青みがかった、宝石みたいな青い瞳をした烏がビルの真上を飛んでいく。何処までも広がるその景色の中、延々に、ひたすらに、何かを――――誰かを求めて彷徨う。
何処から自分はそれを眺めているのだろう。そんな疑問が沸くと、目の前を青みがかった一枚の羽がひらりと落ちて来た。
コツン。
頭部に何か小さくて固いものが当たり、少年は目が覚めた。長い睫毛の縁取る漆黒の瞳を瞬かせ、ぼんやりとしている頭を回転させる。芝生の上に預けていた上半身も起こし、自身を覚醒させる。
「今のは……夢か」
あまりに現実的で、すぐそこにあるかの様な鮮明な映像だったが、少年の現実は芝生の上でうたた寝していた事だった。
少年は少し乱れた黒の短髪を手櫛で整え、ふと、正面を見た。沢山の木が行儀よく並んでいて、一番背の高いそれの天辺に烏が止まっている事に気が付いた。心なしか、陽光を受けているその羽毛は青みがかっている様に見える。夢で見た烏とそっくりだった。
まさか、そんな事ある筈ないと、少年は視線を逸らした。
「こんなところで昼寝か~優等生」
丁度、視線を逸らした先に2人の少年が居て、今声を出したのは金髪ウェーブの制服を着崩した軽い方だった。
少年は2人が近付いて来ると、立ち上がった。
3人は鏡国高校に通う2年生で、親友だ。親友の1人が冗談を言うのも信頼故だが、少年は心底迷惑そうにしていた。
「その優等生って言うのやめろ」
どうしようかと、態とらしく顔を見合わせる親友達。その必要があったのか、なかったのか、2人は息ピッタリに満面の笑みを作って一言、
「華音ちゃ~ん」
「だから、それもやめろ! お前ら、馬鹿にしてんだろ」
華音と呼ばれた少年――――鏡崎華音は親友達を威嚇した。中性的で綺麗な顔立ちからは想像出来ないぐらい、冷酷な表情だった。
しかし、この反応も2人にとっては嬉しいぐらいだ。いつも通りなのだから。
「かがみん、恐~い」
金髪の少年が手の平に乗せた物をゴロゴロと動かし、華音の目に留まった。
「それ、ドングリ」
「ドングリでっす! リスさんがもぐもぐ」
「さっき、オレの頭に当たったのって……」
念の為、華音が自分の寝ていた場所を確認すると、金髪の少年の手に乗っている物と同じ物が転がっていた。
華音が金髪の少年をじろりと見ると、彼は舌を出して額の前でピースサインを作った。
「かがみんが無防備に寝ているからだぞっ☆ それとも、襲った方が良かったかなぁ」
「普通に苗字で呼べよ。お前、マジでムカつく」
「まあまあ。コイツの事は放って置こうぜ、鏡崎。それよりも、昼休みが終わっちまうから、早いとこ教室に戻ろうぜ」
なかなか収束しないやり取りに、色黒の少年が割って入った。彼も制服を着崩しているが、もう1人よりは中身はちゃんとしている。
華音は溜め息をつき、校舎の方を向き直った。
広大な芝生の向こうには、純白の大きな屋敷の様な外観の校舎が建っていた。外に居た生徒達は皆、重厚な扉の向こうへ消えていっていた。
「そうだな」
言いながら華音は後ろを確認したが、そこに烏の姿はもうなく、金髪少年のニヤケ顔を捉えただけだった。
華音と目が合った金髪少年はニヤケ顔を更に歪めさせたが、華音は無視し、色黒少年と共に歩き出した。金髪少年は慌てて2人を追う。
校内に甲高い予鈴が鳴り響いた。
教室へ戻って来てからと言うもの、華音の意識は何処か別のところにあった。授業内容は右から左へと耳を通り抜け、斜め後ろから金髪少年――――風間刃が球体に近い消しゴムを投げつけても、全く気が付かない。刃は華音の肩に弾かれた消しゴムを取りに席を立って教師に怒られ、刃の後ろで色黒少年――――高木雷は呆れた顔でそれを眺めていた。
華音はずっと考えていた。昼休みに見た不思議な夢の事を。烏が飛んでいる……一見すると、何の変哲もない、気にする事のない事だが、夢から覚めた後、それは確かに存在し、何故か自分を見下ろしていた。あれにどんな意味があるのか。そして、何故、そんな事を深く考えている自分がいるのかが最も分からなかった。
またあの烏が居る気がして隣の窓を見ると、自分だが、何処か違和感のある姿が映った。
え?
目を瞬かせ、再度窓を見るが、そこに映っているのは浮かない表情の自分の姿だった。
まだ、半分夢の中なのだろうか? 一瞬だけ映ったのは、自分と同じ顔の、髪色も瞳の色も服装も違う、まるで幻想世界の住人だった。
「鏡崎――」
教壇に立つ、眼鏡の男性教師が、1人黒板から目を逸らしている優等生に声を掛けた。隣の席の女子が気を利かせて、華音の肩をそっと叩くと、華音は肩を上下させた。漸く、意識が目の前に戻ってきた。
華音が前を向くと、教師が白いチョークで埋め尽くされた黒板をチョークでコツコツと鳴らした。
「お前がボーっとしてるの珍しいな。ここの方程式を書け」
「あ……。すみません。すぐ書きます」
華音は席を立ち、教師から手渡されたチョークでサラサラと黒板に方程式を書いていった。授業をほぼ聞いていなかったとは思えない、早く、完璧な解答だった。
「さすがだな。しかし、いくら頭が良くても授業はちゃんと聞いてくれよ」
教師は華音からチョークを受け取り、苦笑した。
華音も「はい」とだけ苦笑いで返事をし、席へ戻る。その僅かな道程で、クラスメイト達(主に女子)が「カッコイイ」や「素敵」など、小さな黄色い声を上げた。
「安定のモテですな! かがみん!」
ニヤリと笑った刃が親指を立て、華音は彼の机上を見て呆れ返った。
「ノート……真っ白」
「いやー書く事なくって」
刃が頭を掻くと、教師の眼鏡が光った。これは説教が始まる予兆だ。
華音は自分は無関係だと言うばかりに、サッサと席に着き、頬杖を付いた。
案の定、その後、教師の怒鳴り声が教室内に響き渡った。
月も星も薄い雲に隠れ、時折点滅を繰り返す頼りない街灯だけを頼りに帰路を辿る華音と刃。雷は家の方向が逆なので、数分前に校門で別れた。
いつもはギリギリ太陽の勤務時間内に帰宅をするのだが、今日は各々の理由で授業後も校内に残っていた為に遅くなってしまった。華音は提出期限の迫った風景画の仕上げ、刃は成績と授業態度が悪いので補習、雷はそんな2人を待っていた。
刃は後頭部で指を組んで、ニヤニヤ笑う。
「そういや、かがみんは唯一美術センスないんだったなー。俺の方が絵上手いし」
「文句あるか」
華音は刃を一切見ず、塀と同じ高さのカーブミラーがある道を進んだ。一瞬何か黒い影が映ったが、2人は気付かなかった。
学年トップの成績の鏡崎 華音は勉強も運動も出来、性格も刃や雷の前以外では穏やかなので生徒や教師からの評判も良いが、たった1つだけ苦手な事があった。それが、美術だ。生まれ付き美的感覚が備わっていないのか、彼が生み出す作品は歪そのもの。逆にどうしたらそんなものが生成出来るのか、皆、疑問に思うぐらいだ。今日やっとの事で仕上げた風景画は、風景の原型がなく、誰しもがそれなりに描写出来る筈の木々も唯絵具を零したかの様な仕上がりだ。とても、16歳の男子高校生が描いたとは思えない。
華音自身も、何とかしたいのだが、こればかりはどんなに練習を積んでもどうにもならなかった。
それで良かったと、刃や雷は思っていた。容姿端麗、完璧なだけの人間などつまらない。だから、友人でいられるのだ。刃に至っては、少しばかりの優越感に浸っていたりする。大した美術センスがある訳ではないのに。
「将来必要なのは美術センスじゃなくて、学歴だからな。オレの事より、自分の心配した方がいいんじゃないの。刃はさ」
華音の最もな言葉に、刃は少し考えた後、ガッと華音の首に腕を回した。勢いで華音の首が軽く絞まった。
「じゃーあ、かがみんが勉強教えてよ。手とり足取りぃ」
「く、苦しい……」
今の華音には刃の冗談に反応する余裕はない。
刃は数秒遅れて、力加減の間違いに気付き、そっと力を緩めた。
漸く息苦しさから解放された華音は軽く息をつき、心底迷惑そうな声色で先の刃の冗談に答えた。
「死んでもお前の面倒だけは見たくない。前に勉強を教えてやった時、テストすら受けなかったのは何処のどいつだ。よく高校に入れたな」
「えーっ。かがみんマジレス。死後の事まで考えちゃってぇ。そうだなぁ……中学の時は高校入れないと母さんが家出しそーな勢いだったから、それなりに勉強したさー。でも、もう高校入れたし、あとは大学行かずに就職だけだし、もういっかなーってね」
「刃……。就職するにも、それなりに勉強しないと駄目だから」
「えぇ!? それマジ!? 明るく元気なら面接通るんじゃないの?」
「さすがに、算数も出来ない馬鹿を入れる会社なんてないだろ……」
「いや、算数は出来るから! 足し算でしょー引き算でしょー掛け算、割り算。時計だって読める!」
「そのレベルでよく自信満々でいられるな……。逆に尊敬するよ」
「華音ちゃんに尊敬されるなんて!! 刃、嬉しいぞ☆」
刃が華音の頬を突っつき、華音は眉間に皺を寄せて刃の腕を振り解いた。
「華音って呼ぶな!」
「何で~? 可愛いじゃん」
「だから嫌なの」
「怒らなきゃ、顔も可愛いぜ?」
刃が真顔で言い、華音は鳥肌が立った。
「刃ってさ……気持ち悪いな」
「うはっ! ヒドっ」
互いに冗談である事は理解している為、その後は険悪な雰囲気には勿論ならず、他愛ない会話をしながら歩みを進めた。
もう間もなく、刃が1人で暮らすアパートに辿り着く。当然、そこで2人はお別れだ。
街灯の役目を終えた唯の柱の下を通ると、急にパッと街灯に命が戻った。しかし、不可思議な事に、灯った色は毒々しい紫。こんな街灯見た事がなかった。
刃は能天気に「ハイカラだなー」と言って気にもしていないが、華音は胸騒ぎがしていた。
此処に居ては駄目だ。早く逃げなくては。そんな警鐘が脳内で鳴り出した。
華音が刃の腕を引こうとした時、紫の光を遮る黒い影が頭上から降って来て、素早くその下に居た少年に狙いを定めた。
刃は悲鳴を上げる暇さえなく、その場に突っ伏した。
華音は状況をすぐに理解出来ずに立ち尽くしていたが、やがて、塀の上で唸り声を上げる生き物の姿を捉えた。
紫の街灯で照らされている筈なのに、その身体は影が纏わりついているかの様に黒く、無防備な少年を睨んでいる双眸は赤く輝いている。大きさは中型犬ぐらいで、立った2つの大きな耳と鋭い爪の生え揃った4本の足もそれっぽいが、犬と呼ぶには凶暴で凶悪で、何か得体の知れない生物だった。
華音の心臓は高鳴る。
確実にあれは刃を仕留めた存在だ。そして、今度の獲物は間違いなく自分。
華音はじりじりと迫る殺意に、地面に縫い付けられた両足を何とか後ろへとずらしていった。
外傷はないようだが倒れたままピクリともしない刃。近隣住民が駆けつけて来てくれない今、彼を助けられるのは華音1人だが、華音にもまた、命の危機が迫っていて、とてもではないが、親友を気にする余裕はなかった。
華音が下がる度に、獣の唸り声は低くなる。次に動いたら、一気に間合いを詰められる。分かっていても、華音の身体は恐怖から逃れようと必死に動いた。
華音が大きく動いた事により、獣は牙の生え揃った大きな口を開けて跳んで来た。
「うわっ」
華音は、咄嗟に紺色の通学用鞄を盾にした。
鞄が突風に煽られた様に大きく揺れ、何故か獣の悲鳴が聞こえた。
「一体何が……」
華音が鞄を眼前からどけると、最初に青みがかった黒翼が目に入り、次に塀の前で横たわる獣の姿が目に入った。