華音が向かう予定だった方向から姿を現したのは、ヴィルヘルム・ディン・ハートフィールド王子だった。今日も綺麗に一部編み込まれた金髪を後ろで纏め、ストライプが入った浅葱色のジャケットをきっちり着こなしていた。
 華音にとって初対面となる人物で何者かも分からない状況下にあったが、彼の放つ雰囲気とマルスの様子から位の高い人物であると察する事は容易だった。
 ヴィルヘルムは数歩手前で立ち止まると、吊り上がった琥珀色の瞳で2人を、特に宮廷魔術師を睨んだ。
 華音は恐怖を覚えたが、それが表に出ないように努めた。
 時間にして5秒程その状態が続くと、興味をなくした様にヴィルヘルムは2人の横を通り過ぎた。

 遠ざかっていく足音に華音は心の中で溜め息をついた。緊張が解け表情も姿勢も緩むと、急に足音が途絶えた。後ろから人の気配がし、華音は瞬時に宮廷魔術師を演じてそっと振り返った。
 すると、離れてはいるがそこにはヴィルヘルムが立っていて怪訝な眼差しを宮廷魔術師に向けていた。

「オズワルド・リデル。お前は本当に……」

 言い掛けてヴィルヘルムは「何でもない」と勝手に話を終わらせて立ち去っていった。
 今のは一体何だったのだろうかと、今度は華音が怪訝な眼差しで彼の背中を見送った。

「もしかして、オズワルド様じゃない事に勘付いたんじゃないっすか?」

 緊張をマルスの悪戯で陽気な声が解いた。
 華音は「まさか」と思ったが、あの鋭い眼光は内側に居る自分を射抜いていたようにも思えた。恐怖でしかなかったが、何処か知っている目だった。毎日鏡越しで見ている琥珀色の瞳が脳裏を過ぎる。

 そうか。似ているんだ、オズワルドに……。だとしたら……

「さっきの人は誰……ですか?」

 控えめに訊ねると、マルスは快く答えてくれた。

「ヴィルヘルム・ディン・ハートフィールド王子。ハートフィールド王家の長男で、次期国王。ドロシー王女のお兄様っす。お堅い感じだけど、結構繊細でお優しいところもあるよ」
「王子……なるほど」

 納得出来た。オズワルドよりも高い地位となると王族しか居なかったし、国王にしては若い気がしたのだ。しかし、それならオズワルドと似ていると感じたのは単なる気のせいと言う事で、こちらは少々納得出来なかったが詮索するつもりもないのでこの話は自分の中だけで終わらせる事にした。

「あぁっ! こんな事してる場合じゃなかった。早く見張り交代しないと! ヴィルヘルム王子にバレたら首切られる」

 マルスは華音に「じゃあね」と一言残すと、慌ただしく走り去っていった。華音が反応する間もない出来事だった。
 騒がしい男が1人居なくなっただけで、空気は一気に冬の訪れの様に寒く寂しくなった。
 オズワルドは1日の大半を自室で過ごしていると言う。残りの18時間、宮廷魔術師を演じるのは存外難儀な事ではないのかもしれない。
 華音は自室で何をしようかと暢気に考えながら、オズワルドの部屋へと向かった。


 オズワルドの部屋に入ってまず行ったのは物件調査だった。間取り、日当たり、家具など、物件選びの様な気持ちで見て回った。実際18時間近く過ごす場所だ。居心地の良し悪しは最初に知っておきたいものだ。
 間取りはワンルームで、テーブルセット、本棚、チェスト、クローゼット、ベッドなどが配置されたシンプルな空間であるが、その広さは華音の部屋の3倍は余裕であり窮屈さは全くない。寧ろ、敷かれた絨毯や家具などのデザインは上流階級らしい華やかさはあるものの必要最低限の物で構成されたそこは空虚であった。
 日当たりは良好。廊下と同じ造りの窓から金色の柔らかな光がテーブルセットを照らしている。
 華音はテーブルの上で陽光によって白く浮き立つ本を見つけ、近付いて手に取った。

「オズワルドが読んでいる本か……あ、栞が挟んである」

 興味本位で開いてみた本は当然こちらの文字で綴られていたが、不思議と頭に入ってきた。この身体が覚えている。
 天使と人間の恋物語だった。人間の女の子が助けた男の子は実は天使だったのだが、男の子はそれを隠して女の子と何度も逢瀬を重ね次第に2人は恋に落ちる――――という内容で、冒頭から好みではなかったのだがページを捲る毎に惹き込まれ、いつしか夢中になっていた。
 栞の挟んであるページを開くと、不意に男性の話し声が聞こえた。
 華音はハッと現実に還り、顔を上げて本を閉じた。

「誰だ?」

 周囲を見回してみても、誰も居ない。
 気のせいかと思って視線を下げると、また声が聞こえた。
 今度はよく耳を澄ませ、その発信源を探った。そうして視線は真っ直ぐ窓の外へ向いた。
 この居館は中心が刳り貫かれた長方形型で、刳り貫かれた部分には一面が白い花で覆われた中庭があり、正面奥の中央の部分が中庭に突き出している。
 その突き出した部分の最上階の室内の様子がこの部屋から窺えた。声の主はそこに居た。
 豪奢な肘付きの椅子に腰掛ける、先の王子がもっと年を重ねた様な姿の男性の前に、整った身形の若い男性が立って声を張り上げていた。
 領主が国王に相談を持ち掛けている様子だった。

 じゃあ、あそこが謁見の間か。

 それが分かると、華音は窓から目を逸らした。そして身体の向きを変えた時、突然と平衡感覚を失いふらついた。数秒程で症状は治まり、歩いてみたがもう何ともなかった。
 慣れない状況に気疲れでもしてしまったのかもしれない。ふと、視線の先のベッドが目に付いたので歩み寄った。
 純白のシーツは皺1つなくビシッと伸ばされ、その上にふんわりと乗った枕も掛け布団も同様にきっちり整えられている。ローブのまま横になってみると、程よく沈み全身を優しく、けれどしっかりと包み込んでくれた。肌触りも滑らかだ。
 華音のベッドも鏡崎家具製の一級品だが、天蓋まで付いたこれはそれ以上。まさに地位の違いを示していた。

 それにしても、オズワルドが恋愛小説読んでるなんて意外だったな。ドロシー王女に勧められて……とか? ……やる事ないし、このまま寝ようかな。

 目を閉じてみる。
 何も考えない様にし、そのまま5分。まだ睡魔は迎えに来ない。
 もう少し待てばいつもは夢の中に辿り着いていたが、身体が異なる今は同じになりそうもなく。無気力とは裏腹に身体はまだ活動する気に満ちていた。
 仕方なく目を開け、ゴロンと横向きになる。目に映る景色が変わり、今まで気付かなかった扉が見えた。入って来た扉とは違う、金のノブが取り付けてあるだけのシンプルな扉だった。
 好奇心に突き動かされ、華音はベッドからのっそり起き上がると扉に近付いた。

 物置かな。

 ノブを回して内側に開くと、そこはバスルームだった。部屋と同様に白を基調とし、非常に清潔感がある。
 入浴の為だけに使用する空間としては広く、刃や桜花の部屋以上の面積はありそうだ。
 入ってすぐの右手には、よく磨かれた鏡と洗面台。少し奥まったところの格子窓の前には、優雅に足を伸ばせるバスタブがあった。天井ではシャンデリアが揺れている。
 この空間に存在する全ての物は、デティールまで拘ったデザインで華やかさと上品さを合わせ持っている。

 コンコン。

 後方からノックの音。
 華音はバスルームを立ち去り、音のする両開きの扉の方へ向かう。
 返事をしながら開き、訪問者の姿を一目見ると衝撃のあまり思考が停止しそうになった。
 小柄な身体に、おさげ、大人しい雰囲気……髪や瞳の色、服装などは異なるが、週に5日は見ている少女に瓜二つだった。

「柄本さん……?」
「エモト……? 私はエンベリーですけれど……」

 メイドは普段と何処か様子の違う宮廷魔術師に首を捻った。
 1度もオズワルドに名前を呼ばれた事はなかった。それを残念に思っていたが、使用人の名前などいちいち覚える筈がないと諦念も抱いていたのでその気持ちは半分程度で済んだ。

「リデル様?」

 名前を呼ばれて華音はギクリとした。
 此処は別次元スペクルム。今、自分は鏡崎華音ではなく、オズワルド・リデルだ。ともなれば、目の前の少女もまた、柄本日向ではなく、エンベリーと言う名の同じだけど同じでない別人なのだ。
 華音は宮廷魔術師の顔に一瞬で切り替え、感情の読めない琥珀色の瞳をメイドの傍らのワゴンに向けた。
 メイドは宮廷魔術師の視線の先にあるものに気付くと、急いで取り繕いいつもの様に頭を下げた。勢いのあまりおさげが揺れた。

「ブレイクタイムのケーキをお持ちしました」

 華音は扉を全開し、視線だけで入る様に促した。

「失礼します」

 メイドがワゴンを引いて扉を潜った時だった。

「オズワルド様! オズワルド・リデル様!」

 騒がしい声と足音を響かせながら、マルスが駆けて来た。鎧を纏っているとは思えない程の速度で、あっという間に華音の前に到着した。
 メイドはきょとんとし、華音は平静を装った。

「何だ、騒がしい」

 華音の完璧な演技にマルスはくすりと笑い、すぐに表情を引き締めて宮廷魔術師へ報告する。

「サ、サンダーバードが! サンダーバードが現れました! それも沢山」
「……分かった」

 華音はメイドを一瞥して微かに頭を下げると、マルスと共に戦場へと向かった。
 内心、恐怖と不安で一杯だった。