扉を開けると、正面のカウンターから、エプロン姿の若い女性店員が満面の笑みを浮かべて「いらっしゃいませ」と歩み寄って来た。
 受付や説明などは全て桜花に任せ、華音は店内を見回す。
 カウンターの右手には、丸テーブルと丸椅子が設置された飲食スペース。既に何人かの客が席について、飲み物を口にしながらゆったりと過ごしている。カップルデーとあって、男女ペアが目立つ。
 続いて左手には硝子の壁があって、その向こうで沢山の猫が動き回っているのが見えた。種類豊富で、縞模様の猫や毛の長い猫、手足の短いブサイクな猫やスレンダーで凛々しい顔立ちの猫などがいる。こちらにも、客が何人か居て、猫と触れ合って幸せそうにしている。
 店員と話を終えた桜花は、華音にメニュー表を向けた。

「1ドリンク制だから、この中から選んで。ちなみに、わたしはにゃんこコーラにするわ」

 にゃんこコーラって何だ。

 ふざけているのかと華音がメニュー表に目を通すと、全てのメニューに「にゃんこ」と付いていた。
 写真もイラストもなく、唯文字だけが並んでいるので、「にゃんこ」がどういった役割を果たしているのかが不明だ。
 どれを選んでも、然程大きな違いはないだろう。

「じゃあ、オレも桜花と一緒でいいよ」
「分かったわ。――――店員さん。にゃんこコーラ2つで」

 カウンターで会計を済ませ、2人は席に着いた。
 テーブルには、此処の従業員である猫達のプロフィールが写真付きで置いてあった。
 ドリンクが運ばれて来る間、桜花は恍惚とした表情でプロフィールを丁寧に眺めていた。
 華音は向かいの席から、覗き見る。

「あぁ~この子とか好み。グレーのロングヘアに、青い瞳。異国の王子様みたい! 可愛いなぁ」
「そうだね」
「華音もそう思う? えへへへ」

 桜花は本当に幸せそうだ。特別猫が好きな訳ではない華音も、その笑顔を見ていると嬉しくなってくる。

「お待たせしました。にゃんこコーラです」

 店員が2つ分の品を盆に乗せ、やって来た。
 テーブルに置かれたのは、三角形のホワイトチョコレートが2つ刺さった、丸いバニラアイスの浮かんだコーラだった。
 なるほど。「にゃんこ」の役割はこう言う事だったのかと、華音は一人納得した。バニラアイスが「にゃんこ」なのである。
 桜花は早速備え付けのスプーンでバニラアイスを掬い、もう片方の手でスマートフォンを握った。

「わたしはいつでも準備出来ているわ」
「何が?」

 華音はストローから口を離し、桜花に訊ねた。
 桜花はニンマリと笑う。

「あとは華音が猫と戯れれば、今日の任務は終了よ」
「任務って。んー……まあ、せっかく来たし、ちょっと触って来ようかな」

 数分後、コーラを飲み終えてすっかりくつろいだ華音は席を離れたが、すぐに戻って来てブレザーをばさりと脱いで席に置いた。

「さすがに猫の毛をつけて帰ると、水戸さんに迷惑だからね」
「そ、それもそうね」

 桜花は去って行く華音の背を見送り、高鳴る心臓を押さえた。
 唯、上着を脱いだだけなのに、ドキリとしてしまった。
 華音はもう硝子戸の向こうだ。
 硝子の戸を潜ってすぐに、受付の時とは別の、若い女性店員が笑顔で近付いて来た。

「こんにちは。あら? あの可愛らしい彼女さんは一緒に来ないんですか?」
「え? 彼女?」

 華音は一瞬、それが桜花を指している事に気付かなかった。
 振り返ってみると、硝子の向こうでスマートフォンを構えて張り付く桜花の姿が目に入った。ギョッとしたが、店員の言う「彼女」が桜花の事であると理解した。
 実際彼女ではないが、カップル割引をしてもらった後に訂正するのも憚られたのでそのままそれは流し、質問にだけ答えた。

「猫が好きなんですけど、猫アレルギーで」
「そうだったんですか……。でも、何か楽しそうですね」
「そうですね」
「彼女さんが猫がお好きと言う事は、あなたもお好きなんですか?」
「好きと言うか……猫と接した事ないんです。昔、鳥は飼っていたんですけど」

 何とかいつもの優等生の顔で苦笑してみると、然程店員は気にした様子もなく、寧ろ楽しげに話に食いついてきた。

「どんな鳥ですか?」
「エミュー」
「エミュー」

 華音の言葉を復唱した店員は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
 インコやオウムなど、ペットとしてよく知られる種類が来ると思っていたのに、そう来るとは。次に返すべき言葉を見失い、店員は固まってしまった。が、視界に入った猫の姿に本来の役目を思い出す。

「じゃあ、当然猫との接し方もご存知ないですよね。簡単にご説明させていただきますね」

 店員は、エミューしか飼った事のない少年の為に、猫について丁寧に教えた。
 猫の生態や習性、此処で働いている猫の紹介。
 抱き方にはコツがあって、まず、猫と同じ目線となって目を合わせる事。抱っこしてもよさそうなら、素早く脇の下に手を入れて、猫の前足を肩に乗せる。そして、お尻を腕で支えてあげるのだ。
 一通り猫を理解した華音は、早速猫と触れ合ってみる事にする。
 1匹の猫――――先程、桜花が異国の王子様みたいだと絶賛していた、グレーのロングヘアに青目の綺麗な猫がのっそり近付いて来た。
 猫は鈴の様な声で鳴きながら、華音の足に擦り寄る。
 エミューもなかなか懐いていて可愛かったが、猫も悪くないと思った。
 華音は膝を折って、猫と視線が合うと手を伸ばす。すると、猫の方が華音の胸に飛び込んだ。
 後方では、店員が驚きの声を上げていた。

「あの子、一番懐きにくいのに……」

 華音の腕の中で、猫は甘えた声を出す。
 細い毛が度々頬に触れ、くすぐったくて、きゅっと閉じていた華音の口から笑い声が漏れた。

「ちょ……くすぐったい! あはははっ」

 頬を紅潮させ、満面の笑み。
 店員も、硝子の向こうの桜花も、ドキッとした。

 か、可愛い……!

 桜花は堪らず、シャッターを切った。



 帰り道。もうすっかり、空は藍色に染まり、星が歌っていた。
 隣を歩く桜花は幸せそうに、スマートフォンの画面を眺めている。

「良かったね。猫カフェに行けて」

 そう言った華音も、満更ではなかった。
 桜花は視線をそのままに、大きく頷いた。

「今日は本当にありがとう。わたし、もう満足よ」
「それは良かった。それより、写真撮ってなかった?」
「しゃ、写真っ」

 桜花は慌ててスマートフォンを鞄にしまい、何故か頬を紅潮させてブイサインをした。

「猫の可愛い写真がいっぱいよ! ほ、本当可愛いんだからね」
「そっか」

 幸い、普段の行いからか、桜花の言動は華音には不審に映らなかった。
 華音の視線が逸れ、桜花はホッと息をついてスマートフォンをそっと取り出す。

「うん。可愛いなぁ……」

 1人納得の目を向ける先には、猫を抱いて満面の笑みを浮かべる華音の写真があった。


 結局、桜花は父に華音を彼氏として紹介する事はなかった。
 代わりに、仕事で疲れて帰って来た父に、たっぷりと猫の話を聞かせたのだった。



 鏡の向こう、スペクルムのヴィダルシュ城の中庭に、オズワルドとドロシーが居た。
 ドロシーは嬉しそうだが、オズワルドは何処か不満げだ。

「リアルムには猫カフェと言うものがあるのですわね! オウカちゃんもカノンくんも楽しそうにしていましたし、わたしも行ってみたいですわ」
「……くだらないな」
「まあ、オズワルド。なんですの? その言い方」

 ドロシーはアメジスト色の瞳を吊り上げ、オズワルドを見上げた。
 王女を見下ろす琥珀色の瞳には、光はない。頭上では太陽が輝いていると言うのに。

「猫など、悍ましいだけだ」
「悍ましいって……」

 始め眉間に皺を作っていたドロシーだったが、オズワルドの真意に気付いて次第に穏やかな表情になった。

「オズワルドは猫が苦手なんですね?」
「は、はぁ!?」

 オズワルドは喫驚して、大声を上げた。それが、図星だと言っている様なものだった。
 ドロシーは口元に手を当て、クスクスと笑い出した。
 オズワルドは顔を横へ向け、ギリっと奥歯を噛み締めた。

「……苦手ではない。アレは、頭部を擦りつけて来たり、喉を鳴らしたりして来て、私に敵意を向けて来るから悍ましいだけだ」

 ドロシーは笑うのをやめ、あどけない瞳でオズワルドの綺麗な横顔を見つめた。

「それは好かれているのですよ?」
「好かれている? 馬鹿な」

 吐き捨てる様に言い、オズワルドは自信たっぷりの表情でドロシーに向き直った。

「だが、私は水の魔法使い。奴らは水を苦手とする。いざと言う時は水魔法で追い払ってやるんだ。この私に敵意を向けるなど、身の程を知れ」
「オズワルド……。大人気ないですわ」

 ドロシーは頭を抱えた。
 オズワルドはわざわざ敵意と言う言い回しをしているが、つまりは猫が苦手なだけだ。上手く誤魔化せておらず、ドロシーの知るオズワルドの情報に「猫が苦手」が更新されたのだった。