華音と刃、2人で通っているいつもの帰り道を、今日は雷を伴って歩く。途中、いつも刃と別れを告げる場所に差し掛かったが、通り過ぎても変わらず刃は華音の隣を歩いていた。
 華音は、横目で刃を見た。

「来てもいいけど、勉強の邪魔はするなよ。と言うか、オレの家、何もないから退屈だと思うけど……」
「邪魔しない、しない。1度ぐらいは行ってみたいじゃん。親友の家にさ」
「そんなもんなのか」

 華音には、刃の心境が理解出来なかった。
 3人は小学校中学年の頃からの付き合いとなるが、これまで1度も華音が自宅に2人を招いた事はなかった。それどころか、逢うのは決まって近所の公園のみで、小学校も中学校も別だった。
 中学生になってからは逢う事はなくなり、高校の入学式で漸く再会を果たしたのである。その時は互いに成長し、雰囲気も変わっていてすぐには気付けなかったが、名前を知って言葉を交わすと、当然の様に昔の関係に戻ったのだった。
 唯、華音は昔から自分の事を話さない為、刃と雷は今でも彼の家庭の事は全く分からない。正直、これから鏡崎家へ向かう事に不安はあった。
 父親が他界している事は、親友でなくとも知っている。当時の鏡崎家具の社長が病死したニュースは、世間を騒がせたのだから。
 華音に兄弟はおらず、同居している血縁者は現社長の母親のみ。その母親も滅多に家に帰らず、代わりに家政婦を1人住み込みで雇っている。
 そんな聞いただけでも寂しい家に、部外者が踏み込んでいいのだろうか。と、同時に、刃と雷には親友の為に何か出来る事が見つかるかもしれないと言う、微かな希望が胸に宿っていた。
 不安と重たい空気を振り払う様に、親友達はいつもの調子で他愛ない話で盛り上がり、時折冗談を言って華音を笑わせた。

 擦れ違った近所の奥さんに、華音が優等生の顔で挨拶を交わす。
 そうしているうちに、目の前には純白の高い塀と重厚な門が見えて来た。
 そこに囲われているのは、まさに西洋の風景。一面の芝生に、綺麗に並んだ庭木、煉瓦の道……その先にどっしりと構える洋館。立派な扉を潜り抜ければ、貴婦人らがティーカップ片手に楽しく談笑でもしていそうな雰囲気があった。
 閉じられた門の左隣には広い車庫、右隣には表札がある。
 想像以上の豪奢さに、刃と雷の口はあんぐりと開いていた。
 思わず、お決まりの様に「此処がお前の家か?」と訊きたい衝動に駆られるも、そんな事は表札を見ればすぐに分かる事。それに、開いたままの口が上手く言葉を紡ぐ事は出来なかった。

 華音は言葉を失った親友よりも、車庫の方が気になっていた。
 普段シャッターが下ろされている筈なのに、今日は全開だ。そして、見慣れた水戸の軽自動車の横に、艶やかな黒いボディの高級車が停っていた。
 まさか……と思うと、門とドアがほぼ同時に開いた。
 慌てた様子で門から出て来たのは、朝見た時と変わらないパステルイエローのエプロンを着用した家政婦の水戸。
 高いヒールの音を響かせて運転席から出て来たのは、大分前に見た時と変わらないきっちりとしたスーツを着用した鏡崎家具の社長である――――

「母さん……」

 華音が呟くと、親友の視線は水戸から華音へ、そして、華音の母親へと移った。
 2人もテレビで1度は見た事のある女性。40歳を過ぎていても、若々しくて美しい彼女は気品だけでなく、社長としての威厳も兼ね備えている。
 後ろでしっかり結っている黒の長髪に、大きな黒の瞳、雪の様に白くて血色の良い肌。化粧は薄いが、逆に、自然に近いその姿が妙に色っぽくて美しかった。
 わざわざ口にせずとも、華音がこの人から産まれたのだと、その外見だけで分かる。
 雷は華音の母と目が合い、慌てて逸らした。刃も少し気不味そうに視線を逸らし、2人の視線は再び華音へと戻った。
 睫毛の長さが際立つ横顔が、僅かに強ばっていた。

「す、すみません。華音くん、一応連絡は入れたのですが……」

 傍に来た水戸が眉を下げ、華音はズボンのポケットからスマートフォンを取り出しかけてやめた。母が目の前に来たからだ。
 華音はサッと、綺麗過ぎる笑みを顔に貼り付けた。

「母さん。今日は仕事、早く終わったんだね」
「ええ。久しぶりに、華音に逢いたくなってね。暫く見ないうちに、背伸びたわね。何だか、昔の音夜が還って来たみたい。本当、お父さんにそっくりね……」

 母は瞳を揺らし、愛おしそうに手を伸ばす。
 髪に母の手が触れても、華音の表情はそのままだ。
 ごく自然な、久しぶりの親子の対面の様子だが、親友達の目には不自然に映った。
 母は手を下ろして、今気付いた様に華音の隣に並んだ少年達を一瞥して首を傾けた。

「……その子達は鏡国高校の生徒よね。クラスメイト?」
「うん。そう。友達」
「高木です。初めまして」
「俺、刃! よろしく~華音のお母様」

 雷が恭しく挨拶し、刃があえていつもの調子で緩く挨拶した。
 2人の姿に、明らかに母の笑顔が引き攣った。

「そうなの。よろしくね。……華音、ちょっと」

 母の表情の変化をしっかり見ていた華音は、何の躊躇もなく母に手招きされるまま、親友達から離れた。
 華音を覆い隠す様に、刃と雷に背中を向けた母は眉を吊り上げて牙を剥いた。先とは別人の顔だが、華音にとっては記憶と一致する顔だった。

「本当に友達なの!? どう見ても、不良じゃない」
「友達だよ。1番仲が良いんだ」

 華音は時折目を逸らしそうになりつつも、何とか笑顔を保ち続けていた。

「華音! 貴方、私が見ていなくてもちゃんと真面目にやっていると思ったら……。あんな不良と付き合うのはやめなさい! 貴方とあの子達は違うの。貴方にはちゃんとした……」
「……ちゃんとしたって何? オレとアイツらの何処が違うって言うんだ」

 笑顔の仮面が罅割れ、ポロポロと零れ落ちていく。
 その仮面の隙間から見え始めた素顔に、母の背筋がゾッと凍りつく。
 華音の漆黒の瞳が、怒気を纏ってギラリと光った。

「2人はオレの大切な親友なんだよ。あんたよりも、オレの事を解ってくれてる。人を見掛けでしか判断出来ないあんたが、勝手にオレやアイツらを知った様に言うな!」

 澄み渡った空に、怒りが響き渡った。
 直接それをぶつけられた母は勿論の事、外野である水戸、雷、刃も気圧された。
 夜風が通り過ぎるよりも先に空気が冷やされ、西へ向かう太陽も遠慮がちに光をチラリチラリと零すだけ。この場には、夜よりも深い闇が落ちていた。
 これ以上は、此処に居ては駄目だ。そう悟った雷と刃は、そっと歩き出す。

「鏡崎、悪いけど俺達……」

 と、言いかけた雷の横を早足で華音が通り過ぎた。
 呆気にとられている親友を振り返り、華音は酷く澱んだ声で言う。

「何してるの。行くよ」
「行くって?」
「待ってよ、かがみん」

 慌てて雷と刃が追いかけた時には、華音は再び歩みを始めていた。向かうのは鏡崎家ではなく、母の視界の外側。
 3人が去って行くのを呆然と眺めていた華織のもとへ、恐る恐る水戸が歩み寄った。

「華織様……」
「……水戸。温かい紅茶を淹れてちょうだい」

 華織が黒い長髪を靡かせ、カツカツ歩いて行く。堂々とした態度で振舞うも、その背中は悲しみを秘めた1人の母親そのものだった。

「は、はい!」

 水戸は華音達を一瞥し、すぐに華織を追い越して門を開けて主を誘導した。


 温かく香り高い紅茶は確かに、夜風に晒されて冷えた身体を温めてくれたが、広い雪原に放り出された心までは温めてはくれなかった。
 座布団の上、長い足を綺麗に曲げて座る華織の口から溜め息が漏れた。

「会社は何とか護っているわ。だけど、何よりも大切なあの子の事はどうにも出来なくて……。確かに、貴方に似て優秀よ? 成績は今も学年トップなんだって。美術だけは、誰に似てしまったのかしら……からっきしみたいだけど」

 彼女の話を、笑顔で黙って聞いているのは遺影の夫だ。
 音夜は生前もこうして、華織や華音の話を穏やかな表情で真剣に聞いてくれていた。そして、時には優しく、時には厳しい真摯な意見をくれた。
 けれど、現在、華織の目の前に居る彼はもう一方的に話を聞く事しか出来ない。それでも、夫がまだそこに居るみたいで華織は安心出来た。
 いつも近況報告する華音も、華織と同じ気持ちだ。
 音夜は家族にとって大切な夫であり、父であるのだ。
 華織は目を瞑り、瞼の裏に幼き息子の姿を映し出す。

「分かってる。華音が心を閉ざしてしまったのは、全部私のせい。私が心も、身体も傷付けてしまったの。それなのに、私は今もこうして逃げ続けている。現実から目を背けているの。貴方はきっと呆れているでしょうね……。本当にごめんなさい……」

 瞼の裏の息子の瞳から涙が溢れ、華織の頬にも涙が伝っていた。
 華織を呼びに来た水戸は廊下から様子を見、壁に凭れてスマートフォンを胸に抱いた。まだ、お知らせランプは光らない。