猫カフェ。
その存在を桜花が知ったのは、数日前の事だ。
慣れない制服を着ていると、テレビに猫カフェが映ったのだ。
桜花はネクタイを中途半端に結んだ状態で、テレビの前に腰を下ろし、食い入る様に画面を見た。
このリビングと同じぐらいの広さのスペースに、様々な種類の猫が自由に歩き回っている。取材をしている女性はお気に入りの猫を見つけ、玩具で遊んだり撫でたりして、幸せそうに戯れていた。
料金さえ支払えば、一定時間、この空間で猫と遊ぶ事が出来ると言う。猫好きにはさぞかしたまらない今話題の施設だ。
とは言っても、施設自体は数年前からあり、近年の猫ブーム再来でまた人気に火が付いたのである。
桜花は今の今まで、猫カフェの存在すら知らなかった。
「桜花。もう少し、テレビから離れなさい」
背後から聞こえて来た父の声に、ハッとする。
後方のローテーブルの前には父が座って、コーヒーを飲んでいた。
桜花は父の向かいに移動した。栗色の瞳は、まだテレビに向いている。
「お父さん、猫カフェ」
「どうせ行けないだろう。……それよりも、此処で着替えるなと、何度言えば分かるんだ」
父は桜花と同じ栗色の目を腕で覆い、溜め息をついた。
血の繋がった親子と言えど、年頃の女の子が着替えている姿を見てしまうのは気まずいものがある。
桜花はネクタイを整え、小首を傾げた。
「別に、一糸纏わぬ状態じゃないんだから、問題ないわよ」
「……そんなんだから、彼氏も出来ないんだ」
父は溜め息を吐き、コーヒーを口に含んだ。
「か、彼氏ぐらい居るわよ」
対抗心でつい言い返した桜花だが、残念ながら彼氏は居ない。
父もそれは分かっていたが、敢えて間に受けたフリをしてみせた。
「そうなのか? 今度家に連れて来いよ。俺よりも良い男だったら、将来結婚も認めてやろう」
「くっ! めちゃめちゃイケメンで頭良いんだからね!」
「で、何でオレなわけ……?」
華音は困惑の表情で、桜花を見た。
「一番それっぽい……から?」
桜花も困惑の表情で、華音を見返した。
放課後の学校の中庭の木陰に、2人は居た。始めは噴水の前で堂々と話す予定であったが、他の生徒達がやって来たので隠れる様にして足早に移動したのである。
校舎からは死角になって見えないが、中庭に居る生徒達からは丸見えで、こそこそしている2人は怪しく映った。
だが、桜花はそんな事はお構いなしに話を続けた。
「だって悔しいじゃない。カッコよくて頭良い彼氏を連れていって、お父さんを見返してやりたいの。だから、今日一日だけ」
「そんな意地の為にオレを利用しないでよ」
「うっ……。で、でも」
食い下がろうとする桜花の足元に、ルビー色の瞳の黒猫が擦り寄って来た。
にゃーと可愛らしく鳴くそれは、スペクルムからやって来たドロシー王女の使い魔だ。
「猫アレルギーなのに、使い魔は平気なんだ」
そう華音が言うと、使い魔を撫でていた桜花の手がピタリと止まった。栗色の瞳は、不審者を見るそれに変わった。
「な、何で、わたしが猫アレルギーって知っているの? この前も、わたしの事見ていたし……」
「ちょっと待って。何か勘違いしてない?」
さすがの華音も、少し焦りを感じた。このままだと、本当に不審者になってしまう。
オズワルドの使い魔の烏が、木の上からじっとこちらの様子を窺っている。きっと、全てはオズワルドへと送られている事だろう。
鏡の向こうの世界でケラケラ笑う魔法使いを想像し、華音は無性に腹が立った。
「……使い魔は」と、桜花が話を切り出す。「使い魔は身体を構成する物質の殆どがマナで、精霊に近い存在なんだって。だから、猫の姿をしているけど、厳密に言えば猫じゃないみたい。だから、わたしも平気なの」
「そうなんだ。オズワルドからはその事について聞いていなかったな」
話を掘り下げられなくて良かったと、華音は心底安心し、烏を一瞥した。
「猫大好きなんだけど、アレルギーのせいでずっと触れなくて。煉獄が来てくれて、すごく満たされたわ」
「煉獄?」
日常会話で出て来ない単語に華音が首を傾げると、桜花が黒猫を抱き上げた。
「この子の名前。わたしが付けたの。素敵でしょう?」
「素敵って言うか、何か禍々しい……」
「失礼ね。そう言う君は、あの烏に名前付けたの?」
「……ゴルゴンゾーラ」
オズワルドには馬鹿にされたが、華音は気に入っていた。心なしか、使い魔自身もその名で呼ぶと嬉しそうだ。
桜花は首を傾けた。
「モッチェリラじゃなくて?」
「噛んでる。モッツァレラ」
華音に指摘され、桜花の頬がサッと赤くなった。
言い直そうかと思うが、上手く舌が回りそうもなかったのでそのまま流す。
「数あるチーズの中で、青カビチーズを選んだのね。確かに、癖があって美味しいと思うわ」
「う、うん。……?」
桜花の斜め上の反応に、華音はどうしたら良いのか分からなくなった。まだ、オズワルドの様に大爆笑してくれた方が良かったかもしれない。
「それはそうと、猫で思い出したんだけどね……」
言いながら、桜花は鞄を探り、猫のマスコットの付いた桜色のスマートフォンを取り出した。
画面の上で指を滑らせ、web画面を表示させると華音に見せた。
「猫カフェ……本日、カップルデー……割引……」
画面に表示されている文字を華音は読み上げ、説明を促す様に桜花を見つめた。
桜花は少し胸を張ってみせた。
「華音と今から猫カフェに行けば、普段より安く済むのよ! しかも、カップルを演じるのには好都合。つまり、一石二鳥よ!」
「一石二鳥って、使いどころ間違ってない? それに、普通の猫じゃあ、桜花駄目なんじゃ……」
「そう。悲しいけれど、わたしは猫と戯れる事は出来ない。けれど、君なら大丈夫でしょう? わたし、隣の飲食スペースから、猫と戯れる華音を眺める事にするわ」
「益々よく分からなくなって来たけど? 君は一体、何がしたいんだ」
「猫カフェに行きたいのよ!」
「最初と話が違う……!」
華音は困惑したが、桜花が鼻歌を歌いながら地図アプリを起動し始めたので、それ以上反論する事は叶わなかった。
流れ、流されて、華音は桜花と共に最寄駅から電車に揺られ、3駅先で下車し、ビルの合間を縫って地図アプリが示す方へと歩いて行った。
少し奥まった場所に、それはあった。
木造の小さな建物は水玉模様の真っ赤な屋根がちょこんと乗っかり、一目でキノコだと分かる。絵本を切り抜いた様な、不思議で可愛らしい外観だ。
出入り口も丸く刳り貫かれ、森の住人が出入りしていそうな雰囲気はあるが、実際出入りしているのは人間……しかも、圧倒的に若い女性が多かった。
扉に掲げられたプレートには“猫カフェ”と記されていた。
表側には窓がないので、中の様子が覗えないが此処で間違いはなかった。
桜花は栗色の瞳を輝かせ、華音の手を引く。
「来たよ! ついに来ちゃったよ! 猫カフェっ」
「そうだね」
間近で香るチェリーブロッサムの香りに、華音はたじろぐ。
こんなに生き生きとしている桜花の姿は初めて見る。学校内で猫を被っている時よりも、華音には今の方が断然可愛く見えた。が、勿論その事は本人には言わない。
「どんな猫がいるんだろう。よーし! 行きましょ、華音」
華音の手を引いたまま桜花が走り出し、華音は困惑した。
「転ぶ流れじゃない? これ」
そう零した矢先、桜花が小さな悲鳴を上げて何もない所で躓いて前のめりになった。
華音も引っ張られたが、何とか踏み止まって桜花をぐいっと引き寄せた。
自然と、華音が桜花を後ろから抱き締める形となった。
「大丈夫?」
「う、うん。転ぶかと思ったわ……」
「君、本当ドジだよね……」
密着した身体が熱を帯び、互いの心臓の音まで聴こえて来そうだ。道行く人達は2人を見、顔を赤らめたり、ニヤついたりしていた。
華音は咄嗟に桜花を抱き締めていた事に気付き、慌てて離した。
「ご、ごめん」
「い、いいわよ……別に。わたしが悪かったんだし……」
桜花は背を向けたまま、華音は桜花から少し視線を外したままで、その顔は共通してほんのりと紅潮していた。
「さあ行きましょ」
桜花は切り替える様にサッと歩き出し、華音もその後をついていった。