陽の当たるいつもの窓際の席で、オズワルドは優雅に紅茶を飲んでいた。外からは小鳥の囀りも聞こえ、実に静かだ。
星が歌う夜の静寂と月光に包まれた優しい景色も好きだが、小鳥が歌う昼の静寂と陽光に包まれた穏やかな景色も好きで落ち着く。
ローズブラウンの茶液から光が弾け、甘い香りを散らす。バターをたっぷりと使用したショートブレッドと合わせると、最高のティータイムだ。
オズワルドはティーカップをソーサーに置き、小皿に行儀よく並んだショートブレッドを1つ手に取って口へ運ぶ。
一口齧れば、バターの風味が口一杯に広がり、程よく焼き上がった生地がほろほろと舌の上で解けていく。更に、紅茶を口に含めば、甘味と酸味と渋味が調和されて絶妙な味わいとなるのだ。
宮廷魔術師として他国と戦う事のない平和な現代での、オズワルドの楽しみの1つである。
ところが、水色の横髪に覆い隠された、人間より遥かに優れた聴力を持つハーフエルフの耳に流れ込んで来た足音は、静寂をぶち壊すものだった。
小さな歩幅でドタバタと聞こえる足音は、此方へ向かって来ている。
そして、自室の扉が勢いよく開かれた。
「オズワルド! いらっしゃいますか? わたし、オズワルドにお訊きしたい事がありまして」
既に、扉の内側には赤いふわふわのドレスを着た12歳ぐらいの赤髪の少女が立って居た。
オズワルドは食べかけのショートブレッドを皿に置き、顔だけを彼女へ向けた。
「ドロシー王女。いくら、王族の者でも他人の部屋に入る時はノックをしてから。勝手に入ってはいけませんよ……」
ドロシーはドレスが床につかない様、小さな手で摘みながらオズワルドの前にやって来た。表情は、何故か不機嫌になっていた。
「それは分かりましたけれど、何です? その他人行儀な喋り方は」
「……他人ですから」
「その通りですけど、わたしが言っているのはそう言う事ではなくて……。わたしが幼い頃から一緒に居るのに、どうして敬語で話すんですか? それに、わたしの事は呼び捨てで構わないと、前にも言ったじゃありませんか」
ドロシーは怒りとは別の感情で頬を赤く染め、高鳴る心臓を両手で押さえた。
オズワルドは席を立ち、王女を真っ直ぐ見つめた。
「私は宮廷魔術師で貴女よりも身分が低い。それに、ハーフエルフ……。本来、王族と話す事も許されない存在なんです。ドロシー王女は、もっとご自分の立場を」
「ひどい……ひどいですわ。貴方の仰る通り、立場はわきまえなくてはなりません。しかし、そればかりに縛られるのは嫌です…………わた、し……は」
ポロポロと、アメジスト色の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
嗚咽も聞こえ始め、さすがのオズワルドも狼狽えた。
何を言っても泣き止まない王女を前に、遂には折れ、宮廷魔術師の仮面が外れた。
「あー……ドロシー王女、いや、ドロシー」
フッと、ドロシーが泣き止んで顔を上げた。
「じゃあ、お前が望む様にしよう」
オズワルドが小さく笑うと、ドロシーの顔がパッと明るくなった。
「では、これからもその話し方でお願いしますわ!」
「ああ。だが、ハートフィールド国王陛下とヴィルヘルム王子とシンシア王女の前では王女として扱うからな」
「はい! あ。そこ座っても良いですか?」
「どうぞ」
オズワルドが椅子を引くと、ドロシーは幸せそうに腰掛けた。
オズワルドも向かいに座った。
話があるとの事だったので、ドロシーの分の紅茶も用意する。
「ありがとうございます。オズワルドの淹れた紅茶はとても美味しくて、す……きです」
ティーカップを受け取ったドロシーは、何処か歯切れが悪く、顔もほんのり赤かった。
オズワルドは食べかけのショートブレッドを咀嚼し、琥珀色の瞳を瞬かせた。
「ドロシー。熱でもあるのか?」
「そ、そうなんです。オズワルドに訊きたい事と言うのは、まさにその事で……。最近、身体が熱くなって胸がギュッと苦しくなるんです」
「……病気かもしれないな。医者には診てもらったのか?」
「ええ。でも、原因不明で。それと、その症状が起こるのは特定の相手の前だけなんですわ」
ドロシーは目を伏せ、ティーカップを持っていない方の手で膨らみ始めた胸を押さえる。
オズワルドは紅茶を一口飲み、落ち着いた声で告げた。
「それは恋だな」
「恋!?」
ドロシーは雷に撃たれた様な衝撃を受け、目を見開いて両手を重ね合わせた。
「では、わたしはオズワルド。貴方に恋をしているんですわね!」
「え……」
「漸く、このモヤモヤが解消されました」
「いや、待て。一般に恋と呼ぶ事もあるが、全てがそうではない。お前の場合は、恋ではない。やはり、ちゃんとした医者に診てもらった方が……」
「いいえ! 恋ですわ! わたし、オズワルドと恋人になりたいですわ!」
ドロシーは立ち上がり、オズワルドの手を両手で掴んだ。
オズワルドの顔は引き攣る。
好かれる事は悪い事ではない。けれど、オズワルドにとってあまりにも荷が重い。
他者と愛し合う事は、もうとっくの昔に諦めてしまっていた。
***
刃と雷が談笑しながら、校舎周辺の広い芝生に向かうと、宣言通り華音が横になっていた。
2人にとってもう見慣れた光景であるが、あまりに無防備過ぎる。いくら校内とは言え、女子生徒達からの人気も高い、綺麗な少年がこんな所で寝ているなんて、いつか犯罪に巻き込まれてしまいそうだ。
近年は物騒なので、校内での犯罪も有り得ない話ではない。
「かがみん、襲われても文句言えねーよな」
「お前が一番危険だから、大丈夫だろ。と、言うより……あれ、何だ」
雷は、華音の規則的に上下する胸の上に乗っている黒い物体を指差す。
よく見ると、少し青みがかっていて形状も丸っこい。
「烏かな」
刃は正解を口にしたが、雷と目が合うと共に首を傾げた。
何故、烏が華音の上に鎮座しているのか。いくら相手が無防備でも、警戒して近付く事はないだろう。これでは、まるで華音が従えているみたいだった。
先日のゲームセンターで一瞬見た覚えもあり、益々謎が深まった。
2人が静かに観察していると、華音の瞼がゆっくりと持ち上がった。
「う……ん……何だか重たい…………」
徐々にくっきりとして来た漆黒の瞳に映ったのは、サファイアブルーの瞳。ばっちり目が合ってしまった。
華音は驚き、飛び起きる。
「ゴ、ゴルゴ!? あ……。だから、今の夢……」
華音は頭を押さえ、夢を思い出す。
オズワルドとドロシーの夢だった。紅茶の香りも、お菓子の甘さも、胸が締め付けられる感覚も、全てが現実のモノの様にはっきりと残っている。
これはきっと、夢ではなくて、オズワルドの記憶だ。
華音は初めてドロシー本人を見たが、たったそれだけでオズワルドにとっての大切な人である事が理解出来た。
使い魔の羽毛に触れようとすると、使い魔は何かに気付いて飛び去ってしまった。華音の手が空を撫でる。
横を見ると、親友達が居た。
「刃、雷。ごめん。自分で起きた」
「そりゃいいんだけど、さっきの烏はゴルゴ……って言うのか。知り合い?」
刃がその名に笑いを堪えながら訊き、華音は空を撫でた手で自分の乱れた黒髪を整えた。
「知り合いって言うか……。知り合いのペットみたいなもの」
「へえ。烏なんて飼ってるの珍し~。魔法使いみたいじゃん」
何気ない刃の返しに、ぎくりとする。
「瀕死のところを助けたんだってさ」
それっぽい事を言ってみるも、自分で言ったその言葉が真実である様に思えた。オズワルドと使い魔の出逢いなんて、聞いた事もないし、見た事もないのに。
華音の脳裏に、雨音が響き、荒れ果てた街の路地裏で横たわる烏がうっすらと視えた。誰かが、歩み寄って来る――――そこで、音と映像は途切れた。
「鏡崎? 何だ? 突然ボーッとして」
雷が兄の顔で、華音の顔を覗き込んだ。
「ううん。何でもない。教室戻ろうか」
華音は笑みを浮かべ、立ち上がった。
星が歌う夜の静寂と月光に包まれた優しい景色も好きだが、小鳥が歌う昼の静寂と陽光に包まれた穏やかな景色も好きで落ち着く。
ローズブラウンの茶液から光が弾け、甘い香りを散らす。バターをたっぷりと使用したショートブレッドと合わせると、最高のティータイムだ。
オズワルドはティーカップをソーサーに置き、小皿に行儀よく並んだショートブレッドを1つ手に取って口へ運ぶ。
一口齧れば、バターの風味が口一杯に広がり、程よく焼き上がった生地がほろほろと舌の上で解けていく。更に、紅茶を口に含めば、甘味と酸味と渋味が調和されて絶妙な味わいとなるのだ。
宮廷魔術師として他国と戦う事のない平和な現代での、オズワルドの楽しみの1つである。
ところが、水色の横髪に覆い隠された、人間より遥かに優れた聴力を持つハーフエルフの耳に流れ込んで来た足音は、静寂をぶち壊すものだった。
小さな歩幅でドタバタと聞こえる足音は、此方へ向かって来ている。
そして、自室の扉が勢いよく開かれた。
「オズワルド! いらっしゃいますか? わたし、オズワルドにお訊きしたい事がありまして」
既に、扉の内側には赤いふわふわのドレスを着た12歳ぐらいの赤髪の少女が立って居た。
オズワルドは食べかけのショートブレッドを皿に置き、顔だけを彼女へ向けた。
「ドロシー王女。いくら、王族の者でも他人の部屋に入る時はノックをしてから。勝手に入ってはいけませんよ……」
ドロシーはドレスが床につかない様、小さな手で摘みながらオズワルドの前にやって来た。表情は、何故か不機嫌になっていた。
「それは分かりましたけれど、何です? その他人行儀な喋り方は」
「……他人ですから」
「その通りですけど、わたしが言っているのはそう言う事ではなくて……。わたしが幼い頃から一緒に居るのに、どうして敬語で話すんですか? それに、わたしの事は呼び捨てで構わないと、前にも言ったじゃありませんか」
ドロシーは怒りとは別の感情で頬を赤く染め、高鳴る心臓を両手で押さえた。
オズワルドは席を立ち、王女を真っ直ぐ見つめた。
「私は宮廷魔術師で貴女よりも身分が低い。それに、ハーフエルフ……。本来、王族と話す事も許されない存在なんです。ドロシー王女は、もっとご自分の立場を」
「ひどい……ひどいですわ。貴方の仰る通り、立場はわきまえなくてはなりません。しかし、そればかりに縛られるのは嫌です…………わた、し……は」
ポロポロと、アメジスト色の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
嗚咽も聞こえ始め、さすがのオズワルドも狼狽えた。
何を言っても泣き止まない王女を前に、遂には折れ、宮廷魔術師の仮面が外れた。
「あー……ドロシー王女、いや、ドロシー」
フッと、ドロシーが泣き止んで顔を上げた。
「じゃあ、お前が望む様にしよう」
オズワルドが小さく笑うと、ドロシーの顔がパッと明るくなった。
「では、これからもその話し方でお願いしますわ!」
「ああ。だが、ハートフィールド国王陛下とヴィルヘルム王子とシンシア王女の前では王女として扱うからな」
「はい! あ。そこ座っても良いですか?」
「どうぞ」
オズワルドが椅子を引くと、ドロシーは幸せそうに腰掛けた。
オズワルドも向かいに座った。
話があるとの事だったので、ドロシーの分の紅茶も用意する。
「ありがとうございます。オズワルドの淹れた紅茶はとても美味しくて、す……きです」
ティーカップを受け取ったドロシーは、何処か歯切れが悪く、顔もほんのり赤かった。
オズワルドは食べかけのショートブレッドを咀嚼し、琥珀色の瞳を瞬かせた。
「ドロシー。熱でもあるのか?」
「そ、そうなんです。オズワルドに訊きたい事と言うのは、まさにその事で……。最近、身体が熱くなって胸がギュッと苦しくなるんです」
「……病気かもしれないな。医者には診てもらったのか?」
「ええ。でも、原因不明で。それと、その症状が起こるのは特定の相手の前だけなんですわ」
ドロシーは目を伏せ、ティーカップを持っていない方の手で膨らみ始めた胸を押さえる。
オズワルドは紅茶を一口飲み、落ち着いた声で告げた。
「それは恋だな」
「恋!?」
ドロシーは雷に撃たれた様な衝撃を受け、目を見開いて両手を重ね合わせた。
「では、わたしはオズワルド。貴方に恋をしているんですわね!」
「え……」
「漸く、このモヤモヤが解消されました」
「いや、待て。一般に恋と呼ぶ事もあるが、全てがそうではない。お前の場合は、恋ではない。やはり、ちゃんとした医者に診てもらった方が……」
「いいえ! 恋ですわ! わたし、オズワルドと恋人になりたいですわ!」
ドロシーは立ち上がり、オズワルドの手を両手で掴んだ。
オズワルドの顔は引き攣る。
好かれる事は悪い事ではない。けれど、オズワルドにとってあまりにも荷が重い。
他者と愛し合う事は、もうとっくの昔に諦めてしまっていた。
***
刃と雷が談笑しながら、校舎周辺の広い芝生に向かうと、宣言通り華音が横になっていた。
2人にとってもう見慣れた光景であるが、あまりに無防備過ぎる。いくら校内とは言え、女子生徒達からの人気も高い、綺麗な少年がこんな所で寝ているなんて、いつか犯罪に巻き込まれてしまいそうだ。
近年は物騒なので、校内での犯罪も有り得ない話ではない。
「かがみん、襲われても文句言えねーよな」
「お前が一番危険だから、大丈夫だろ。と、言うより……あれ、何だ」
雷は、華音の規則的に上下する胸の上に乗っている黒い物体を指差す。
よく見ると、少し青みがかっていて形状も丸っこい。
「烏かな」
刃は正解を口にしたが、雷と目が合うと共に首を傾げた。
何故、烏が華音の上に鎮座しているのか。いくら相手が無防備でも、警戒して近付く事はないだろう。これでは、まるで華音が従えているみたいだった。
先日のゲームセンターで一瞬見た覚えもあり、益々謎が深まった。
2人が静かに観察していると、華音の瞼がゆっくりと持ち上がった。
「う……ん……何だか重たい…………」
徐々にくっきりとして来た漆黒の瞳に映ったのは、サファイアブルーの瞳。ばっちり目が合ってしまった。
華音は驚き、飛び起きる。
「ゴ、ゴルゴ!? あ……。だから、今の夢……」
華音は頭を押さえ、夢を思い出す。
オズワルドとドロシーの夢だった。紅茶の香りも、お菓子の甘さも、胸が締め付けられる感覚も、全てが現実のモノの様にはっきりと残っている。
これはきっと、夢ではなくて、オズワルドの記憶だ。
華音は初めてドロシー本人を見たが、たったそれだけでオズワルドにとっての大切な人である事が理解出来た。
使い魔の羽毛に触れようとすると、使い魔は何かに気付いて飛び去ってしまった。華音の手が空を撫でる。
横を見ると、親友達が居た。
「刃、雷。ごめん。自分で起きた」
「そりゃいいんだけど、さっきの烏はゴルゴ……って言うのか。知り合い?」
刃がその名に笑いを堪えながら訊き、華音は空を撫でた手で自分の乱れた黒髪を整えた。
「知り合いって言うか……。知り合いのペットみたいなもの」
「へえ。烏なんて飼ってるの珍し~。魔法使いみたいじゃん」
何気ない刃の返しに、ぎくりとする。
「瀕死のところを助けたんだってさ」
それっぽい事を言ってみるも、自分で言ったその言葉が真実である様に思えた。オズワルドと使い魔の出逢いなんて、聞いた事もないし、見た事もないのに。
華音の脳裏に、雨音が響き、荒れ果てた街の路地裏で横たわる烏がうっすらと視えた。誰かが、歩み寄って来る――――そこで、音と映像は途切れた。
「鏡崎? 何だ? 突然ボーッとして」
雷が兄の顔で、華音の顔を覗き込んだ。
「ううん。何でもない。教室戻ろうか」
華音は笑みを浮かべ、立ち上がった。