生徒達が談笑で盛り上がる早朝の廊下を、華音はいつもの様に歩いて行く。

「鏡崎、おはよ」

 擦れ違う同級生からの挨拶もいつも通り……なのだが、華音は無反応。体育会系の彼のよく通る声が聞こえていない筈はないし、現に華音の視線が一瞬声の方へ向いた。
 華音のいつもと違う様子に同級生が首を捻ると、ややあって華音がしっかりと彼に笑顔を向けた。

「ああ。おはよう」
「? おお」

 いつも通り。
 今の間は気のせいだったかの様に自然で、その後の華音は愛想もテンポも良く挨拶を返した。
 それでも、やはり今日の華音は少し不自然で。入らなければならない教室を平然と通り過ぎた。

「華音、何処行くんだ。教室は此処だぞ?」

 後から来た高木雷の声にバツが悪そうに華音は表情を歪めると、踵を返した。その時には完璧な笑顔が完成していた。

「あー……ぼんやりしてた。おはよう」
「おっす。ん? あれ?」
「どうかしたか?」
「……何でも」

 鞄を掛ける方向が逆、いつもなら左肩に掛けているのに今日は何故か右肩に掛けていた。そんな些細な変化を指摘するのも気が引けた為、雷は己の胸の内に留めておく事にした。
 揃って教室に入ると、丁度視線の先に赤松桜花と柄本日向が居た。彼女達は2人に気付くと立ち話を中断して笑顔で挨拶をする。

「おはよう。華音に高木くん」
「おはよー」
「おっす」

 真っ先に応えたのは雷で、華音は桜花を見て一瞬僅かな戸惑いを見せるものの少し遅れて挨拶を返した。
 桜花は横を通り過ぎる華音の背中を見送り、そっとスマートフォンを手に取った。そして画面に華音とのメッセージのやり取りを表示させ、表情を曇らせた。
 賢人と知り合ったハロウィンの日の帰り、華音の様子が少しおかしかったから電車に乗ってすぐにメッセージを送った。後日確認してみると既読は付いていたが、以来彼からのメッセージは1度もなかった。

 わたし、華音に嫌われちゃった……?

 心がざわめき、血の気が引いていった。思い当たる要因なんて1つ掘り起こせば、温泉の様にどんどん湧き出てきて切りがなかった。
 スマートフォンを両手でぎゅっと握り締め悶々としている桜花の横で、柄本は人差し指を顎に当てて華音をじっと見ていた。
 華音は自分の席を間違えて雷に指摘されているところだった。

「……何か今日の鏡崎くん、感じが違うね」

 柄本が呟くと、桜花は柄本の方へ顔を向けて首を傾げた。

「感じが違う?」
「鏡崎くんなんだけど、鏡崎くんじゃない感じ。前に桜花ちゃんにも言ったよね。別の何かが時々お邪魔している様な感じがするって。今の鏡崎くんはその何かそのものの様な気がするの」
「まさか、オズワルド?」
「え、誰」
「あっ……ううん!」

 何だ……わたしが嫌いだからじゃないんだ。でも、柄もっちゃんの言葉気になるなぁ。

 一時安堵した桜花だが、まだ柄本の不信な目が向けられていたので急いで取り繕った。

「それより! さっきの話の続きなんだけど、そのクレープ屋さんにね……」

 態とらしい話の逸し方だったが、柄本はそれ以上は触れずころっと表情を変えて楽しげに話に乗った。


 予鈴が鳴る頃、風間刃が騒がしく教室へ入って来て桜花と柄本他目に付いたクラスメイトに軽く挨拶し、真っ先に親友達のもとへ向かった。

「おはよー! 愛しの華音ちゃんと割とどうでもいい雷くん」
「割とって何だ。朝っぱらから喧嘩売ってんのかよ?」

 雷がニヤリと笑って拳を胸元まで挙げると、刃は慌てて訂正した。

「ごっめ~ん、一言余計だったな。改めてどうでもいい雷くん、おはよっ!?」

 遠慮なく雷の拳が刃の鳩尾に捩じ込まれた。
 大ダメージを受けた刃は涙目になり抗議する。

「さっき食べた唐揚げが出て来たらどうしてくれんだ!」
「朝から唐揚げかよ」
「期間限定エビチリ味だぜ」
「鶏なのに海老って。チリだけでよくね」
「それな。でも、まあまあ美味かった。華音も好きそうな味だったぜ」

 先程から頬杖を付き2人とは反対側の窓ガラスに視線を向けたままの華音に話を振ると、漸く華音の視線が騒がしい親友に向いた。

「何だ、お前か」

 その顔は心底嫌そうであった。
 刃は「うはっ……華音ちゃん、今日も容赦ねーわ」と胸を押さえ、傷付いた演技をして楽しそうだったが、雷はまた眉根を寄せた。
 華音は刃を冷たくあしらう事もしばしばあるが、それは演技で実際はこの様なくだらないやり取りを楽しんでいた。対して、今の華音の反応は本音に思えた……少なくとも雷には。
 華音は親友達から興味をなくした様に再び視線を窓ガラスに向け、そこに映る高校生に密かに溜息をついた。


 ふらりと刃が教室に戻って来ると、きっちり埋まっていた席は疎らに空き皆各々親しい者達と談笑していた。
 雷は教台に凭れ掛かってスマートフォンを見ており、近付いて来る足音に気付くと顔を上げた。

「やっと戻って来たか。ったく、授業中ふらっと抜け出して今まで何処で何してたんだよ」
「便所。いやあ、朝食った唐揚げが当たったみたいでさぁ……結構手強かったけど、無事勝利したぜ。おかげで腹がめっちゃ減った。さあ、飯だ飯――――って、華音は?」

 刃はキョロキョロと教室内を見回した。

「華音ならチャイム鳴り終わってからすぐに教室を出て行ったが……途中で擦れ違わなかったのか?」
「ああ」
「それなら先に食堂に向かった訳じゃねーな」
「何処行ったんだろうな」
「なあ、今日の華音何か変じゃないか?」
「変って? 別にいつもと同じじゃね?」
「そうか……。でも、やっぱり俺は気になるから捜して来る」

 雷はスマートフォンをズボンのポケットに滑り込ませるとブレザーを翻した。

「おい、雷?」

 刃が後ろから声を掛けるが、雷は行ってしまった。
 刃は金色のくせっ毛をガシガシ掻き乱すと、小走りでその背中を追い掛けた。

「置いてくなよ」



 11月の風が素知らぬ顔で吹き抜ける。冬が待ち遠しいばかりにひんやりとしたそれは、屋上に立つ少年の白い頬と黒い髪を撫でていった。
 少年は横髪を軽く押さえ、いつもよりも少し近くなった秋晴れの空を仰ぐ。
 バサバサと羽音が徐々に近付いて来て姿が鮮明になると、少年は右腕を差し出して青みがかった烏を停まらせた。

「1日中こんなところで過ごすなんて大変だ……って、それは普段と変わらないか。それにしても、違うと分かっていても一瞬戸惑ってしまった。本当にドロシーそっくりだ」

 使い魔は降り注ぐ陽光に目を細め、心地良さそうな顔で話を聞いている。

「静かだな……」

 もう1度吹いた風が金属製の扉をノックし、応える様にギィっと扉が開いた。
 少年は、開閉の音と呼び声で初めて来訪者の存在に気付く。普段ならその前に気付けたのだが。

「華音、こんなとこに居たのかー。飯早く食おうぜ? 俺もう腹減っちゃって……」

 華音の親友の刃が腹を擦りながら言う隣には、同じく華音の親友の雷も並んでいた。
 華音(・・)は使い魔を空に放ち、ゆっくりと振り返る。
 太陽が背後にあり、青い影となったその姿を黄金の光が縁取り存在を際立たせる。2人を見据える瞳には静寂が宿る。まさに覇者の風格があり、刃は口を開けたまま静止し、雷は表情を引き締めた。
 
 あれは鏡崎華音ではない。

 雷は畏怖故に震える拳を握り締め、目の前の人物から目を離さずに口を開いた。

「華音はこんな所に来たりしない。……お前は誰だ?」

 すると、彼はくつくつと笑い出した。笑い方も華音とは違った。

「お前は誰だ? か。そっちのアホ面よりは利口だな。……まあ、気付けた事に関しては、だが」
「え?」

 華音の姿で彼が歩み寄って来て雷は反射的に後退るも、背中に扉がぶつかって逃れられなくなった。その間に彼は懐に入り、雷の細い顎を掴んだ。

「イカズチと言ったか。お前の言う通り、私はカノンではない」

 相手の方が身長が低く見上げられている構図なのに、見下されている様に雷には思えて身震いした。
 彼は雷を解放し、一歩下がって2人を視界に入れた。

「私はオズワルド・リデル。別次元の鏡崎華音だ」
「オズワルド……」
「別次元……」

 雷、刃の順に復唱し状況を呑み込もうとするが、どちらの眉間からも皺がなくならなかった。
 オズワルドは目を伏せ、苦虫を噛み潰した様な顔で今朝の出来事を回想する。

「あのアホ魔女が余計な事さえしなければ、こんな面倒な事にはならなかった」