目の前の鏡面が水面の様に揺らぎ、見慣れた日常の風景から見慣れない非日常の風景に変わった。
暗闇ばかりの空間に華音は立っていた。青い宝石が装飾された銀縁の巨大な鏡以外に周りにあるものと言えば、両開きの扉まで続く青い蝋燭の火ぐらいだった。
こちらが瞬きすれば瞬きし、一歩後ろへ下がれば離れていく鏡面の魔法使いの姿に華音は落胆した。鏡とはそこにある真実を映し出すものだ。魂が入れ替わった事は気のせいでも夢でもなかった。
「いや、でも待てよ……」
オズワルドが憑依した時もこの姿になる。髪色、瞳の色、服装は本人と全く同じになり、唯一そのままなのが耳の形だ。
華音はほんの僅かな希望を胸に、耳に被さった水色の横髪をそっと掻き上げてみた。
人間にしては尖っており、エルフにしては短い、ハーフエルフの耳だった。
何となく後ろめたく思い、華音は横髪を下ろした。
「やっぱりそうだよな……」
鏡面の魔法使いの落胆した表情は紛れもなく華音のものだった。オズワルドはきっとしない。
華音は落胆顔の自分の他にも、鏡に映っている存在に気付いた。
「桜花……じゃない、ドロシー王女?」
鏡面に片手を付き、目を閉じたまま石像の様に動かない赤髪の少女がそこには居た。
華音が歩み寄って手を伸ばすと、真後ろから声がした。
「駄目っすよ」
聞き覚えのある青年の声。嫌悪感を覚えずにはいられないそれに振り返ると、更に嫌悪感が増して顔に出た。
「お前は……」
「わー! そんな顔しないでっす。この間はケントくんが大変失礼な事をしてしまって申し訳ない。僕の方からもちゃんと注意はしたんすけど……反省してる様子ないな、あの人」
突如現れた浅葱色と黒色が入り混じった短髪の騎士は、スペクルムの賢人であるマルスだった。
そうだと分かると、華音の表情は幾らか和らいだ……が、全く警戒していない訳ではなかった。
「マルスさん。オレがオズワルドじゃないって知ってるんですね」
「うん、まあ。使い魔の目を通じてね。……これはこれでありっすね」
「はい?」
賢人と同じ見た目だからか、一瞬マルスの視線にゾッとした。
「本当ならオズワルド様の方が立場が上だから、たかが騎士なんかに敬語使わないんすけどね。見た目が少年なのにあの高飛車なギャップが堪らないんすよ」
恍惚とした顔で語るマルスは、やはり賢人と同じモノが感じられた。
唯、ちゃんと常識はある様で出逢った瞬間唇を奪う真似はしなかった。
他人がどのような価値観及び性癖を持とうが自由だ。華音はこれ以上は触れない様にし、ドロシーを見て話題を最初に戻した。
「これって、魂が向こうに行っている状態って事?」
「察しがいいね、カノンくん。その通り。こっちは抜け殻状態になっちゃうんすよね」
「それは危ないんじゃ……」
「そうっすね。唯、此処ってオズワルド様とドロシー王女、それから僕しか入る事が出来ないんすよ。だからそう言った心配はないよ」
「そうなんですね」
それでも、無防備な少女の姿に心配になってしまう。
「変な気を起こしちゃ駄目っすよ?」
マルスが意地悪く笑うと、華音は慌ててドロシーから距離を置いた。頬はほんのり赤い。
「な、何もしません!」
「ははっ。冗談すよ。本当のオズワルド様に言ったら氷の刃の1つや2つ飛んできてもおかしくないけど。じゃあ、いつまでもこんなところに居るのもあれなんで行こうか」
マルスが肩から提げた赤い布を翻して歩いて行き、華音は不安そうに呼び止める。
「行くって何処へ?」
「ん? 勿論、オズワルド様のお部屋っすよ」
マルスは振り返って華音を一瞥すると、また前を向いて歩き出した。
一面赤の絨毯が続く長い廊下を、華音はマルスを引き連れて歩く。道が分からないのに前を歩く事に不安はあったが、本来の宮廷魔術師と騎士の関係上マルスが前を歩くのは不自然だった為に渋々受け入れた。その代わりに後方からマルスが指示してくれるので、堂々と宮廷魔術師を演じる事が出来た。
左手にある大きな窓ガラスから、頂上より少し西へ滑り落ちた太陽の光がうらうらと射し込んで金の窓枠を神々しく浮き立たせている。
右手には同じ造りの扉が規則的に並び、粛然さを感じさせる。
また、純白の高い天井から吊り下げられているランプが乱反射し、七色の光の雨を周囲に散らして華やかさを演出する。
ヴィダルシュ城は洋風の城そのもののイメージだった。
魔法鏡の間から離れていくと、人の話し声がハーフエルフの耳に届いた。
華音は足を止め、辺りを見回した。
「どうかしたっすか?」
マルスが声を掛けると、華音は片耳を押さえた。
「人の声が聞こえるんです」
「あぁ。オズワルド様は人間以上の聴力を持っているっすからね。きっと角を曲がった先に居る人達だね」
「他愛ない話が殆どなんだけど、他人の悪口の方が妙に気になってしまうというか……何だか辛いです」
「いい気分じゃないよね。でも、人間って他人の悪口を言う事で自分を正当化したがる生き物だから」
「確かに不満を零してしまう事もあるけど、これは……あんまりだ」
哀傷の色に染まる華音の顔を見て、マルスには彼が聞いてしまった話の内容が大方予想出来、遣る瀬無さを感じた。
普段からよく騎士達が大した理由もなく毛嫌いし、己が正義とばかりに謗るのだ――――ハーフエルフの宮廷魔術師の事を。
華音は引き返したい気持ちを抑えて再び足を進め、マルスは一歩後ろをついて歩いた。
角を曲がると、巡回中の騎士と清掃道具を持った使用人の若い男性2人が窓の前で話し込んでいた。間違いなく陰口を叩いていた人物達だ。
彼らは宮廷魔術師と第2騎士団副団長が視界に入ると話をぱったりとやめ、真面目な顔付きで会釈した。
華音はその取り繕いように憤懣を覚えた。
ついさっきまで、オズワルドの事を謗っていたくせに。
一言文句をぶつけてやりたい気分だが、彼らにとって目の前に居る少年はオズワルドでしかなく本人が口論している事になってしまう為、口を噤むしかなかった。
悔しい想いを抱えたまま進んでいくと、行く先々で城内の者達と出くわした。
彼らは決まって宮廷魔術師に敬意を示すが、華音には畏怖によって形作られた紛い物にしか思えなかった。そこに嫌悪が垣間見えるのが余計に質が悪い。本来主従とはそんなものではない筈だ。
しかし、畏怖の念で彼らを抑えつけているのは他でもないオズワルド自身の意思によるもので、舐められない様にあえて高飛車な態度をとっているのだ。多少自信家なのは素であるが、本当は平等を誰よりも求めていた。
華音は別次元の自分の真意にそれとなく気付き、心に穴が空いて冷たい風が吹き抜けていく心地がした。
オズワルドはこんな広い場所でいつも独りだ。それも、ずっと昔から。
過去を知っているから余計に胸が苦しい。
護るべき場所なのだろうか。華音は擦れ違う人達の横顔を見て疑問を抱いた。
けれど、オズワルドにとっては大切な場所だから魔女殲滅に必死なのだろう。
自分を蔑む世界。居場所のない世界。それでも失いたくないと願うオズワルドは誰よりも純粋で、誰よりも強いヒトだと華音は初めて思った。
「突き当たりを左に曲がってちょっと行ったところの左手がオズワルド様のお部屋っす。両開きの扉で他よりも豪華だから見ればすぐに分かるよ」
マルスがにこりと笑い、ゴール目前まで辿り着けた事に華音は安堵した。造り自体は鏡国高校とよく似ていてそこまで複雑ではないが、天井の高さや廊下の幅、距離などが倍以上ある上これといった目印になる物がある訳ではないので自分1人では道に迷っていたかもしれない。マルスの案内はとてもありがたかった。
華音は向き直った。
「はい。ありがとうございます」
「それじゃあ、僕は見張りの交代の時間だからこれで」
「え……」
マルスが背中を向けようとすると、華音は「ちょっと待って」と言いながら咄嗟に翻った赤い布を掴んだ。
マルスは目を見張った後、困った様に笑った。
「やっぱり1人は不安?」
「そ、そうじゃなくて……。間違っていたら、ちょっと恥ずかしいんだけど」
華音は視線を数秒彷徨わせると、意を決した様にマルスのサファイアブルーの猫目をしっかりと見た。
「マルスさん、オレの為に態々魔法鏡の間まで来てくれたんでしょう? その、魔法鏡の間で何かする訳でもなさそうだったし、他の仕事もあるのに」
「オレの為に……」
マルスの脳内ではその言葉が華音の声で反芻した。
「ち、違いました……?」
華音が不安で揺れる瞳をマルスに向けると、マルスは両手で口を覆い頬を赤く染めてぽろぽろと涙を流した。
「ナニコレ。何この可愛い生き物!」
「あのー……マルスさん?」
華音が顔を覗き込んだ途端、ギュッとマルスに抱き寄せられた。既視感に鳥肌が立った。
「健気で可愛いよ、カノンくん! 僕、君の事も好きになっちゃいそうだよ」
子猫にする様に華音の頬をすりすり。
別次元でも結局こうなるのか。すっかり全身から力が抜けた華音は抵抗出来ず、されるがままになっていた。
キスされるよりはマシか、と思うもマルスの抱擁は賢人よりも長い。いつまで続くのだろうかと苦笑が華音の口の端に浮かぶと、カツカツと足音が聞こえて来た。
これまで出会った騎士や使用人とは違う、城内を踏み締める一歩一歩に威厳を感じさせる足音だ。
人間の聴力でもはっきりと聞こえ、マルスは華音を離してスッと表情を変えた。従順な騎士の顔付きだった。それに倣い、華音も宮廷魔術師を演じた。
暗闇ばかりの空間に華音は立っていた。青い宝石が装飾された銀縁の巨大な鏡以外に周りにあるものと言えば、両開きの扉まで続く青い蝋燭の火ぐらいだった。
こちらが瞬きすれば瞬きし、一歩後ろへ下がれば離れていく鏡面の魔法使いの姿に華音は落胆した。鏡とはそこにある真実を映し出すものだ。魂が入れ替わった事は気のせいでも夢でもなかった。
「いや、でも待てよ……」
オズワルドが憑依した時もこの姿になる。髪色、瞳の色、服装は本人と全く同じになり、唯一そのままなのが耳の形だ。
華音はほんの僅かな希望を胸に、耳に被さった水色の横髪をそっと掻き上げてみた。
人間にしては尖っており、エルフにしては短い、ハーフエルフの耳だった。
何となく後ろめたく思い、華音は横髪を下ろした。
「やっぱりそうだよな……」
鏡面の魔法使いの落胆した表情は紛れもなく華音のものだった。オズワルドはきっとしない。
華音は落胆顔の自分の他にも、鏡に映っている存在に気付いた。
「桜花……じゃない、ドロシー王女?」
鏡面に片手を付き、目を閉じたまま石像の様に動かない赤髪の少女がそこには居た。
華音が歩み寄って手を伸ばすと、真後ろから声がした。
「駄目っすよ」
聞き覚えのある青年の声。嫌悪感を覚えずにはいられないそれに振り返ると、更に嫌悪感が増して顔に出た。
「お前は……」
「わー! そんな顔しないでっす。この間はケントくんが大変失礼な事をしてしまって申し訳ない。僕の方からもちゃんと注意はしたんすけど……反省してる様子ないな、あの人」
突如現れた浅葱色と黒色が入り混じった短髪の騎士は、スペクルムの賢人であるマルスだった。
そうだと分かると、華音の表情は幾らか和らいだ……が、全く警戒していない訳ではなかった。
「マルスさん。オレがオズワルドじゃないって知ってるんですね」
「うん、まあ。使い魔の目を通じてね。……これはこれでありっすね」
「はい?」
賢人と同じ見た目だからか、一瞬マルスの視線にゾッとした。
「本当ならオズワルド様の方が立場が上だから、たかが騎士なんかに敬語使わないんすけどね。見た目が少年なのにあの高飛車なギャップが堪らないんすよ」
恍惚とした顔で語るマルスは、やはり賢人と同じモノが感じられた。
唯、ちゃんと常識はある様で出逢った瞬間唇を奪う真似はしなかった。
他人がどのような価値観及び性癖を持とうが自由だ。華音はこれ以上は触れない様にし、ドロシーを見て話題を最初に戻した。
「これって、魂が向こうに行っている状態って事?」
「察しがいいね、カノンくん。その通り。こっちは抜け殻状態になっちゃうんすよね」
「それは危ないんじゃ……」
「そうっすね。唯、此処ってオズワルド様とドロシー王女、それから僕しか入る事が出来ないんすよ。だからそう言った心配はないよ」
「そうなんですね」
それでも、無防備な少女の姿に心配になってしまう。
「変な気を起こしちゃ駄目っすよ?」
マルスが意地悪く笑うと、華音は慌ててドロシーから距離を置いた。頬はほんのり赤い。
「な、何もしません!」
「ははっ。冗談すよ。本当のオズワルド様に言ったら氷の刃の1つや2つ飛んできてもおかしくないけど。じゃあ、いつまでもこんなところに居るのもあれなんで行こうか」
マルスが肩から提げた赤い布を翻して歩いて行き、華音は不安そうに呼び止める。
「行くって何処へ?」
「ん? 勿論、オズワルド様のお部屋っすよ」
マルスは振り返って華音を一瞥すると、また前を向いて歩き出した。
一面赤の絨毯が続く長い廊下を、華音はマルスを引き連れて歩く。道が分からないのに前を歩く事に不安はあったが、本来の宮廷魔術師と騎士の関係上マルスが前を歩くのは不自然だった為に渋々受け入れた。その代わりに後方からマルスが指示してくれるので、堂々と宮廷魔術師を演じる事が出来た。
左手にある大きな窓ガラスから、頂上より少し西へ滑り落ちた太陽の光がうらうらと射し込んで金の窓枠を神々しく浮き立たせている。
右手には同じ造りの扉が規則的に並び、粛然さを感じさせる。
また、純白の高い天井から吊り下げられているランプが乱反射し、七色の光の雨を周囲に散らして華やかさを演出する。
ヴィダルシュ城は洋風の城そのもののイメージだった。
魔法鏡の間から離れていくと、人の話し声がハーフエルフの耳に届いた。
華音は足を止め、辺りを見回した。
「どうかしたっすか?」
マルスが声を掛けると、華音は片耳を押さえた。
「人の声が聞こえるんです」
「あぁ。オズワルド様は人間以上の聴力を持っているっすからね。きっと角を曲がった先に居る人達だね」
「他愛ない話が殆どなんだけど、他人の悪口の方が妙に気になってしまうというか……何だか辛いです」
「いい気分じゃないよね。でも、人間って他人の悪口を言う事で自分を正当化したがる生き物だから」
「確かに不満を零してしまう事もあるけど、これは……あんまりだ」
哀傷の色に染まる華音の顔を見て、マルスには彼が聞いてしまった話の内容が大方予想出来、遣る瀬無さを感じた。
普段からよく騎士達が大した理由もなく毛嫌いし、己が正義とばかりに謗るのだ――――ハーフエルフの宮廷魔術師の事を。
華音は引き返したい気持ちを抑えて再び足を進め、マルスは一歩後ろをついて歩いた。
角を曲がると、巡回中の騎士と清掃道具を持った使用人の若い男性2人が窓の前で話し込んでいた。間違いなく陰口を叩いていた人物達だ。
彼らは宮廷魔術師と第2騎士団副団長が視界に入ると話をぱったりとやめ、真面目な顔付きで会釈した。
華音はその取り繕いように憤懣を覚えた。
ついさっきまで、オズワルドの事を謗っていたくせに。
一言文句をぶつけてやりたい気分だが、彼らにとって目の前に居る少年はオズワルドでしかなく本人が口論している事になってしまう為、口を噤むしかなかった。
悔しい想いを抱えたまま進んでいくと、行く先々で城内の者達と出くわした。
彼らは決まって宮廷魔術師に敬意を示すが、華音には畏怖によって形作られた紛い物にしか思えなかった。そこに嫌悪が垣間見えるのが余計に質が悪い。本来主従とはそんなものではない筈だ。
しかし、畏怖の念で彼らを抑えつけているのは他でもないオズワルド自身の意思によるもので、舐められない様にあえて高飛車な態度をとっているのだ。多少自信家なのは素であるが、本当は平等を誰よりも求めていた。
華音は別次元の自分の真意にそれとなく気付き、心に穴が空いて冷たい風が吹き抜けていく心地がした。
オズワルドはこんな広い場所でいつも独りだ。それも、ずっと昔から。
過去を知っているから余計に胸が苦しい。
護るべき場所なのだろうか。華音は擦れ違う人達の横顔を見て疑問を抱いた。
けれど、オズワルドにとっては大切な場所だから魔女殲滅に必死なのだろう。
自分を蔑む世界。居場所のない世界。それでも失いたくないと願うオズワルドは誰よりも純粋で、誰よりも強いヒトだと華音は初めて思った。
「突き当たりを左に曲がってちょっと行ったところの左手がオズワルド様のお部屋っす。両開きの扉で他よりも豪華だから見ればすぐに分かるよ」
マルスがにこりと笑い、ゴール目前まで辿り着けた事に華音は安堵した。造り自体は鏡国高校とよく似ていてそこまで複雑ではないが、天井の高さや廊下の幅、距離などが倍以上ある上これといった目印になる物がある訳ではないので自分1人では道に迷っていたかもしれない。マルスの案内はとてもありがたかった。
華音は向き直った。
「はい。ありがとうございます」
「それじゃあ、僕は見張りの交代の時間だからこれで」
「え……」
マルスが背中を向けようとすると、華音は「ちょっと待って」と言いながら咄嗟に翻った赤い布を掴んだ。
マルスは目を見張った後、困った様に笑った。
「やっぱり1人は不安?」
「そ、そうじゃなくて……。間違っていたら、ちょっと恥ずかしいんだけど」
華音は視線を数秒彷徨わせると、意を決した様にマルスのサファイアブルーの猫目をしっかりと見た。
「マルスさん、オレの為に態々魔法鏡の間まで来てくれたんでしょう? その、魔法鏡の間で何かする訳でもなさそうだったし、他の仕事もあるのに」
「オレの為に……」
マルスの脳内ではその言葉が華音の声で反芻した。
「ち、違いました……?」
華音が不安で揺れる瞳をマルスに向けると、マルスは両手で口を覆い頬を赤く染めてぽろぽろと涙を流した。
「ナニコレ。何この可愛い生き物!」
「あのー……マルスさん?」
華音が顔を覗き込んだ途端、ギュッとマルスに抱き寄せられた。既視感に鳥肌が立った。
「健気で可愛いよ、カノンくん! 僕、君の事も好きになっちゃいそうだよ」
子猫にする様に華音の頬をすりすり。
別次元でも結局こうなるのか。すっかり全身から力が抜けた華音は抵抗出来ず、されるがままになっていた。
キスされるよりはマシか、と思うもマルスの抱擁は賢人よりも長い。いつまで続くのだろうかと苦笑が華音の口の端に浮かぶと、カツカツと足音が聞こえて来た。
これまで出会った騎士や使用人とは違う、城内を踏み締める一歩一歩に威厳を感じさせる足音だ。
人間の聴力でもはっきりと聞こえ、マルスは華音を離してスッと表情を変えた。従順な騎士の顔付きだった。それに倣い、華音も宮廷魔術師を演じた。


