『月の魔女だ』

 オズワルドの声に立ち止まり、視線を上にやると、電柱に金髪ツインテールの、肩に白兎を乗せた小さな女の子の後ろ姿があった。
 あの子が魔女。内心はそう思ったが、エルフはある程度成長すると、それ以上成長しなくなり、老いる事もなくなるらしい。つまりは見た目と実年齢は全く別なのだ。
 捕まえようと無意味に手を伸ばしたその瞬間、魔女はそこから身を投げた。
 驚いた華音だったが、逆さになりながら落ちてゆく魔女がこちらに顔を向けた事に、更に驚いた。
 魔女の幼い顔が満面の笑みを作る。

「やっぱりオズワルドだぁ」

 華音はぎくりとした。咄嗟に身構えるが、魔女は地面に辿り着く前にパッと姿を消した。
 魔女が居た場所を見つめ、華音は心臓を押さえながら息を吐いた。
 もう魔女の気配はない。
 オズワルドの憑依が解け、杖も烏へと戻って空中を羽ばたいていった。
 結局、今回も魔女を捕まえる事は出来なかった。
 だが、初めて魔女を目撃出来たのだから大きな前進と言える。少なくとも、この地域には月の魔女が居る事は明らかとなった。
 その後は落とした本を拾いに行き、自宅のリビングで水戸の淹れてくれた紅茶を飲みながら静かに読書して過ごしたのだった。


 制服に着替え終えた華音は通学用鞄を持ち、洗面所へ向かった。
 顔と歯を洗い、鏡面に映る魔法使いと会話をするのが日課となっていた。
 今朝も、オズワルドは余裕のある表情を浮かべている。その顔に、華音は日頃抱えていた不満をぶつけてやる。

「そういえば、ゴルゴの事大切にしてやれよ」
「ゴルゴ?」

「いくら使い魔だからって、扱いが雑なんだよ。朝だろうと、夜だろうと、飛び回らせるし。休む暇ないじゃないか」

 瞬間、オズワルドは失笑した。かと思えば、腹を抱えて笑い始めた。
 華音は馬鹿にされた気がして、頬を紅潮させて眉を吊り上げた。

「お前、何がおかしいんだ。真剣な話してるのに」
「いや、だって、お前っ……ゴルゴって! くくく」

 オズワルドの声は終始震えていて、最終的に笑いに変わった。
 華音は握り拳を鏡面のオズワルドにぶつけ、顔を近付けた。

「お前が名前付けてないって言うから、オレが付けたんじゃないか。ゴルゴンゾーラ……略してゴルゴって」
「ゴルゴンゾーラ。青カビのチーズか! まさか、青みがかっているから? くくく。カノン、お前ネーミングセンス皆無だろ。絵だけじゃなく、これも悲惨だ。可哀想に」
「黙れ。お前、いつの間に、オレの絵見たんだよ」
「使い魔……いや、ゴルゴだっけか? くくく。そいつが見たものが私に送られてくるのでな。あんな絵描けるの、世界でお前だけだぞ。ある意味、芸術だ」
「この鏡がなければ、お前の首絞めれるのに……!」

 オズワルドの首に手の平を広げるが、鏡の固い感触を得ただけだった。

「華音く――ん?」

 向こうから、水戸の声が響く。
 華音は鏡の前から離れ、オズワルドを睨みつけてから足早に洗面所を後にした。


 普段より少し遅い登校だったが、朝礼には間に合った。
 何よりも長かった筈の校長先生の話は、一欠片も記憶に残っていないまま、流れる様に一限目の授業が始まり、今はもう下校の時刻となっていた。
 クラスメイトがまばらになった教室内に、華音は親友2人と残っていた。帰り支度を整えながら、雷の誘いに耳を傾ける。

「土曜日さ、駅前のショッピングモールに行かねーか? 妹と弟が鏡崎と行きたがってる」
「ん? いいけど……」
「雷、俺は俺は~?」

 刃がズイっと、顔を出し、華音と雷は同時に顔を顰めた。
 雷は手で払う仕草をする。

「お前、妹と弟に変な事教えるから嫌だ。てか、その日は約束があるんだろ?」
「変な事なんて教えてないし~。そうだった。隣のクラスの西野達とカラオケ行く約束してたんだっけな。くそ~俺も華音ちゃんと休日デートしたかったなぁ」
「そう言う発言するから、妹と弟に変な誤解をされるんだよ」

 額を押さえる雷に、溜め息をつく華音。その要因を作った本人は軽い鞄を肩に担ぎ、平然と席を立った。

「さてと! 今日は新作フィギュアが入荷されてる筈だし、ゲーセン寄ってこうぜ」

 華音と雷も鞄を持ち、仕方ないなと半ば諦めて刃の後を追った。


 駅直結の大型ショッピングモールは、休日とあって沢山の人で賑わっていた。大きく口を開けた自動扉に、皆吸い込まれていく。
 自動扉を潜った先には早速店舗が軒を連ね、その間にある通路はとても広く、ベンチと案内板が設置されていた。
 華音は案内板の横に立って居る2人の小学生連れの、ラフな格好の色黒少年に駆け寄った。

「雷!」
「鏡崎!」
「華音だ!」
「華音ちゃんだぁ!」

 手を挙げる雷の後ろで、彼によく似た少年と少女が嬉しそうな顔で華音の周りに群がった。
 名前で呼ばれた事に少し引っかかりがあるものの、子供にいちいち怒る程華音は子供ではない。教師やクラスメイトによく見せる人当たりの良い笑みを、彼らに向けた。

風牙(ふうが)に、(めぐみ)、久しぶり」

 2人は色黒な肌から見てとれるように、雷の兄弟だ。
 細い黒髪を肩で切りそろえた赤いワンピースの、眩しい笑顔の少女が11歳の妹、雨。剛毛な黒髪の半袖半ズボンの、やんちゃな少年が9歳の弟、風牙である。華音は前から2人とは面識があり、特に何かした訳ではないが好かれている。
 嬉しそうな妹と弟の姿に、雷も嬉しそうだ。

「そんじゃ、行こうぜ」
「ああ。風牙と雨も」

 雷が歩き出し、華音も風牙と雨を引き連れて歩き出す。こうして見ると、華音も高木一家の一員になったみたいだ。
 店内は広く、人が多い。小さな2人が人の波に攫われない様、華音と雷は注意して進んで行く。
 客のざわつきや、店員の「いらっしゃいませ」に混じり、店内アナウンスが流れて来た。
 どうやら、3階のイベントスペースにてバルーンアートをやるみたいだ。子供が好きそうだなーと華音が考えていると、案の定、同行者の2人が目を輝かせていた。
 雷は苦笑し、華音に目で「いいか?」と訊く。期待一杯の子供の手前、あっさり断る事も出来ないし、断る理由もなかったので、華音は迷わず了承した。
 4人は人混みを抜け、中央エスカレーターから3階へと向かう。
 3階のイベントスペースは、想像以上に人集りが出来ていた。奥で、三角帽子にマントと言う魔法使いを模した格好をした青年が、器用な手つきで細いバルーンを操っていた。青年の手によって、ピンクのそれはあっと言う間に子豚に生まれ変わった。周りで歓声が上がり、青年が子豚バルーンを最前列の女の子に渡すと、更に盛り上がった。
 楽しげな空気に居ても立っても居られず、風牙と雨は人混みを掻き分けて最前線へ躍り出た。
 華音と雷は最後尾で待っている事にした。
 子供を笑顔にする魔法使いの方が、魔女を倒す魔法使いよりも良いと思ってしまう。

 まあ、オレは芸術センスないから無理だけど。オズワルドにも馬鹿にされたし。

 月曜日の事を思い出すと、無性に腹が立って来た。
 華音の苛立ちを肌で感じ取った雷は、眉を下げて華音を見た。

「ごめん。アイツらは俺が見てるから、鏡崎は好きなとこ行ってていいぜ?」
「あー。そうじゃないよ。こっちの話」

 華音は何でもない風に笑い返した。

「どっちの話だよ。最近のお前、ちょっと変だからさ。何か悩んでんなら聞くぞ」
「……変。うん。悩みはそりゃ、あるけど。皆あるものだし」
「そうだけど。鏡崎って昔っから、何でも完璧にこなそうとする上、他人を頼ろうとしないからな。時々、壊れちまわないか心配なんだよなー。って、何かガチすぎてハズいわ。はは。ごめん、忘れて」

 雷はそっぽを向いてしまった。

「オレは……人として当たり前に出来る事を、当たり前にこなしているだけだから。何も特別なんかじゃない。完璧になろうとしている訳じゃないし、完璧なんかじゃないよ」

 淡々とした華音の声に、雷はつい、視線を元に戻した。

「鏡崎。お前のその考え方は、やっぱりおふくろさんの……」
「母さんは関係ない」

 声だけでなく、表情にも色が失われていた。
 華音にこの手の話は禁句だったかと今更後悔する雷だが、口から出てしまった後ではもう遅い。
 自然と、空気は静まり返った。このざわつきの中で、2人の居る空間だけが冷え切った。

「あー! お兄ちゃんと華音ちゃん、ラブラブだぁ」

 人混みの中から、よく通る声が聞こえたかと思うと、白うさぎのバルーンを手にした雨が走り寄って来た。
 華音と雷は特に疚しい事がある訳ではないが、ギクリとした。
 雨の台詞を飲み込み、意味を理解した華音が苦笑いで否定しようと口を開くと、追い打ちをかける様に風牙がやって来た。手にはライオンのバルーンを持っていた。

「お似合いだぜっ!」

 雨は頬を紅潮させて大きな瞳を輝かせ、風牙はニヤニヤと茶化す様な笑みを浮かべていた。
 子供の冗談だとは分かっていても、こればかりは否定しなくてはと、もう一度華音は口を開いた。

「そう言うのは、男性と女性の仲の良いペアに対して言うものだよ。オレも雷も男同士だから、その表現は違うよ」
「じゃあ、合ってるよぉ?」
「何処が?」

 丁寧に説明をした筈が、雨はさも華音が間違っている様な純粋な顔で小首を傾げたので、華音は訳が分からない。

「だって、華音ちゃんは訳があって、男の子のフリをしている女の子なんでしょう?」
「…………?」

 本気で訳が分からず、華音は眉根を寄せるばかりだ。

「確かに名前は男っぽくないけど、見た目はどう見たって」

 同意を求め、雷を一瞥すると、彼は申し訳なさそうな顔をしてあさっての方向を向いてしまった。見た目も、ボーイッシュな女の子で通りそうな中性的な外見の華音をフォローする言葉が浮かばなかったのだ。
 華音は諦めて、自分で雨を説得させようと努めた。

「とにかく。何を勘違いしたか分からないけど、オレは男だよ。現実で性別を偽るのは難しいと思うし……」
「そ、そうだね! これは秘密にしてあることだから、こんなところで言っちゃダメだったよね! ごめんなさいっ」

 雨は目をギュッと瞑って頭を下げた。華音の必死の弁解は無意味だった。

「いや? だからね?」
「そんなに言うなら、しょーこを見せろぉ!」

 今度は風牙が話に入って来て、華音の水色の七分袖パーカーの裾を乱暴に掴んだ。反動で、華音は少しよろけた。

「証拠って何。キミ達はオレをどうしたいの?」
「脱げ!」
「はぁ!?」

 急に風牙がパーカーと黒のインナーを引っ張り、インナーとジーンズの間から白い肌がちらちら覗いた。
 華音は風牙を引き離そうと身体を後ろに捻って、その小さな肩を掴んだ。

「もう好きな様に思ってくれていいから、やめてくれ。風牙」
「そんなこと言ってごまかしても、おれはだまされねーぜ!」

 益々風牙の力が強まった。
 抵抗が叶わない華音の姿に、さすがの兄も動き出す。
「風牙」と声を掛けたが、事態の急変に言葉を飲み込んだ。
 一瞬だけ腰の上辺りまで肌が露になった時、明らかに華音の表情が凍りついたのだ。次の瞬間には、華音が力ずくで風牙を引き離していた。風牙は反動で尻餅をついた。

「ほんっとに……やめてくれ」

 前髪で隠れた顔から発せられた声は、消え入りそうな程に脆く、懇願している様だった。これまで見た事のない華音の様子に、風牙も、雨も、雷も言葉を失い、唯瞬きを繰り返した。
 自分達の世界に居た周りの客達も、1人、また1人と華音達の様子を覗い始めた。
 華音は周囲の注目を浴びている事に気付くと首を横に振って顔を上げ、何でもない風をして笑った。

「って、冗談冗談。ごめんね、風牙」

 風牙に手を差し伸べて立ち上がらせた。
 事態が収束すると、周囲は興味をなくして、また自分達の世界へと戻っていった。
 風牙も雨も、華音の言動を真に受けて笑顔を取り戻したが、唯1人、雷は華音の嘘に気が付いて複雑な感情を抱いた。
 華音のあの様子は、紅潮ではなく蒼白だった。まだ年頃の少年らしく、羞恥心を抱くならいい。だが、そうではなかった。知られたくない事を知られそうになったかの様で。それこそ、男の子のフリをした女の子の様で。
 華音が同性である事は知っている雷だが、体育の着替えをしている姿を1度も見た事がない事に気付いた。
 華音の言った様に、異性として偽って生活するのは現実的に難しいので、その可能性はないとは思うが、華音に雷の知らない秘密があるのは確かだ。
 しかし、人には親しい間柄でも踏み入ってはいけない部分がある。
 雷は何も聞かず、風牙の首根っこを掴んで無理矢理頭を下げさせた。