
気付いたら勝手に身体が動いていた。
死を覚悟して抗う事を諦めていた土星の魔女クランは、仲間の困惑の声を耳にすると空間移動魔術ですぐさま駆け付けた。
まだそれだけの魔力と体力が残されていたのかと、1番驚いたのは本人だった。
金星の魔女ジュエルとミッドガイア王国騎士マルスの姿をした竜泉寺賢人との間に現われたクランの胸に銀色の刀身が深く突き刺さった。
「はっ……?」
賢人は目を見張った。貫いたと思った相手は、今貫いている魔女の背に隠れ血の気を失った顔で突っ立っていたのだ。
この一瞬の間に何が起きたのか理解出来なかった。
クランは後ろを一瞥し、ジュエルが無事である事に安堵した。幸いな事に騎士と魔法使い達は余程この展開が予想外だったのか、すぐに次の行動に移す気配はなかった。今のうちにと、クランは痛みを堪えジュエルに声を掛けようとした。
「ジュエ……」
「クラン! いやああぁぁっ!!」
ジュエルの甲高い悲鳴がクランの微かな声を掻き消し、静かな街中に響き渡った。
ジュエルは両手で口元を覆い、ガタガタと震え出す。この時には幼き頃の記憶が呼び起こされ、目の前に投影されていたのだ。最早、ジュエルの目には恐怖しか映らなかった。
ジュエルの父親はミッドガイア王国騎士数名に串刺しにされた。それも、幼い娘を庇って。
父親の姿を重ねたクランの表情に少しばかりの笑みが浮かび、それから開かれた口からもう2度と聞きたくなかった言葉が紡がれた。
「ジュエル……今のうちに逃げなさい」
ジュエルは耳を塞ぎ縮こまる。
「嫌よ……だって、あたし」
「貴女も魔力が殆ど残っていないでしょう? もう勝ち目はありません。一旦引くべきです」
クランから光が溢れ、存在が希薄になる。
「クラン……嘘でしょ?」
「残念ですが、私はこれで終わりです。あとは頼みましたよ」
最期に笑みだけを残し、土星の魔女クランは消滅した。血溜まりさえも残らなかった。まるで、初めからそこに誰も存在しなかったかの様に。
クランに止めを刺す覚悟は出来ていたしそのつもりだった。それなのに、鏡崎華音の心は水滴が零れ落ちた水面の様に揺らいでいた。
「土星の魔女を倒した……って事はあとは」
ちらりと俯いたままの金星の魔女を見遣る。今なら一撃で仕留める事が出来る。
ところが、先に動いたのは賢人だった。
賢人は剣を振りかぶる。
「今度こそ仕留めるよ!」
「ちょっと待っ……」
『待つっす、ケントくん!』
華音とマルス・リザ―ディアの制止の声は届かず、賢人の剣が無防備な魔女へ振り下ろされる。
だが、刃が掠める一瞬ジュエルは僅かに顔を上げて後ろへ軽やかに跳んだ。
「許さない……許さないから!」
キッとミッドガイア王国騎士を睨むジュエルのルビー色の瞳の端で透明な雫がキラリと光った。
それから集まり出した大気中のマナが時空間を歪ませ、賢人はアスファルトを蹴る。
「逃さないよ!」
軽く飛躍し振り下ろされた剣はまたしても対象を捕らえる事は出来ず、賢人は舌打ちした。
別次元の騎士と魔法使い達には金属性の魔力はもう感知出来なくなった。
『容赦ないな、あの男』
今まさに華音が思っていた事をポツリとオズワルドが呟き、華音は小さく頷いた。
『人間と大差ない姿形の相手をよく平気で斬れるものだな。まさか牢に捕らえられていたと言うのもそれが関係しているのか……?』
「ろ、牢?」
華音が不安げに訊き返すが、オズワルドは『時間だ』と一言残して華音の中から消えていった。
桜花、賢人も同じく別次元の自分の魂が出て行き、元の姿へと戻った。各々が持っていた武器も動物形態へと戻り、好き好きに動き始めた。
桜花は店のロゴの入ったエプロンを着用した青年を見るなり、元々まん丸の目を更にまん丸にした。
「あれ? コーヒーフラッペの……」
賢人はニコッと笑うと、2人に歩み寄って来た。
「やあ、どうも。商品買ってくれてありがとうね」
「あ……ごめんなさい。まだ飲んでないの」
桜花が申し訳なさそうな顔をするが、賢人は全く気にした素振りを見せず笑っていた。先の戦闘が嘘の様な好青年と言う印象だった。それが逆に不自然で、華音はゾッとした。
「仕方ないよね。急にこんな事になっちゃったし。今度うちの店に是非来てよ。美味しいコーヒー煎れてあげるからさ」
「ええ。わたしコーヒー好きだし」
「じゃ、これ。まだ渡してなかったよね」
賢人はエプロンのポケットから竜泉寺珈琲店の名刺を2枚取り出し、桜花と華音に手渡した。
桜花は名刺に目を通すと、未訪問の地を想像して顔を輝かせた。
「へぇ~こんな所にお店があるのね。ちょっと遠いけど、お父さん誘って行ってみよ」
「そこは隣のイケメンくんを誘うべきなんじゃない?」
賢人に視線を向けられると、華音はまた鳥肌が立った。
「その手があったわね。でも、お父さんもコーヒー好きだし……あ、そうだ。3人で行けばいいんだ! ね、華音! ……華音?」
桜花が見た華音の表情には穏やかさはなく、疑念を孕んだ瞳に目の前の好青年を映していた。
華音の視線を受け取りつつも、賢人の顔には笑みが残っていた。
「……どうしたんだい? そんなに恐い顔してさ」
「竜泉寺賢人……さん。貴方も魔女を倒す役目を代行しているんですね」
「そうだよ。マルスさんに頼まれてね」
「魔女を倒す事に抵抗はないんですか」
「決め付ける様な物言いだね。まあ、その通りだよ」
平然と肯定した賢人に、華音は更なる嫌悪感と恐怖を覚えた。オズワルドが零した言葉も手伝い、快楽殺人犯ではないかと疑い始めた。それならばこれ以上関わらない方が身の為だと思うも、先の光景が――クランを刺し殺した上、それを嘆く無抵抗なジュエルをも手に掛けようとした――が脳裏から離れず、正義感の為に彼を批難した。
「魔女だって生きてる。感情も痛みもある。それなのにあれはあんまりだ」
「君は甘いね。こう言うの向いてないと思うんだけど、別次元の立場が宮廷魔術師様じゃ仕方ないか。でもさ、考えてもみなよ。魔女達はこっちの無関係な人達の命を無差別に奪ってるじゃない。それは誰かにとって掛け替えのない人だったりする訳だからさ、許せないよ」
「まさか、貴方の……」
華音の目が嫌悪から同情に変わると、賢人は苦笑して首を横に振った。
「違う違う。ごめんね、そんな感動的展開じゃなくて。僕の家族も恋人も元気だよ。ただ、恋人は連絡しても既読無視だけどね」
それはそれで問題では……と華音は心の中で呟いた。
「まあ、とにかくさ。感情も痛みも無視して好き放題している魔女達を倒すのが僕達の役目なんだから、割り切らないとホントしんどいだけだよ? 君達はまだ子供だから難しいかもしれないけどね」
賢人は笑った。ただそれは年下を案ずる年上の慈愛溢れた笑顔だった。
そんな彼の姿に、華音が抱いていた先程までの嫌悪感は薄れていった。
魔女に対しては無慈悲な一面を見せるものの、竜泉寺賢人は篤実で他人に慕われるタイプの人間だった。
「あぁ、そうそう。オズワルドさんやドロシーちゃんから聞いたと思うけど、自分の口で自己紹介させてよ」
賢人は自分の胸に手を当て、軽く頭を下げる。
「僕は竜泉寺賢人。老舗珈琲店の息子でたまに店の手伝いをしているフリーター。最近出所したとこ。てな感じかな。アイドルじゃあるまいし、年齢と趣味は割愛していいよね。じゃあ、2人の事も教えてもらっちゃおうかな」
華音と桜花は顔を見合わせ無言の状態が数秒続くと、華音が賢人に視線を戻して口を開いた。
「オレは鏡崎華音、」
「最初は華音くんね」
近い。
賢人の顔が非常に近くにあり、長身の彼に見下される状態に華音は思わず言葉を呑み込んだ。
この感覚、前に何処かで味わった事がある。全身がゾワゾワ粟立つ感覚……。
本能から逃げようとしたがもう遅く、素早く抱き寄せられて唇を奪われた。
目の前で突如繰り広げられたドラマの様なワンシーンに、桜花はきょとんとした。
小さな足音と羽音が慌ただしく近付いてくる。
口内を無遠慮に舐め回した後、賢人は華音を解放して恍惚とした顔で舌舐めずりをした。
「ごちそーさま。凄く繊細な味で美味かった。これまで僕がキスした中で1番――――いてっ」
2体の使い魔が賢人に襲いかかった。ゴルゴが脳天を啄み、煉獄が脛に猫パンチをお見舞いした。
「いてーって。何だよ、君達は。僕は何も悪い事してないでしょ」
賢人に反省の色はなく、使い魔達の攻撃は激しくなるばかりだった。一方のマルスの使い魔は知らん顔で、マンホールの蓋の上でじっとしていた。
追い払おうにもそれは叶わなかったので、賢人はその状態のまま真剣な顔で語り出した。
「鏡崎華音、鏡国高校に通う2年生。1年の頃から成績は常に学年トップ。但し、美的センスに欠ける為に美術は最下位。誕生日は10月7日……って、今月誕生日だったのか。おめでとう。17歳になったんだね。血液型はA。あぁ、君のご両親ってそうなんだ。鏡崎家具って有名だよね。でも、そうか……小学生の頃は大変だったんだ。……まあ、それは今で」
「いきなり何するんだよ!」
ゴスッ。
「うぶっ」
華音の見事な右ストレートが賢人の顔面にキマった。


