華音の目の前で、青みがかった黒翼を持つ、青い瞳の烏はバサバサと羽ばたく。向こうで、得体の知れない生物と親友が倒れている。
 一体どうして、この様な状況が出来上がったのか、華音には理解出来なかった。そもそも、親友はともかく、その他の生物は物語でしか存在しない筈だ。久しぶりの居残りで、しかも、不得意な風景画と本気で向き合った為に心身共に疲れてしまったのかもしれない。だとしたら、此処は既に夢の中。親友が気を失うと言う悪夢ではあるが、そうだとすれば納得がいく。華音は仮説を立てて自分を納得させると、頭の中が徐々にスッキリしていくのを感じた。
 夢から覚める前にせめて親友を助けてあげるかと、華音はすっかり冷静さを取り戻した足取りで動く。が、烏の翼に遮られた。
 意図的に邪魔をしたとも見える烏の行動に華音は顔を顰めたが、黒翼の向こうで唸り声を上げながら起き上がる獣の姿が目に入って烏を問い詰めるのは後回しになった。
 ぎらりと輝く赤の双眸が華音を睨む。

「な、何なんだよ……あれは」
『魔女が創り出した生命体――――魔物だ。人の生命力を奪い、魔女に届けるんだ』

 動けないでいる華音の脳内に、直接少年の声――――しかも、華音と全く同じ声が響き、驚いて傍らの烏を見た。
 烏は華音の視線に気付き、小首をかしげると華音の横を飛んでいき、振り返った。

『残念。それは使い魔。私ではない。今のうちにそこから離れるんだ』

 また声がしたが、やはり烏が発したモノではなかった。
 烏が羽ばたいていき、華音は恐怖で地面に縫い付けられた両足を何とか動かして後へ続いた。
 夢だと納得した筈だが、地面を踏む感覚も、風が頬を撫でる冷たさも、徐々に苦しくなる呼吸も、全てが創りものだとは思えなかった。まさに、現実。突然得体の知れない生物に襲われ、親友が倒れ、烏が助けに来て、また得体の知れない生物に追われている……。夢ではない。これは紛れもなく、華音が今現実で体感している事だった。
 華音は後ろを気にしながら走る。暗闇から、赤い双眸が光った。

「な、なあ! さっきみたいに強風を起こしてアイツを倒してくれないのか?」

 言い切ってから華音は、何、烏に話し掛けているんだと自嘲した。

「使い魔では完全に消滅させる事は出来ない」

 返答は先と同様の声で、今度は脳内ではなく、数分前に通り過ぎたカーブミラーから発せられていた。
 益々、華音は現実味を失った。

「さあ、カノン早く走れ。追いつかれるぞ」
「早くって言われても……」

 運動神経の優れている華音でも、獣との追いかけっこは不利である。人間は日常で本気で何かから逃げる事はないし、獣は獲物を捕らえる為に走る。人間である華音には逃げきれる可能性はほぼゼロに等しかった。
 烏はカーブミラーの前で、華音の方を向いて空中に留まっていた。華音には、それが待っている様に見えた。
 どんどん魔物との間合いが縮まる中、華音はカーブミラーの前に辿り着いた。丁度、そこで体力の限界を迎えようとしていた。
 身体を曲げて、肩で息をする。すぐ後ろには赤い双眸が光っているが、もう華音には走る力は残されていなかった。

「カノン」

 目の前から名を呼ばれ、華音は顔を上げた。
 目の前にあるのはカーブミラー。そこに映るは自分と言う名の現実である筈、そうでなくてはならなかったのに。ゴクリと息を呑んだ。

「お前は……オレ?」

 そこに映っていたのは現実であって現実でない、華音であって華音でない、同じ顔の別人が映っていた。水色の髪に、琥珀色の瞳、白を基調とした青いラインの入った服、服の装飾としてキラキラ輝く鏡の欠片。華音がゲームの世界に入ったらこんな姿だろうと言う姿を、彼はしていた。
 恐れをなしている華音に向かって、鏡の中の少年は得意げな笑みを見せた。

「そう。お前は私、私はお前。しかし、違う存在。……詳しい説明はアイツを倒してからにしよう」

 少年に言われ、華音は自分に命の危機が迫っている現実を思い出した。
 魔物は今にも飛びかかって来そうだ。
 華音は判断を委ねる様に、鏡を見た。少年は頷く。

「私が倒してやろうと言いたいところだが、鏡と言う境界線がある故に無理だ。唯、一時的になら魂の移動が可能。あとはお前が倒すんだ」
「はぁ? 言ってる事が分かんない。オレが倒すの? どうやって」
「鏡に触れろ」

 少年が鏡の向こうから片手を付き、華音は訳が分からないまま言葉に従ってその手に手を重ねた。瞬間、鏡が青白く光り、華音と少年、近くに居た使い魔だと言う烏が光に飲み込まれた。
 光の中、半透明になった少年が鏡から出て来て、華音の両肩を掴んだ。

「私の名はオズワルド・リデル。ハートフィールド王家に仕える宮廷魔術師だ。そして、別次元に生きる鏡崎 華音、お前自身だ」
「別次元……」



 半透明のオズワルドの身体は華音に重なる様に消え、同時に華音の身体が光りだした。
 黒い短髪は毛先から徐々に水色に、黒の瞳は琥珀色に、ネイビーの制服は白を基調とした青いラインと鏡の欠片が装飾された魔術師のローブに変化し、隣で羽ばたいていた烏は青水晶の杖へと変わって華音の片手に収まった。
 周りを取り囲む光が消えると、元居た場所に華音は立っていた。但し、華音の姿だけは現実には似つかわしくない姿へと変わっていた。
 華音は視界に入る異質に、戸惑いを隠せなかった。全身は鏡には映らないが、視界に入っているものだけでも、普段の自分でない事が分かった。

『来るぞ』

 突如、脳内に直接響く声がし、それがオズワルドの声だと気付くと、華音の目の前に黒い影が迫って来ていた。
 輝いた白い牙に、咄嗟に杖を盾にして防ぐ。
 カンっと甲高い音がし、魔物は一度後ろへ宙返りして体勢を整えた。
 華音は少し傷が付いた杖を見、毛を逆撫でる魔物を見、倦ねいた。情けない事に、杖を握る手は震えてしまっている。幻想世界の住人と同じ姿を手に入れたところで、そこからどうすればいいのか分からない。
 先程声がしたが、オズワルドは何処へ消えてしまったのか。

「オレが倒すとか無理だよ……」

 つい、華音の口から零れた弱音。

『リアルムの私はこんなにも軟弱なのか。これは傑作だな』

 脳内から、またもオズワルドの声が響いた。

「お、おい。オズワルドだっけ? お前、今何処に? それに、オレのこの姿は何なんだよ」
『ああ。今、私はお前に憑依している』
「憑依?」
『さっきも言った通り、魂の行き来は出来るから。私が憑依した事で私の魔力を纏い、私の姿になったんだ。まあ、これも私とお前が同じ生命体であるから故。誰でも可能と言う訳ではない。しかし、残念ながら身体の主導権はお前にあるからな。お前が何とかするしかない。それに、魔物を倒さなければ、お前の友人は二度と目を覚まさないからな。ほら、また来るぞ』
「えっ……」

 華音は杖を盾にしようとしたが、それよりも先に魔物が華音の胸元へ大口を開けて飛びかかる。
 華音の胸元で淡い光が舞った。同時に、意識が引っ張られる不快な感覚を味わった。が、それらはほんの一瞬だった。

「あれ? 何ともない……」

 親友と同様に生命力を奪われたのかと思ったが、無事だった。
 華音の背後に着地した魔物も、華音と同じ事を思っており、予定と違う結果に疑問符を浮かべて立ち竦んでいた。
 華音に憑依したオズワルドが、ニヤリと笑った。

『私が憑依している間は生命力を奪えない。1つの身体に2つの魂が入る事でその生命体は複雑化し、容易に内面への干渉は不可能となる』

 魔物は生命力を奪えない華音を異質だとみなし、自分の使命を妨害する敵であると決定づけて低い唸り声を上げて威嚇しだした。
 そして、唾液を撒き散らして華音に飛び掛る。
 魔物の勢いに気圧されて一瞬判断が遅れた華音の肩に、魔物の鋭い牙が喰らい付いた。
 血が溢れ、激痛が走り抜ける。
 華音は顔を歪ませ、肩を庇う様に魔物に背を向けて走った。

『おい、逃げるのか? 友人はどうなってもいいんだな? ヒトデナシめ』

 脳内に落ち着いたオズワルドの声が響き、華音は苛立った。

「逃げるだろ、普通! 大体、オレはあんなの初めて見るんだ。そりゃ、刃の事は助けたいけどさ……。いきなり倒せって言われても無理だって!」
『それもそうか。じゃあ、カノン。私の言う通りにしろ。私の魔術は強力で、あんな低級一撃だ。唯、当たらなくては意味がない』

 相変わらずオズワルドの声は落ち着いていたが、一言一句に確かな自信と重量感があり、聞いているうちに華音の頭に上っていた血がゆったりと下へ落ちていった。

「えっと……具体的にどうすれば?」
『まずは頭上だ』
「頭上?」

 華音が見上げると、大口を開けた魔物が降下して来ていた。生温かい唾液が頬にかかる。

『躱せ』
「マジか」

 魔術師からの無理な命令に華音は嫌でも従い、後ろへ跳んで躱した。
 魔物が勢い余って地面に叩きつけられる様を、塀の上から眺める華音。心臓は音が明確に分かる程に大きく動いていた。
 無我夢中で魔術師の命令に従ったが、ここまで軽やかに躱せた事は想定外だった。ちょっと後ろへ跳んだだけだったのに、その数メートル後ろにある塀に綺麗に着地出来るとは。急に身体能力が獣と同等になった様だった。

『今のお前は私そのものの様なものだからな。身体能力も格段にアップしているだろう? さて。魔物が一時戦闘不能になっている隙に、魔術を叩き込むぞ』
「ま、魔術……」
『最強の私でも、大気中の魔力源(マナ)を集めるのには時間を要する。意識を集中させて、マナを集めろ』
「マナ? 集めろって言われても、どんなものかも分からないのに……」
『つまりはエネルギーだ。目を閉じ、無心になれば水の様に体内へ流れ込む』
「……やってみる」

 魔物がピクピク動いているのを見、華音は瞼を下ろした。
 瞼の裏が見え、自分の呼吸の音が聞こえる。瞼の外側では、魔物がもう臨戦態勢を整えているかもしれない……そんな恐怖を押し殺し、意識を集中させた。大気中を漂う、目には見えないエネルギー、マナ。深呼吸し、新鮮な空気を体内に取り込むと、自然と集中力が高まり、余計な感情が削ぎ落とされた。心なしか、川のせせらぎが耳を打つ。身体の中心から、強大な力が泉の様に湧き上がって来る。
 華音はスッと目を開き、杖を構え、小さく息を吸い込んだ。

「大いなる水に飲み込まれるがいい――――アクアトルネード!」

 知らない筈の呪文が脳内に浮かび、それを水の様に穏やかで力強い声で言い放つと、空中に青い魔法陣が展開され、そこから大量の水が渦を巻いて出現。臨戦態勢を整えた魔物を飲み込んだ。
 夜空に魔物の悲痛な叫びが響き渡り、水が消えると、魔物も跡形もなく消えた。代わりに、星屑の様にキラキラと輝くモノが舞い上がった。
 華音は杖を下げ、肩で呼吸した。今のがオズワルドの言う魔術だと理解出来たが、消耗が激しすぎた。今は唯々、呼吸が苦しい。

『これで、お前の友人もそのうち目を覚ますだろう。魔物が魔女のもとへ戻る前に倒せて良かった。そうでなければ、お前の友人は一生目を覚まさなかっただろう』
「うん……。よく分からないけど、刃が無事なら……」

 華音は杖を落として倒れ、オズワルドの憑依も解けた。もとの高校生へと戻った華音は、その後カーブミラーの向こうからオズワルドが何度呼びかけても、杖の役目を終えた烏が嘴で突っついても、目覚める事はなかった。