道端で倒れている中年女性、中身の本がはみ出した状態で転がる書店の紙袋、響く足音、獣の唸り声……。つい、数分前までは平和な昼下がりだった。
駅前の書店へ足を運んだ鏡崎華音は冒頭を読んで気に入った文庫本を購入し、帰路をのんびり歩いていた。道中、中年女性に出逢い、道を訊かれた。快く答えていると、突然と女性が倒れ、その背後には黒い影の様な身体に、赤い双眸の野犬の様な風貌の魔物が居た。
魔物は次の獲物である華音に飛び掛り、華音は真横へ飛び退いた。拍子に抱えていた紙袋が落ちた。
先程まで華音の頭上を羽ばたいていた青みがかった烏の使い魔は、華音の横へ降り立って強風を巻き起こす。
魔物は吹き飛び、電柱に背中をぶつけて崩れ落ちた。この隙に、華音は使い魔を引き連れて走っていった。
「魔物って、昼間も現れるのか。それより、鏡……」
辺りを念入りに見渡すが、そもそも、屋外に鏡はない。あったとしても、手の届かない高さにあるカーブミラーぐらいだ。魔物の動きを読んで攻撃を躱す事が出来る様になっても、戦う術を得た訳ではない。魔物を倒すには使い魔の一時凌ぎの技ではなく、鏡の向こうの魔術師の魔術でなければならない。鏡にさえ触れる事が出来れば、その力を得る事が出来るのだが……。
欲しい時に欲しい物がないと言う事は、よくある事だ。それ故、もどかしい。そして、焦れば焦るだけ、目的の物は遠ざかってゆく。
華音は出来るだけ冷静になる様に務め、そのおかげで目的の物が近付いて来た。
道路脇に駐車された乗用車。しかし、近付いてみて愕然とした。サイドミラーが景色を映していない。
畳んでおくなよ。
心の中で持ち主に八つ当たりした後、車の横を通り過ぎた。
背後から、魔物の気配と足音が聞こえた。どんどん距離が詰められ、追いつかれるのも時間の問題だ。一層焦りを感じた。
電柱を何本か見送ったか分からなくなった時、また目の前に駐車された乗用車を発見した。今度は、サイドミラーがばっちり開いた状態だ。
華音は小さなスペースに映った別次元の自分――――オズワルド・リデルと手を重ね、光に包まれた。使い魔も、そこに飛び込んだ。
眩い幻想的な光の中、華音はオズワルドと対面する。オズワルドはいつもの自信たっぷりな笑みを浮かべ、華音の両肩を掴んで重なる様に消えていった。
瞬間、華音の身体が光り、黒髪は毛先から水色へ、漆黒の瞳は琥珀色に、ボーダーのシャツと黒いデニムパンツは魔術師のローブへと変化し、手袋をした右手に使い魔が変化した青水晶の杖が収まった。
パッと辺りを包む光が消え、現実が華音の目の前に現れる。
杖を構え、唾液を振り撒いて飛び掛かって来る魔物を迎え撃つ。
横にした杖の柄に魔物がかぶりつくと、透かさず、杖を大きく振るって魔物を地面へ落とす。
魔物は地面に叩きつけられて倒れ、華音はその場でマナを集める。水の様に注がれ、溢れ出す力は泉となり、海となり、魔術となる。
脳内に、呪文が浮かび上がる。
「アクアトルネード!」
声に出せば、マナが対象の真下に魔法陣を描き、天へ伸びる水の渦を出現させ、魔物はそれに呑まれて消滅。取り込んだ生命力が空に舞った。
辺りを見渡すが他に魔物の姿は確認出来なかったので、華音は杖をだらりと下げて一息ついた。
「魔女も、たまには長期休暇でも取ればいいのに」
『おい、カノン。走れ』
突如、脳内で響くオズワルドの声。
「え? また魔物?」
言いながら、走る。
『魔女だ。南西の方角に居る』
「魔女……」
魔女とは、オズワルドの暮らす世界――――スペクルムに元々居たエルフ達の事だ。100年前に大戦争を起こした彼女らはオズワルドに負け、1人の魔女を失った。しかし、その魔女が華音の暮らす世界――――リアルムに既に転生していると言う。それを知った8人の魔女は精霊を取り込み、その力で、越えられない次元を越えて9人目を迎えに来た。そして、本当の目的はその先にあると思われるのだが……。
華音は成り行きで、次元を越えられないオズワルドに代わり、魔女達の目論見を阻止する事となった。
初め、オズワルドに代行を頼まれた時はすぐに返答出来なかったが、魔物が町に現れて倒していく度、華音の中でこれがいつの間にか日常となっていた。未だにオズワルドへの返答はしていないが、現状こそが答えだ。
繰り返す戦いの中で華音は格段に成長し、最初の頃によく作っていた傷は今では殆どない。しかし、疲労だけは相変わらずなので、連戦があった次の日はぐったりしている。
魔法の事や別次元についても、オズワルドに更に詳しく教えてもらった。
スペクルムには人間を始め、エルフ、竜族、獣人、妖精、小人などの多種多様な種族がそれぞれの国を持って暮らし、中でも一番栄えているのが人間の国であるミッドガイアだ。王都ヴィダルシュの城に、オズワルドは宮廷魔術師として仕えている。多少の種族差別はあるものの、平和だった――――8人の魔女が再び現れるまでは。
リアルムとスペクルムの違いは種族や文化もあるが、一番の違いは魔力を持っている者が存在するかどうかだ。リアルムはごく希に魔力を持つ者が居て、『超能力』と言い換えているのだが、一方のスペクルムはエルフや龍族や妖精は勿論の事、一部の獣人や小人、人間だって魔力を持っていたりする、魔法世界なのだ。
魔力とは即ち、大気中に漂う魔力源を集め、魔術へと変換する力の事だ。魔術を自在に操る者を魔術師と呼び、魔術師は大きく分けて攻撃型と補助型の二種類存在する。オズワルドは言うまでもなく前者だ。これは努力すればどうにかなるものではなく、生まれ付き決まっているもので、エルフや竜族の多くは攻撃型、妖精は補助型が多いと言う。ヴィダルシュ城に居る補助型の魔術師らは皆人間であり、攻撃型は現在オズワルド唯一人だ。
マナには火、水、風、地、雷、樹、金、月、光、闇の属性があり、自分の魔力で操れるマナは一つだけで、これも生まれ持ったものだ。補助型は例外なく月属性しか持たず、同じ癒しの力を持つとされる光属性は確認されてはいるが、扱える者の目撃例があまりなく、また、対となる闇属性も同じだ。
各属性マナは天体から、地球上にある扉を通じて送られてくる仕組みとなっている。火星からは火属性、水星からは水属性、天王星からは風属性、土星からは地属性、冥王星からは雷属性、木星からは樹属性、金星からは金属性、月からは月属性、ホワイトホールからは光属性、ブラックホールからは闇属性。全ての天体にマナがある訳ではなく、現在扉が繋がっているのはこれらのみだ。扉を護る精霊が魔女らに囚われている状況下にあるが、扉を閉めると魔女自身も魔術を扱えない為、常に解放状態で、おかげでオズワルドも魔術を扱う事が出来る。
魔術についての説明を受ける最中、華音は日頃疑問に思っていた事を幾つか投げかけた。
1つは、魔物を倒さずに追跡すれば魔女のもとへ辿り着けるのではないかと言う事。これは最もな意見で、オズワルドも予め用意していた返答を口にした。
生命力を奪った魔物は必要な分の生命力2~3個を取り込んだ時点で、時空間魔法で魔女のもとへ向かい、その能力を持たないオズワルドでは追う事が出来なくなってしまう。魔女のもとへ魔物が戻った瞬間、取り込んだ生命力は魔女のモノとなり、永遠に持ち主に戻る事はない。それよりは、わざわざ攻撃を仕掛けて生命力を取り戻す事に専念した方が良い。
もう1つは、スペクルムの時間と住人の寿命についてだ。華音と見た目が同じなのに、オズワルドは100年前の戦争の体験談を口にした。つまり、その頃から生きていると言う事だ。もし、スペクルムの時間の流れがリアルムと違うのなら納得出来るし、そもそも、寿命が違うのならもっと納得が出来る。ところが、オズワルドは時間の流れは多少ズレがあるが、寿命は人間に関しては両世界同じだと答えた。
じゃあ、オズワルド・リデルと言う人物を説明する為に必要な事は? オズワルドとは何者なのか。内心問いただしたい気持ちはあったものの、自分も身体の火傷の事など、詳しく話せていない事があるし、安易に気持ちを表に出す事は出来なかった。
電柱の上に、年端もいかぬ少女の後ろ姿があった。二つに結った金の長髪が風に揺れ、フリルたっぷりのケープが翻る。
『月の魔女だ』
脳内でオズワルドの声が響き、華音はそこからでは届く筈もないのに、必死に手を伸ばした――――。
ガシッ。
「――――捕まえた」
「えっ……?」
手の平に確かな感触を得ると同時に、戸惑う女性の声が降って来た。
華音はその感触を離すまいと、更に手に力を込めて瞼を開いた。
「えっ……?」
今度は、華音が戸惑う番だった。
華音はベッドに身体を預けた状態で、傍らに立つ家政婦の水戸ちかげの細い手首を掴んでいたのだった。
水戸の顔がサッと赤くなる。
「あ、あの……華音くん」
「あ。ごめん……」
華音もほんのりと頬を染めて、水戸の手を離して上体を起こした。
華音は水戸を掴んでいた手を反対の手で押さえ、目を伏せる。水戸も、どうしたらいいのか分からず、手を離された時の姿勢のままだ。
起きたばかりで、どうも頭が回らない。水戸の手を掴んだのは、夢と混合した為だと思われるが、それにしたって恥ずかしくて仕方がなく、まともに水戸の顔を見る事が出来ない。しかし、いつまでもこうしている訳にはいかないので、壁掛け時計に視線を移し、それで水戸が此処に居る理由が分かった。
「水戸さん、オレを起こしに来てくれたんだね」
水戸は小さく頷く。
「そうです。いつもの時間になっても華音くんが下りて来ないので、もしかしてと思ってお部屋に入らせていただいたら……まだ眠っていて。ごめんなさい。勝手に入ってしまって」
「気にしないで。オレが悪いんだし。もう起きて支度するよ」
華音がハンガーに掛けられた制服を一瞥すると、意味を察した水戸は頬を紅潮させて慌てて部屋を出て行った。
「朝ご飯、もう出来ていますので! 失礼しました!」
バタバタと階段を下りていく音が小さくなっていき、華音はゆっくりとベッドを下りて制服を手に取った。
袖を通している最中、ぼんやりと昨日の事を思い出した。