コーヒーを飲み終えた頃には、華音から穏やかさが消え、すっかり疲弊していた。
どう頑張っても、桜花が次の段階に進む事はなかった。
華音が当たり前に出来る事を、桜花は当たり前に出来ないのだ。
終わりの見えない現状に、さすがの華音も同じ事を繰り返す気力はもうなかった。
また、桜花自身からも意欲が喪われつつあった。
「頭が痛いわ……」
眉間を押さえ、桜花はゴロンとベッドに横になった。
華音は教科書を閉じて、桜花の方を見る。
「大丈夫か? 薬飲んだ方が……。と言うか、オレもう帰ろうか?」
「問題ないわ。これは脳みそを使い過ぎた事による頭痛……。少し休めば治るから、まだ帰らないで」
「そうなんだ。じゃあ、回復したら言ってよ」
と穏やかな顔で返しつつも、内心では「そんなに脳みそ使ってないだろ」と毒づいていた。
カチコチと壁掛け時計の音が響き、窓から橙の光が差し込む。
華音はスマートフォンを弄り、桜花は縫いぐるみを弄っていた。
「この子の名前は桜もっちり!」
桜花はベッドの上をゴロンと転がり、仰向けで桜色の猫の縫いぐるみを高く持ち上げた。
思わず華音はスマートフォンから目を離し、桜花の方を見た。
「桜もっちり?」
「そう! 華音に取ってもらった子の名前よ」
「へぇ。と言うか、桜花。もう大分回復してるね?」
「えっ……。ちょーっと、まだ頭の回転が鈍い気がするわ」
桜花は遠い目をし、ガバっと起き上がって縫いぐるみを枕元に置くと、ベッドを下りた。
「もう勉強する気ないなら帰るけど……」
「や、やる! やるから、もうちょっとだけ……」
大人しく席に着くかと思いきや、桜花は華音の横を素通りしてドアノブに手を掛け、そのまま回して廊下へ出た。
「コーヒーとお菓子持ってくる! 糖分も必要よね」
ほんの少し開けたドアの隙間からそう告げ、また華音の前から消えていった。
華音は空の色と時計の針が示す時刻を見比べ、もう少ししたら帰ろうと心に決めた。
華音が決めた“もう少し”より早く戻って来た桜花は、アツアツのコーヒーの入った硝子のポットと市販のクッキーを並べた大皿をテーブルに置いた。
ただでさえ狭いのに、これではおやつがメインの様になってしまった。
桜花は構わず、華音にコーヒーとお菓子を勧めて、自分も向かい側に腰を下ろしてコーヒータイムを存分に楽しみ出した。
華音は仕方なく本日2度目となる苦手なコーヒーに口をつけ、冷めた瞳で桜花を見た。
「ねえ。もうやる気ないだろ」
「そ、そんな事はない筈よ!」
「教科書類が全て机の下じゃないか……」
「それは、邪魔だったから……」
「邪魔って言った……」
桜花がどんなに学習能力がなくとも、根気よく付き合ってきた華音だが、さすがにもう疲れきって、その上能天気な彼女の態度にイライラし始めていた。
「ほら! このクッキー美味しいよ? コンビニで買った新発売のクッキー!」
「……そうだね」
少しずつ、2人の温度に変化が起き、ずれ始める。
華音はスマートフォンをズボンのポケットに戻し、鞄を引き寄せた。
帰ろうとしている。
そう悟った桜花の顔に、焦りが垣間見えた。
「まだ帰らないで! お願い!」
「帰らないでって。オレはお茶会をしに来たんじゃない」
華音は気怠そうに手を止めた。
桜花の必死のお願いは続く。
「わ、わたし……キミも分かった通り、本当に頭が悪いの! 赤点採ったら、お父さんの期待を裏切っちゃう。お父さん、仕事で忙しいから……せめて、これぐらいはちゃんとしたいの。迷惑かけたくないのよ」
「それなら、尚更ちゃんとやろうよ」
華音の表情に穏やかさは戻らないが、気怠さは少しだけ和らいだ。桜花の必死な想いは、ちゃんと心に響いた。
勉強再開。
ところが、一歩進んだかと思えば、二歩下がると言う様な状態が続き、華音の手にも負えなくなった。
「ねえ、華音。ここはどう言う風に解けば良かったかしら」
「うん? そこ、もう20回ぐらいやったよね?」
会話も、先程から殆ど変化がない。
もう2人は、巻き戻しの術中に居た。
華音はチラッとスマートフォンの画面を見るが、術から抜け出したのは桜花の方だった。
「とりあえず、コーヒーを飲みましょう」
そう言って、硝子のポットに手を伸ばして持ち上げる。
「きゃっ」
桜花の悲鳴と共に、ポットがつるんと手から離れた。
その真ん前に居た華音は顔を上げ、瞠目し、咄嗟に身体をずらした。
ガコン。
テーブルにぶつかったポットが倒れ、コポコポと絨毯にコーヒーを注いだ。
絨毯が黒く染まっていき、芳醇な香りと湯気が漂う。
桜花は慌ててポットを起こし、瞠目したままの華音に近寄った。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫? かかってない?」
華音は応えず、ポットを通じて過去の映像を視ていた。
目の前に居るのは桜花ではない、今より若い母だ。
夕日の差し込む窓を背に、黒い影となった母が湯気を吹き出す薬缶を片手に振りかぶる。
「何で出来ないんだ!」
母の口の動きに合わせる様に、華音は立ち上がってそう叫んでいた。
背中の火傷痕が疼いて仕方がない。
痛い。恐い。
記憶の母ではなく、現実の桜花を見下ろす漆黒の瞳は、怒気が渦巻いていた。
今度は桜花が瞠目し、狼狽えた。
「えっと……あ、あの…………その……。本当にごめんなさい……」
「何度も教えてるのに、何で出来ない?」
「何でって言われても……。出来ないものは出来ないの……」
桜花は華音の目を見る事が出来ず、俯いた。
構わず華音は追い打ちをかける。
「キミ、本気でやる気ないだろ。唯やっているつもりになっているだけ。そんな自分に満足したいだけだろ」
ハッと桜花は顔を上げ、桜色の唇を震わせた。
「な、何よ……そんな言い方しなくたっていいじゃない。わたしだって必死なのよ! 皆が皆、キミみたいに完璧な訳じゃないわ! キミにわたしの気持ちは分からない!」
「オレは完璧じゃない!」
これまでの穏やかな印象の優等生が発したと思えない、声量だった。
桜花は再び瞠目し、硬直した。そのうちに、華音は帰り支度を整え、その場を逃げる様にして家を出て行った。
華音が居なくなり、静まった部屋で独り桜花は両膝を抱えた。
「酷い……酷いよ……。華音」
その声は涙を孕んでいた。
紺が混じり出した橙の空の下を、早足で歩く華音。背後に付き纏う母の呪縛から逃れる様に、早く……速く……。
母は何処までもついて来て、目も耳も支配する。
早く消えてしまえ。
耳を塞いでも、声は止まない。微かに滲む視界からも、影が消えない。
何軒か民家を通り過ぎる。
一切人と擦れ違う事がなく、世界に独り取り残されたかの様に静かだ。
夜の訪れを報せに来た風がひんやりと、頬を掠めて収束した熱が冷めていく。
そのうちに頭も冷え、母の幻は風に攫われていって、漸く冷静になれた。
華音は足を止め、横髪をくしゅっと握った。
オレ、桜花に何て事言ってしまったんだ……。これじゃあまるで……。
先の自分の姿と母の姿が重なった。
結局、どれだけ距離を置こうが、血の繋がりには抗えないのだ。
やはり、自分はあの人の息子なんだ。そう実感し、また視界が滲む。
苦しい。
けれど、きっと桜花の方がそう感じているに違いない。そう思ったら、居ても立ってもいられなかった。
「戻らないと!」
踵を返し、桜花のもとへ急いだ。
扉に取り付けられたインターフォンには目もくれず、家に駆け込んで、迷わずに猫のプレートの掛かった部屋の扉を開け放った。
「桜花!」
華音が必死に部屋を見回すと、彼女はベッドの片隅で両膝を抱えて顔を埋めていた。
時計の音がよく聞こえる室内で、洟を啜る音が響く。
そっと華音が近付いてみても、それは止む事はなく、桜花が顔を上げる事もない。
「……さっきは酷い事言ってごめん」
ハッキリ伝えようとした言葉も、申し訳なさから独り言の様になる。
悲嘆に飲まれた少女の姿が、脳裏で過去の自分とすり替わった。
母に「何で出来ないの!」と言われ、母の前では素直に従うフリをして、公園で独りひっそりと蹲って泣いていた嘗ての自分。
きっと、その時に母がそっと抱き締めてくれていたのなら、自分で心に包帯を巻かなくて済んだ。そんな応急処置しかしなかったから、傷が深くなって一生モノとなってしまった。
華音は過去の自分の姿を振り払い、しっかりと現実の桜花を見た。
鞄を放り、ベッドに膝を着いて両手を伸ばす。
「ごめんね。桜花」
小さくなったその身体を、優しく両腕で包み込んだ。
「華音……」
やっと上げた顔には、涙のあとが残っていたが、もう哀感の色は殆どなかった。
喫驚、安堵、そして最後に羞恥心が押し寄せ、桜花の頬は桜色に染まった。それを誤魔化す様に、態と眉を寄せて唇を尖らせた。
「何、勝手に部屋に入って来てるのよ……不法侵入よ」
「あ……。そうだった」
「よし。そのまま手首を掴んで押し倒してキスをし、服を……」
不意に、真後ろから声がし、華音は頬を紅潮させて振り返った。
「な、な、何言ってるんだよ! そんな事しないからな!」
その先には鏡台があり、鏡面にニヤついた顔のオズワルドが映っていた。
桜花は瞳を瞬かせた。
「突然どうしたの?」
視線を同じ方へ向けても、桜花の目には鏡が周りの風景を映しているだけにしか見えない。
「そっか……。アイツの、オズワルドの声も姿も、オレにしか認識出来ないんだっけ」
「オズワルドが居るんだ」
どんなに桜花が目を凝らしても、その姿は確認出来ず、少し残念に思った。
華音はベッドから下り、鏡台に不機嫌な顔で近付いた。
オズワルドはまだ笑顔だ。
「この先を期待していたのだがな。残念。しかし、若いって良いな」
「お前はじじいか!」
「まあ、人間の年齢に換算すると、そうなるだろうな。ハーフエルフの平均寿命は500歳で、私はもう400歳をとうに過ぎているから」
「もしかして、オレがジジくさいって言われるのってお前のせい……」
「いや、それは関係なくないか? それよりも――――」
コツコツと、窓を叩く音がし、華音と桜花が視線を向けると、サファイアブルーの瞳の烏が窓の外で羽ばたいていた。
桜花が窓を開けると、烏が入って来て華音の肩に止まり、ルビー色の瞳の黒猫がサッシを飛び越えてベッドの上を歩いて来た。
「丁度、魔物が現れたようだ」
「オウカちゃん。魔物を倒しますわよ」
オズワルドの言葉に次いで、ドロシーの声がし、桜花にはその声も鏡面に映った姿も認識出来た。
2人はそれぞれの魔法使いに応えた後、同時に鏡面に触れて彼らを憑依させた。
どう頑張っても、桜花が次の段階に進む事はなかった。
華音が当たり前に出来る事を、桜花は当たり前に出来ないのだ。
終わりの見えない現状に、さすがの華音も同じ事を繰り返す気力はもうなかった。
また、桜花自身からも意欲が喪われつつあった。
「頭が痛いわ……」
眉間を押さえ、桜花はゴロンとベッドに横になった。
華音は教科書を閉じて、桜花の方を見る。
「大丈夫か? 薬飲んだ方が……。と言うか、オレもう帰ろうか?」
「問題ないわ。これは脳みそを使い過ぎた事による頭痛……。少し休めば治るから、まだ帰らないで」
「そうなんだ。じゃあ、回復したら言ってよ」
と穏やかな顔で返しつつも、内心では「そんなに脳みそ使ってないだろ」と毒づいていた。
カチコチと壁掛け時計の音が響き、窓から橙の光が差し込む。
華音はスマートフォンを弄り、桜花は縫いぐるみを弄っていた。
「この子の名前は桜もっちり!」
桜花はベッドの上をゴロンと転がり、仰向けで桜色の猫の縫いぐるみを高く持ち上げた。
思わず華音はスマートフォンから目を離し、桜花の方を見た。
「桜もっちり?」
「そう! 華音に取ってもらった子の名前よ」
「へぇ。と言うか、桜花。もう大分回復してるね?」
「えっ……。ちょーっと、まだ頭の回転が鈍い気がするわ」
桜花は遠い目をし、ガバっと起き上がって縫いぐるみを枕元に置くと、ベッドを下りた。
「もう勉強する気ないなら帰るけど……」
「や、やる! やるから、もうちょっとだけ……」
大人しく席に着くかと思いきや、桜花は華音の横を素通りしてドアノブに手を掛け、そのまま回して廊下へ出た。
「コーヒーとお菓子持ってくる! 糖分も必要よね」
ほんの少し開けたドアの隙間からそう告げ、また華音の前から消えていった。
華音は空の色と時計の針が示す時刻を見比べ、もう少ししたら帰ろうと心に決めた。
華音が決めた“もう少し”より早く戻って来た桜花は、アツアツのコーヒーの入った硝子のポットと市販のクッキーを並べた大皿をテーブルに置いた。
ただでさえ狭いのに、これではおやつがメインの様になってしまった。
桜花は構わず、華音にコーヒーとお菓子を勧めて、自分も向かい側に腰を下ろしてコーヒータイムを存分に楽しみ出した。
華音は仕方なく本日2度目となる苦手なコーヒーに口をつけ、冷めた瞳で桜花を見た。
「ねえ。もうやる気ないだろ」
「そ、そんな事はない筈よ!」
「教科書類が全て机の下じゃないか……」
「それは、邪魔だったから……」
「邪魔って言った……」
桜花がどんなに学習能力がなくとも、根気よく付き合ってきた華音だが、さすがにもう疲れきって、その上能天気な彼女の態度にイライラし始めていた。
「ほら! このクッキー美味しいよ? コンビニで買った新発売のクッキー!」
「……そうだね」
少しずつ、2人の温度に変化が起き、ずれ始める。
華音はスマートフォンをズボンのポケットに戻し、鞄を引き寄せた。
帰ろうとしている。
そう悟った桜花の顔に、焦りが垣間見えた。
「まだ帰らないで! お願い!」
「帰らないでって。オレはお茶会をしに来たんじゃない」
華音は気怠そうに手を止めた。
桜花の必死のお願いは続く。
「わ、わたし……キミも分かった通り、本当に頭が悪いの! 赤点採ったら、お父さんの期待を裏切っちゃう。お父さん、仕事で忙しいから……せめて、これぐらいはちゃんとしたいの。迷惑かけたくないのよ」
「それなら、尚更ちゃんとやろうよ」
華音の表情に穏やかさは戻らないが、気怠さは少しだけ和らいだ。桜花の必死な想いは、ちゃんと心に響いた。
勉強再開。
ところが、一歩進んだかと思えば、二歩下がると言う様な状態が続き、華音の手にも負えなくなった。
「ねえ、華音。ここはどう言う風に解けば良かったかしら」
「うん? そこ、もう20回ぐらいやったよね?」
会話も、先程から殆ど変化がない。
もう2人は、巻き戻しの術中に居た。
華音はチラッとスマートフォンの画面を見るが、術から抜け出したのは桜花の方だった。
「とりあえず、コーヒーを飲みましょう」
そう言って、硝子のポットに手を伸ばして持ち上げる。
「きゃっ」
桜花の悲鳴と共に、ポットがつるんと手から離れた。
その真ん前に居た華音は顔を上げ、瞠目し、咄嗟に身体をずらした。
ガコン。
テーブルにぶつかったポットが倒れ、コポコポと絨毯にコーヒーを注いだ。
絨毯が黒く染まっていき、芳醇な香りと湯気が漂う。
桜花は慌ててポットを起こし、瞠目したままの華音に近寄った。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫? かかってない?」
華音は応えず、ポットを通じて過去の映像を視ていた。
目の前に居るのは桜花ではない、今より若い母だ。
夕日の差し込む窓を背に、黒い影となった母が湯気を吹き出す薬缶を片手に振りかぶる。
「何で出来ないんだ!」
母の口の動きに合わせる様に、華音は立ち上がってそう叫んでいた。
背中の火傷痕が疼いて仕方がない。
痛い。恐い。
記憶の母ではなく、現実の桜花を見下ろす漆黒の瞳は、怒気が渦巻いていた。
今度は桜花が瞠目し、狼狽えた。
「えっと……あ、あの…………その……。本当にごめんなさい……」
「何度も教えてるのに、何で出来ない?」
「何でって言われても……。出来ないものは出来ないの……」
桜花は華音の目を見る事が出来ず、俯いた。
構わず華音は追い打ちをかける。
「キミ、本気でやる気ないだろ。唯やっているつもりになっているだけ。そんな自分に満足したいだけだろ」
ハッと桜花は顔を上げ、桜色の唇を震わせた。
「な、何よ……そんな言い方しなくたっていいじゃない。わたしだって必死なのよ! 皆が皆、キミみたいに完璧な訳じゃないわ! キミにわたしの気持ちは分からない!」
「オレは完璧じゃない!」
これまでの穏やかな印象の優等生が発したと思えない、声量だった。
桜花は再び瞠目し、硬直した。そのうちに、華音は帰り支度を整え、その場を逃げる様にして家を出て行った。
華音が居なくなり、静まった部屋で独り桜花は両膝を抱えた。
「酷い……酷いよ……。華音」
その声は涙を孕んでいた。
紺が混じり出した橙の空の下を、早足で歩く華音。背後に付き纏う母の呪縛から逃れる様に、早く……速く……。
母は何処までもついて来て、目も耳も支配する。
早く消えてしまえ。
耳を塞いでも、声は止まない。微かに滲む視界からも、影が消えない。
何軒か民家を通り過ぎる。
一切人と擦れ違う事がなく、世界に独り取り残されたかの様に静かだ。
夜の訪れを報せに来た風がひんやりと、頬を掠めて収束した熱が冷めていく。
そのうちに頭も冷え、母の幻は風に攫われていって、漸く冷静になれた。
華音は足を止め、横髪をくしゅっと握った。
オレ、桜花に何て事言ってしまったんだ……。これじゃあまるで……。
先の自分の姿と母の姿が重なった。
結局、どれだけ距離を置こうが、血の繋がりには抗えないのだ。
やはり、自分はあの人の息子なんだ。そう実感し、また視界が滲む。
苦しい。
けれど、きっと桜花の方がそう感じているに違いない。そう思ったら、居ても立ってもいられなかった。
「戻らないと!」
踵を返し、桜花のもとへ急いだ。
扉に取り付けられたインターフォンには目もくれず、家に駆け込んで、迷わずに猫のプレートの掛かった部屋の扉を開け放った。
「桜花!」
華音が必死に部屋を見回すと、彼女はベッドの片隅で両膝を抱えて顔を埋めていた。
時計の音がよく聞こえる室内で、洟を啜る音が響く。
そっと華音が近付いてみても、それは止む事はなく、桜花が顔を上げる事もない。
「……さっきは酷い事言ってごめん」
ハッキリ伝えようとした言葉も、申し訳なさから独り言の様になる。
悲嘆に飲まれた少女の姿が、脳裏で過去の自分とすり替わった。
母に「何で出来ないの!」と言われ、母の前では素直に従うフリをして、公園で独りひっそりと蹲って泣いていた嘗ての自分。
きっと、その時に母がそっと抱き締めてくれていたのなら、自分で心に包帯を巻かなくて済んだ。そんな応急処置しかしなかったから、傷が深くなって一生モノとなってしまった。
華音は過去の自分の姿を振り払い、しっかりと現実の桜花を見た。
鞄を放り、ベッドに膝を着いて両手を伸ばす。
「ごめんね。桜花」
小さくなったその身体を、優しく両腕で包み込んだ。
「華音……」
やっと上げた顔には、涙のあとが残っていたが、もう哀感の色は殆どなかった。
喫驚、安堵、そして最後に羞恥心が押し寄せ、桜花の頬は桜色に染まった。それを誤魔化す様に、態と眉を寄せて唇を尖らせた。
「何、勝手に部屋に入って来てるのよ……不法侵入よ」
「あ……。そうだった」
「よし。そのまま手首を掴んで押し倒してキスをし、服を……」
不意に、真後ろから声がし、華音は頬を紅潮させて振り返った。
「な、な、何言ってるんだよ! そんな事しないからな!」
その先には鏡台があり、鏡面にニヤついた顔のオズワルドが映っていた。
桜花は瞳を瞬かせた。
「突然どうしたの?」
視線を同じ方へ向けても、桜花の目には鏡が周りの風景を映しているだけにしか見えない。
「そっか……。アイツの、オズワルドの声も姿も、オレにしか認識出来ないんだっけ」
「オズワルドが居るんだ」
どんなに桜花が目を凝らしても、その姿は確認出来ず、少し残念に思った。
華音はベッドから下り、鏡台に不機嫌な顔で近付いた。
オズワルドはまだ笑顔だ。
「この先を期待していたのだがな。残念。しかし、若いって良いな」
「お前はじじいか!」
「まあ、人間の年齢に換算すると、そうなるだろうな。ハーフエルフの平均寿命は500歳で、私はもう400歳をとうに過ぎているから」
「もしかして、オレがジジくさいって言われるのってお前のせい……」
「いや、それは関係なくないか? それよりも――――」
コツコツと、窓を叩く音がし、華音と桜花が視線を向けると、サファイアブルーの瞳の烏が窓の外で羽ばたいていた。
桜花が窓を開けると、烏が入って来て華音の肩に止まり、ルビー色の瞳の黒猫がサッシを飛び越えてベッドの上を歩いて来た。
「丁度、魔物が現れたようだ」
「オウカちゃん。魔物を倒しますわよ」
オズワルドの言葉に次いで、ドロシーの声がし、桜花にはその声も鏡面に映った姿も認識出来た。
2人はそれぞれの魔法使いに応えた後、同時に鏡面に触れて彼らを憑依させた。