早朝、ぐったりした様子で席に着いた華音。まだ予鈴も鳴っていないので、クラスメイト達は各々、好きな相手と好きな場所で好きな様に自由時間を満喫している。朝から、残業疲れのサラリーマン状態なのは華音ぐらいなものだ。
 華音は机に頬を密着させ、無機質な冷たさに癒しを求めた。

「おはよーかがみん!」
「オッス。鏡崎」

 上から降って来た声は、刃と雷のものだった。華音は仕方なく姿勢を正し、やって来た親友に片手を小さく挙げてみせた。
 華音が元気溌刺タイプじゃない事は2人も知っていたが、それにしても元気がなさすぎて不思議に思った。

「どうした? 具合でも悪いのか?」

 妹と弟がいる面倒見の良い色黒男の雷が華音の顔を覗き込んだ。
 華音は少し仰け反り、首を緩く横に振った。

「何か今日は疲労感が凄いって言うか……。夜から朝までの記憶があんまりないんだよな」
「まさか、酒でも飲んだか?」
「そんな訳ないだろ。未成年だし」
「えー? 俺は飲むけどな。金がねーからたまにだけど」
「俺も」と刃が話に割り込み、酒の事かと2人が思ったが続けられた刃の言葉は全く違った。「俺も、夜から朝までの記憶ないんだよ」
「マジで!? お前が?」

 雷は本気で驚き、華音はぼんやりと昨夜の事を思い浮かべた。記憶がないのは魔物を消滅させた後で、その前の事はちゃんと覚えていた。
 あの時、刃は魔物に生命力を奪われて気を失った。オズワルドの話だと、魔物は何処かに潜む魔女が創り出した生命体で、人の生命力を奪って魔女に届けるのが役目だと言う。魔女に届けられる前にオズワルドを憑依させた華音が倒した事で、刃はこうして元気に学校へ来る事が出来ているのだ。
 魔物を倒した後気を失った華音に、鏡の向こうからオズワルドは顛末を話してくれた。
 華音が自室のベッドの上で目覚め、洗面台の前に立った時の事――――。


 ***

 深い眠りから、華音はフッと目が覚めた。視力を取り戻していく瞳に映るのは、毎朝見ている自室の純白の高い天井。全身を預けているのはフカフカのベッド。視線を少し下げれば、時を告げる壁掛け式の電波時計があり、現在の時刻を知った華音はいつもより30分程早い起床だと言う事を知る。30分また寝ると言うのも微妙なので、起きる事にした。
 身体を起こし、固まった背筋をうんっと伸ばすと、肩がズキンと痛んだ。部屋着を捲ってみると、丁寧に包帯が巻かれていた。不思議に思ったが、問い掛ける相手も居ないのでそのままにし、カーテンをバサッと開けた。眩しい朝の日差しが室内を照らし、よく磨かれた窓硝子に映っているのは、寝癖の酷い自分の姿だった。
 華音は手櫛で髪を整え、部屋着を脱いでハンガーに掛かっている制服を手に取った。

 ネイビーの生地に、金のボタンと金の刺繍の入ったブレザーは裏地がストライプになっていて、ズボンも裏地と同じ生地で出来ている。中に着るシャツは白くて何の変哲もないが、インディゴブルーのネクタイには鏡国高校のイニシャルである『ml』と、筆記体の金の刺繍が入っている。ちなみに、この2つのアルファベットは直訳英語で『mirror land』の頭文字を取っていて、一部の者には単位のミリリットルと勘違いされている。
 女子の制服はブレザーの丈が少々男子よりも短く、裏地がチェックになっていて、裏地と同じ生地のプリーツスカートと言う所が女子の間で人気が高く、それ目当てで鏡国高校を選ぶ生徒も少なくないと言う。ネクタイの色と裏地の色は揃えられていて、学年によってその色が違う。1年生はボルドー、2年生はインディゴブルー、3年生はディープグリーンだ。

 華音は他の者が憧れる制服に手馴れた様子で袖を通し、通学用鞄を持って自室を出た。
 無駄に豪華な作りの階段を下り終え、左に曲がると洗面所だ。鞄を脇に置き、顔と歯を洗う。
 バシャバシャと冷たい水で眠気を吹き飛ばし、昨夜の事を考える。

「昨日の魔物とか、魔法使いとか、全部夢だったのかな」

 怪我の事は気になるが、そうとしか思えない平和な朝――――

「夢じゃないぞ。残念ながら」

 独り言に答える声があり、華音は濡れた顔のまま驚いた。清潔感のある純白のふんわりタオルで顔を拭いて、再度声の出処を探った。
 この家には今家政婦しか居ないし、声は男だった。
 華音は夢で片付けようとした出来事を脳内からもう一度引っ張り出し、ハッと思い出した様子で目の前の大きな鏡を見た。そこに映っていたのは何となく察していたが、当たって嬉しくもない、魔術師オズワルドの姿だった。
 オズワルドは華音と同じ顔をしているくせに、髪は水色、瞳は琥珀色、服は純白のローブと、現実世界ではありえない見た目をしていた。それは此処とは別の次元に存在する世界の人物であるからであって、現実がそのまま鏡に映っている訳ではないからだ。彼と対面した事で、全てが夢ではなかった事を思い知った華音は、その事について詳しくオズワルドから聞けていなかった事を思い出した。魔物を倒したら話す……そう言う約束だった。
 だけど、魔物を倒した後自分がどうしたか、全く思い出せなかった。何故、そんな肝心な事を訊かなかったのだろう。刃は大丈夫だったのだろうか。
 難しい顔をしている華音に、オズワルドは相変わらず余裕のある笑みを見せた。

「初めて魔術を使ったからな。お前の身体がそれに慣れていなかったんだろう。だから、気を失った。あの後、大変だったんだぞ。なかなかお前が起きないもんだから、使い魔をわざわざ巨大化させてお前とお前の友人をそれぞれの家まで運んで……。次元の行き来が可能な使い魔でも、もとの世界と勝手が違う世界での魔力操作は負担が大きいから嫌なんだ。おかげで、本日は半日休業だ」
「それは悪かったな。と言うか、お前のせいでオレが倒れたのに、何だ。そのやってやったって態度は」
「お前と私は同じ生命体だが、私の方が断然に偉いからな」
「何だ、お前……。オレと同じ顔して、すっごいムカつく。それよりも、あまりに非現実的すぎて昨日の事とか整理出来てないんだけど、詳しく教えてよ」
「興味を持ってくれて安心した。話してやろう。魔女との因縁と私の目的を」



 時は遡る事、凡そ100年。オズワルドの住む次元スペクルムで、9人の魔女が世界中に魔物をばら蒔いて、魔女対人間の大戦争が始まった。
 9人の魔女は皆エルフで、水を操る水星の魔女、癒しの力を持つ月の魔女、金属を操る金星の魔女、火を操る火星の魔女、植物を操る木星の魔女、地を操る土星の魔女、天空を支配する天王星の魔女、地底を支配する冥王星の魔女、全てを飲み込むブラックホールの魔女がおり、数多に居る魔術師の中でもずば抜けて有能なオズワルドが指揮を取って彼女らと対峙した。魔女1人ずつではなく、9人まとめて相手にした為に、いくら有能なオズワルドでもかなり苦戦を強いられた。結果として魔女全員を消滅させる事は出来なかったが、ブラックホールの魔女を消滅させ、他の8人も暫くの戦闘不能にまで追い込む事に成功した。これでもう、世界に安寧が約束されたと思っていたのだが、100年後、オズワルドは再び彼女らと出逢ってしまった。しかも、最悪な形で。

 100年前の戦で傷付いた魔女は傷を癒すと共に、ある計画を進めていた。その最初となるのが、精霊との融合。次元の狭間に居る精霊は何体か存在し、それぞれのマナ属性を司っている。マナはこの世界に無限に存在する訳ではなく、精霊が宇宙に浮かぶ惑星から必要な分だけのマナを流している。精霊の後ろにある大きな(ゲート)がマナの通り道だ。その精霊と融合すると言う事はつまり、無限のマナを手に入れられると言う事だ。そして、精霊や使い魔などの特殊な生命体でしか行き来する事の出来ない別次元への移動手段を手に入れてしまった。
 彼女達が再び何をするつもりなのか、残念ながらオズワルドにはまだ分からない。仮説だけの行動だ。

 オズワルドの仮説はこうだ。倒したブラックホールの魔女の転生が完了し、完全体となった8人の魔女がリアルムに来て捜している。人の生命力を魔物に奪わせているのは、きっと9人目の魔女捜索と復活に何か関係があるから。それに、リアルムであれば、スペクルムの者はたとえオズワルドであっても容易に干渉出来ないと思ったのだろう。
 リアルムでは確かにオズワルドでも干渉出来ないが、1つだけそれが可能な場合がある。それこそ、同じ生命体である華音の存在だ。オズワルドは華音に憑依し、自分の意思では動く事は出来ないが華音に指示をして動く事が出来る。その時間は最大で20分程度だが、憑依していない時にも、鏡越しで会話を出来たりと、魔女の目論見を阻止する方法はいくらでもあるのだ。

 魔女の目論見、それは決してオズワルドや華音、スペクルムやリアルムにとって良い事ではなく、場合によってはその全てを破滅へと導くものに違いない。それだけは何としてでも阻止したいオズワルド。リアルムでの干渉も可能な華音と言う存在は大きい。恐らく、魔女にはまだ気付かれていない今、仮説を真実へと変える時だ。
 オズワルドは宮廷魔術師としての役目を、一高校生の華音に代行してもらいたいのだ。