びた。

「そうね。でも、その人物になったつもりで考える事も大切。よく私がお友達にされて嫌な事を、お友達にしちゃ駄目って言うのと一緒。お友達の気持ちを考えるの。だから、一生懸命考えて? 華音くんなりの答えを出せばいいから、分からないなんて書かないでね」

 教師の話は少し難しい。けれど、華音はちゃんと理解して大きく頷いた。

「うん。わかった!」
「ふふ。じゃあ、そのテストをちゃんとお母さんに見せるのよ?」
「はーい」

 華音は解答用紙を綺麗にまとめ、黒いランドセルに押し込んだ。
 斜陽の光が教室内を、橙色に塗り替えていく。
 華音は席を立つと、ランドセルを重たそうに背負って、教師に見送られながら斜陽に背を向けて教室を出た。

 黄金色に輝く空の下、水溜りを飛び越えて家へと急ぐ。
 ランドセルの中で揺れる解答用紙に、心も軽々と揺れる。算数を始め、殆どの教科が100点満点。国語は世間から見たらイマイチな点数だが、本人にとっては納得の点数だった。これを見せたら、母は先生みたいに褒めてくれるかもしれない。最近あまり笑わなくなったから、きっとまた笑ってくれる。
 父が亡くなって華音も悲しかったが、母が悲しんでいるのはもっと悲しい。だから、笑ってほしい。華音は、そう願い、信じていた。
 途中で出逢った同級生や近所の人に明るく挨拶をしていると、大きな門が見えて来た。
 “鏡崎”と表札のかけられたそこを、慣れた様子で潜り抜けて、白いタイルの長い道を一気に駆け抜けた。
 重厚な扉を開け、大きな声で「ただいま」と言って運動靴を脱ぎ捨てて玄関へ上がった。

 期待を抱いて踏み込んだリビングは、仄暗かった。大きな窓の外では太陽が勤務終了まで頑張ってくれているが、全く頼りない。
 華音は部屋の明かりを点けた。
 鮮明になった室内には、母がちゃんと居た。始め、返事がなかったので居ないのかと思った。
 母はソファーに座らず、絨毯の上に座って顔をローテーブルに伏せていた。近頃、よく見る光景だった。

「おかえり」

 やっと息子の帰宅に気付いた母だが、顔は伏せたままで、声も破棄がなかった。それも、華音は慣れ始めていた。
 華音はどうにか母の顔を上げさせたくて隣に座って、ランドセルを下ろした。中から、生き生きとした顔で解答用紙を取り出す。

「ねえ、聞いて! 今日先生にほめられたんだ」
「うん?」

 期待通り、母は顔を上げた。まだ、瞳はぼんやりとしていた。
 華音は母の目の前に、解答用紙をズラリと並べた。

「算数がいつも100点だからすごいって。それで、理科も社会も100点で、国語だけが78点だったんだけど……」
「……100点じゃないの? どうして」

 母の瞳が、次第にくっきりとしてきた。
 華音は指で、国語の解答用紙を示した。

「ここの、登場人物の気持ちを書きなさいってところ。分からないから、そう書いたらバツにされちゃった。でも、次からはちゃんと考える」
「どうして、100点じゃないの」
「えっと……ここ間違えたから…………」
「どうして」

 母は何度も繰り返した。顔に華音が期待していた表情はなく、まるで彫刻の様に一定して無表情で、綺麗な顔をしているだけだった。
 華音は自分の行動自体の間違いに気付き、慌てて解答用紙をランドセルに戻してその場を立ち去ろうとした。
 だが、もう遅かった。

「お母さん?」
「何で出来ないの!」

 母に手首を掴まれた。
 これまで聞いた事のない母の怒声、そして、徐々に締め付けられる手首の痛みに、華音の心は一気に恐怖で溢れた。
 全身が寒くなり、凍りついて顔を上げる事が出来ない。
 更に、母は華音に追い討ちをかけた。

「こんな簡単な問題、分からない筈がないでしょう! 貴方は今まで何を勉強してきたの!?」
「ご……ごめんなさい」

 華音の瞳に、涙が滲む。
 唯、母に笑ってほしかっただけなのに。
 助けを求める様に玄関の方を見たが、帰って来る者は誰も居なくて。父はもう帰らない。此処には、母と息子……2人だけしか居ない。
 母が華音に対して、理不尽な暴力を振るう様になったのはそれが始まりだった。
 以来、華音はテストで70点台を採る事はなくなったが、時々98点や99点を採る事はあった。けれど、それでさえ母は許してくれなかった。100点でなければ、完璧でなければ認められない。
 そして、完璧を求められるのは勉強だけではなかった。うっかり忘れ物をした時にも、酷く叱られた。その度に、華音の心と身体は傷付いた。
 こんな日々が続き、遂に悲劇が起きた――――。


 ***


 華音は、恐怖で粟立つ身体を抱きかかえて目を伏せた。

「熱湯をかけられた時が一番痛くて、辛かった。……恐かった」

 桜花は先程見た火傷痕を思い出し、痛みを共有しているかの様に苦しそうな顔をした。まだ、掛ける言葉は見当たらない。
 そうしているうちに、また華音が口を開いた。

「もっと酷い事されるのも嫌だったから母さんの前では平気なフリをして、近所の公園でこっそり泣いてた。その時にさ、雷と刃に出逢ったんだ。2人はオレの事情なんて知らずに馴れ馴れしく接してきて……だけど、それがオレにとって救いだった。2人が居たから、あの日々を乗り越えられた」

 親友達の事を話す華音の表情は、少し安らいでいた。声色も柔らかい。
 唯の仲良しとばかり思っていた桜花は、その絆の深さに驚き、羨んだ。

「そうだったんだ……。わたしも……そう言う関係になれるかしら」

 漸く出て来た言葉は、桜花自身も予期していなかったものだった。
 桜花は慌てて口を手で塞ぎ、瞳を瞬かせている華音に言う。

「……誰かに相談しなかったの?」

 また、華音の表情が曇った。

「うん。オレも多分、狂っていたんだ。自分が出来ないから怒られる、出来るのが当たり前。それが普通で、褒められる様な事じゃない。今でも、そう。優秀だとか、優等生だとか言われるけど、オレは当たり前に出来る事を当たり前にやっているだけで特別じゃないから……」
「だから、あの時……」

 桜花は華音に「完璧」だと言って、激怒された事を思い出した。

「さすがに……出来ない事を怒るのはおかしいとは気付いたけど。今になって思うんだ。きっと、あの頃の母さんはオレに自分の姿を重ねていたんだ。経営が思う様にいかなかったから。完璧じゃないといけなかったから。だから、母さんを責める事は出来ないし、オレはこの事実を火傷痕と一緒に隠そうって思ったんだ。だって、大スキャンダルだろ? 有名企業の社長が息子を虐待していただなんて」

 華音は無理な笑顔を見せたが、反面、桜花は悲痛な表情を浮かべていた。

「キミって……優しくて、呆れちゃうぐらい強がりなのね」
「そうだよ。周りが思っている程、オレは優等生じゃない。……変だな。何で桜花にこんな話しちゃったんだろう」

 華音は胸に手を当てて、首を傾げた。心臓がいつもよりも急ぎ足で、全身に血を早く巡らせている。頬にも少し熱が帯び、ほんのりと桜色に染まっていた。

「あ。それでさ、桜花。お願いがあるんだけど……」
「何かしら?」
「今の話、誰にも言わないでほしいんだ」
「ええ。勿論、そのつもりよ」
「ありがとう。お礼と言うか、口止めみたいになっちゃうけど、桜花の願いを1つだけ叶えるよ」
「わたしの願いって。別にいいわよ」

 困惑する桜花に、華音は強引に続けた。

「オレの気が済まないんだ。何でもいいよ。欲しい物があるなら買うし……」
「えーっと……いきなり言われても困るのだけれど。そうね……」

 桜花はじっと華音を見つめ、桜色の唇に人差し指を当てて含んだ笑みを作った。
 チェリーブロッサムの匂いがふわりと香り、その表情も相まって、何処か妖艶で、華音はドキッとした。

「もし、キスしてほしい……って言ったら、キミは叶えてくれるのかしら?」
「え……」