スペクルム カノン

 ゴトゴトと馬車が揺れる。身軽なオズワルドは座席から腰を浮かしかけるも、隣の男にすぐさま支えられて元の位置に戻された。
 男はオズワルドの肩を抱いたまま、耳元で優しく語りかけた。

「もうすぐ着くからね」

 黒のロングコートに黒のシルクハット、グレーの頭髪に口髭と言う男の格好は良い暮らしを思わせた。現に、彼は大金を払いオズワルド・リデルを()()()のだ。
 当時からハーフエルフは珍しく、運悪く闇商売の者に見つかってしまったオズワルドは即競売にかけられ、見事この男――――デリック・ソープ・アンダーウッド男爵に競り落とされたと言う訳だ。
 買われた時点で全く良い気はしなかったものの、この時はアンダーウッド男爵の表の顔に欺かれて最悪の結末を想像していなかった。
 馬車が止まると、オズワルドは男爵に支えられながら馬車を降りた。

「此処が私の屋敷さ」

 男爵が誇らしげに視線を向けた先には、オズワルドがこれまで見た事のない大きくて立派な建造物がずっしり構えていた。
 十分縦にも横にも広いのに、奥行きも相当あった。
 ディープグリーンの外壁に沢山の窓が取り付けてあり、真正面の重厚な両開きの扉が出入り口だった。
 男爵はオズワルドを連れて、両脇に控えていた使用人らに扉を開けさせると堂々と中へ足を踏み入れた。
 総勢20人の使用人に出迎えられ、赤い絨毯の上を歩いて行く。主が通り過ぎると、彼らは主には聞こえぬ声で囁き合う。

「まさか、ハーフエルフ?」
「ついに良い玩具を手に入れたわね」
「凄く綺麗な子なのに可哀想」
「前の奴隷は大人になったから始末したそうよ」

 オズワルドは眉を潜めた。

 彼らは一体何の話をしているのだろう?


 シャンデリアの揺れる長い廊下を通り過ぎて行き着いたのは、突き当たりの扉の前。周辺には人の気配はなく、扉には厳重に鍵が掛けられていた。まるで、秘密の部屋だ。
 男爵は懐から取り出した鍵で手際よく錠を外すと、オズワルドを引き連れて入りまた内側から鍵を掛けた。
 内部は暗く、物の輪郭すら分からない。
 ここでも男爵は手慣れた様子で傍らの壁に触れ、そこに施されていた魔法陣を起動させた。目映い光が放たれ、それが全体を包み込むと一瞬のうちに辺りは昼下がりの草原の様に明るくなった。
 すると、目の前には下へ続く階段があった。先程の廊下と比べて薄汚れてはいたが、最近まで使われた形跡が残されていた。
 立派な外装に内装を見せつけられた時、ほんの少しでも期待した自分が愚かだった。そう、自分はハーフエルフ。忌み嫌われる存在。隠しておかなければならない。だから、母と叔父と暮らした家でも、地下で過ごす事が多かった。
 階段を下って行くと、またそこにも鍵付きの扉があって男爵が錠を外して開いた。
 男爵に促されるまま、先に室内に足を踏み入れたオズワルドはありふれた様相にこれといった感想が思い浮かばなかった。
 頼りないランプが天井からぶら下がっているだけの仄暗く窓のない無機質な空間ではあるが、ちゃんとベッドは設置されていたし、半分程開いた扉の向こうにはバスルームも見えた。これで食事を用意してもらえれば、必要最低限の生活を送る事が出来る。

「さあ、此処が君の新しいお家だ」
「…………」

 オズワルドは闇商売の者に捕まって以来、1度も声を発していなかった。話すべきではない相手だと思って警戒をしていた。
 構わず、男爵は室内をゆっくり歩きながら続ける。

「温かくて美味しいご飯は毎日使用人が届けてくれるから安心したまえ。君の好みがあれば料理人に作らせよう。あぁ……いつまでも君じゃいけないね。名前を付けてあげないと」

 男爵はオズワルドのもとまで戻って来ると、にっこりと笑った。

「ルイス。今日から君はルイスだ」

 まるで、これでは……。
 けれど、この時でさえオズワルドは声を発しなかった。何と呼ばれようとどうでもよかったのだ。
 それから男爵はオズワルドの肩を抱いてベッドまで案内する。

「な、何をする……」

 此処で初めて、オズワルドは声を発した。さすがに動揺せざるを得なかった。服を脱がされ、右足首に鎖が繋げられては……。
 もうオズワルドは逃げられなくなった。名前と鎖、精神的にも肉体的にも縛られて。
 まるで、これでは……奴隷。

「顔だけでなく、体も綺麗だ。私はね、ずっと探していたんだよ。永遠の美しさを持つ君の様な少年をね」

 恍惚とした顔でそう語った後、男爵は服を脱ぎ捨てて嫌がるオズワルドをベッドに押し倒して思う存分愛でた。
 男爵は男色家で、特に10代の成長途中の少年を好んだ。妻子には内緒で地下に捕らえては愛でていたが、どれも20歳を過ぎれば醜く思え自ら殺害して裏庭に埋めた。これまで15人の少年が犠牲となった。
 そんな中、16人目となったオズワルドは男爵にとっては最高の性奴隷だった。16歳と言う見た目でありながら実年齢の異なる彼は、これからもずっと美しいまま。しかも、ハーフエルフと言う物珍しさから優越感に浸る事が出来た。貴族にとって価値のあるものを手にする事は名誉な事なのだ。勿論、自分だけのものにする為に公言はしないが。
 そして、これがオズワルドにとっては地獄の始まりだった。


 名前と鎖で既に雁字搦めなのに、物足りなかったのか男爵は卑猥な唇でオズワルドの白い肌にも毎度の様に印を残した。
 男爵は普段忙しく毎晩は訪れなかったが、週に1度はやって来てオズワルドの心と身体を穢していった。
 こんな生活が続くと、次第に心は壊れていった。ベッドの上で膝を抱え、天井を見つめている時間が多くなった。
 最初のうちは抵抗したり逃走を図ったが、どちらも失敗に終わってしまった。
 こうなれば、男爵が死ぬまで耐えるしかない。早くて40年、或いは不慮の事故や病気であればもっと早く。それまでに心が保てばいいが、数年でこの状態の彼には厳しかった。
 凍てつく程の寒さが全身を包み込み、心までも温度が下がっていく。涙も凍り付いてしまったかの様に、今では一滴も零れ落ちない。
 辛いのか、悲しいのか、それすらも分からなくなり始めていた。

 一体オレは何の為に生きているのだろうか。

 膝に頭を埋めて目を閉じる。
 すると、脳内に悲しい旋律が響いて来た。母がよく歌っていたエルフ語の恋歌。オズワルドは無意識のうちにそれを口ずさんでいた。

 ――――揺れる水面に映る影 君を捜して彷徨う
     月影が照らす道標 星の歌に誘われて
     忘れられない君の声
     たとえ君が僕を忘れてしまっても
     僕はずっと憶えている
     
 カチャリと扉が開いた。目映い光を背に男爵が立っており、オズワルドは口を閉ざして顔を埋めようとした。しかし、そうせずとも男爵は自ら彼の視界から消えた。
 ドサッと前のめりに倒れた男爵。背には氷の刃が幾つも突き刺さり、そこから鮮血が流れ出していた。
 オズワルドは目を白黒させ、蠢くスレンダーな人影を捉えた。

 誰か居る……?

 それは男爵の後方より現われ、その亡骸をヒールで無慈悲に踏み付けて室内へと侵入して来た。
 女だった。髪は海の様に青く腰まで穏やかに流れ、瞳は対照的な燃える様な赤。顔立ち、体付き、所作、雰囲気、その全てに妖艶さが感じられた。そして尖った長い耳を持っていた。
 扉は亡骸がストッパーになって開いたままで、仄暗かった室内を明るく照らした。
 オズワルドは近付いて来る女を見つめたままベッドの上から動けずにいた。無論、鎖で繋がれている為物理的に動く事は叶わないのだが、仮に鎖がなくとも恐怖或いは畏怖で動けない事には変わりなかっただろう。

「街を歩いていたらエルフ語の美しい歌が聞こえて来たので来たのだが……。エルフかと思えば、半分は人間……。ハーフエルフか。珍しい」

 女はベッドの脇に来ると、ハーフエルフの足に頑丈に絡み付く鎖に一瞬眉を潜め、右の手の平を突き出す。すると、そこから水が噴き出して鎖を粉砕した。

「お前、それだけの魔力を持っていて魔術も使えないのか?」

 数年ぶりに自由になった右足首を手で擦るオズワルドに女が率直な疑問を投げかけると、彼は微かに首を縦に振った。

「……それもそうか。この様な場所に監禁されていたのだから。魔術が使えたのならとっくに逃げているか」

 女は外套を脱ぐと、優しく労る様に哀れなハーフエルフの細い肩に掛けた。

「私の息子も生きていたらお前ぐらいだっただろうな……」

 顔を上げたオズワルドが見たのは、息子を想う母親の顔をした女だった。何処か、実母にも似ている気がした。
 オズワルドは女から視線を外し、ギュッと外套を身体に巻き付けた。

「何で、ミッドガイアにエルフが居る」

 久しぶりに発した言葉は、何処か不機嫌だった。
 決して恩人に対する態度ではなかったものの、女は表情1つ変えず親切に答えてくれた。

「あぁ……人間の国でエルフを見るのは珍しいか。未だに啀み合っているからな。何故此処に居るのか、か。そうだな……」女は天井を見上げ、そこに己の理想を思い描いた後オズワルドを見て苦笑した。「この世界を変える為、かな」

 世界を変える。

 こんな小さな世界ですら自ら変える事が出来なかったオズワルドにとって、途方もない話だった。
 オズワルドは少しの間だけそれについて考えてみたが、すぐに飽きて現実を見た。女の素性、名前でさえ、そもそも興味が持てなかった。どうでもよかった。
 女は背を向ける。

「さて、私は失礼させてもらおうか」

 そう言って歩き出す。

「……せっかく鎖は切れたんだ。何処でも自由に行くといい。だが、生き残る為にはまず魔術を使える様になる事だ。そうしなければ、また同じ目に遭うだけだ」

 女の姿が完全に見えなくなると、オズワルドは静かに両足を床に下ろした。それから慎重に一歩を踏み出し、二歩、三歩と進むと、全身が感動で震えた。
 何処へ行ったらいいのか分からない。けれど、此処に居る必要はなくなった。何故なら自由だから。
 男爵の亡骸を踏み越え、階段を上がって屋敷から出る。
 数年ぶりに出た地上は眩しかった。