
芸術の秋……なんてものは鏡崎華音には関係ない。冬だろうが、春だろうが、夏だろうが、芸術と呼べる代物は創造出来ないのだ。
本日の美術の授業は散々だった。牛をテーマに1枚絵を仕上げると言うものだったが、何故か教師に「鏡崎くん、テーマは牛よ? それ、猫じゃないの」なんて注意されてしまった。
黒毛和牛を描いてしまったのが失敗だったか……と華音は本気で思ったのだが、そう言う問題ではなかった。
とにかく、クラス中に笑われるわ、親友達にネタにされるわ、鏡の向こうの魔法使いに馬鹿にされるわで大変な1日だった。
更に、止めは熱心な美術教師からの特別授業が待っていた。彼女曰く「コツを掴めば、猫じゃなくなる!」のだとか。
帰りのホームルームが終わった途端に美術教師が迎えに来て、半ば引き摺られる様にして本日2度目の美術室へ。
そこで美術の基礎をみっちり教えられ、帰りが遅くなってしまった。成果は勿論なかった。
もう季節は10月上旬。夜風はやや冷たい。春先まで大活躍だったブレザーがまた役に立つ。
華音は辟易しながら1人きりで帰路を辿る。
高木雷は家の手伝い、風間刃はアニメグッズ予約、赤松桜花は女友達と寄り道……と言う訳で1人なのである。
辺りはすっかり暗いが、時間にしたらまだ18時を回った所だ。だから危機感はなかった。それに、自分は男子高校生だ。襲う奇人などいないだろう。
そんな安心感からか、隣から突如響いた羽音に必要以上に動揺してしまった。
「何だ……ゴルゴか」
隣には何食わぬ顔で使い魔のゴルゴンゾーラが羽ばたいていた。さしずめ、護衛と言ったところだった。
奇人に襲われる事はなくとも、魔物に襲われる可能性はゼロではない。ゴルゴの存在は心強かった。
「魔物と言えば……」
華音はここ数日前の事を回想する。
あれはこんな暗い道を1人で歩いていた時だった。物陰から突如魔物が現れ、ゴルゴが駆け付けて来てくれたのはいいが肝心の魔法使いの姿が何処にもなかった。
以前も城下街に行っていたとかでなかなか応答してくれなかったが、今回は訳が違うみたいで数日経ってもオズワルド・リデルが姿を現す事はなかった。
それなのに華音がこうして無事で居られるのは、魔物を倒してくれた者が居たからだ。それは桜花ではない。桜花もドロシー・メルツ・ハートフィールドが応答してくれなくて困っていた。
街灯の光だけ、しかも逆光になっていた為に魔物を倒してくれた人物の顔を拝む事は出来なかったが、背格好からして男であり剣を持っていた。
何者だったのだろうか。
まだオズワルドにはこの事は話せていなかった。
もし、今回また彼に出くわす事になれば華音に憑依したオズワルドは間接的にだが接触する事になる。その時でも遅くはないと思っていた。
カサッ……。
「魔物か!?」
つい身構えた華音だが、近くの木々が風に揺れているだけだった。
ホッと胸を撫で下ろすと、街灯の下に人影が佇んでいる事に気付いた。
背格好からして男。少し離れている為、あまり顔の詳細は分からないが髪は黒の短髪、服装は黒の長袖Tシャツにベージュのズボンと言うシンプルな格好だった。
きっと誰かを待っているのだろう。道の先をじっと見据えている。しかし、それが獲物を狙う視線だった事は華音もゴルゴも気付かなかった。
当然、華音は見知らぬ青年の横を通り過ぎる。
「ねえ、ちょっと君」
だから、突然呼び止められて驚いた。
華音は取り繕い、顔に笑みを貼り付けて振り返った。
「はい? 何でしょう」
「綺麗だね」
「はい!?」
青年の顔が思ったよりも近くにあり、また発言にも衝撃を受け、華音は反射的に後退った。
青年は恐ろしいぐらいにすぐ間合いを詰めてきた。
「あぁ……声からして男の子か」
「いや! 格好見れば分かるでしょう」
「あまりに綺麗な顔してて華奢な体付きしてるから女の子かと思っちゃった。うん。でも、性別は重要じゃないね。要は味が大事さ」
「味!?」
華音は訳が分からなかった。
こうしている間に青年の逞しい両腕が華音を捕まえていた。
がっちりホールドされて動けない。
オレ、これから何されるの!?
再び青年の顔が近付いてくる。この距離ならはっきりと顔が見える。オリーブ色の猫目で端整な顔立ちだった。男の華音から見てもイケメンだと思った。
だが、いくら相手がイケメンでもこんな状況誰も喜びはしないだろう。特に同性は。唯々恐ろしいだけだ。
逃げ出したいのに、筋力があまりない華音ではこの抱擁からは逃れられない。
青年の顔が、唇が迫ってくる。
さすがの華音も、これから自分の身に起こる事を悟った。
「や、やめろ!」
身体を捻ると、強風が吹いた。
ゴルゴだ。
強風によって青年が体勢を崩した隙に華音は逃げ去った。
「ありがとう! ゴルゴ」
隣を羽ばたく使い魔に礼を言った。
背後では青年が突っ立ったまま、華音と烏を見送っていた。
「なるほどね。やっぱり彼がそうか」
舌舐めずりをした青年の肩から、にょろりととげとげのトカゲが顔を覗かせた。
翌朝、華音が登校して来ると教室内がざわついていた。何事かと自然と傾けた耳に入ってきたのは女子達の妙な噂話だった。
「最近、夜道を歩いていると突然イケメンに唇を奪われるんだって!」
「何それー。マジなの?」
「うん。だって、あたしの友達が被害にあったのよ! イケメンじゃなきゃ許さなかったってさ」
「いや、イケメンでもそれは犯罪じゃない? 変質者だよ」
男子達は無関心な様子だが、華音だけは落ち着かなかった。
それに気付いた刃が華音を小突いた。
「まっさか、華音ちゃん襲われたんじゃないの~?」
「そ、そうなのか?」
雷も恐る恐る訊いてきた。
周りのざわつきが治まり、視線が一斉に戸惑った様子の優等生に集中した。
男女共に認める美形男子高校生ならあり得る話だった。
華音は咄嗟に笑みを顔に貼り付けた。
「そんな訳ないだろ? 女の子ならともかく、オレなんて襲わないよ」
未遂だし!
皆は完全に優等生を信じ込み、安堵した。
周りにざわつきが戻ったところで、桜花が教室に入ってきた。
彼女が歩く度に、チェリーブロッサムの香りが弾ける。男子も女子も頬を緩め挨拶をし、笑顔で返す桜花。
桜花は華音の傍に来ると、笑顔を引っ込めて神妙な顔つきになった。
「おはよう。華音」
「おはよう? 桜花、どうかしたのか?」
「昨日1人で帰ったでしょう? その……変質者に襲われなかったか心配で」
「……うん?」
「屈強な男とか! 華音、敵わないって言ってたじゃない」
「屈強な男、ね」
ある意味そうだった。あの青年の腕力に華音は敵わなかったのだ。
「オレはこれでも一応男だし、そう言うのは心配しなくてもいいよ。それよりも、桜花こそ大丈夫だった?」
「わたしは平気。電車待っていた時におじさんにホテル行かないかって誘われたけど、わたし帰る場所ちゃんとあるし……断った。それぐらい」
平然と語られた話の内容に、華音は瞠目して頬を紅潮させた。
「それ変質者だよ!?」
「違うわ? 唯、わたしが家なき子に見えたから気を遣ってくれたんだと思うわ」
「桜花……ホテルってそう言う意味じゃ…………」
桜花の純粋な栗色の瞳が面映ゆくて、華音は言い淀んだ。
「とにかく! キミは何かこうふわふわしてるって言うか……。知らない人に何言われてもついて行っちゃ駄目だからね?」
「わたし、子供じゃないんだけど……」
「いいから!」
2人のやり取りを横で見物していた刃と雷はニヤニヤ笑っていた。
「華音、それさ……もう彼氏通り越して父親だわ」
雷が指摘すると、刃は耐えきれずに大笑いし出した。
「彼氏……?」
華音が応える前に、桜花が応えた。顔が疑問一杯だ。
華音は再び頬を紅潮させ、慌てて誤魔化す。
「た、例えだよ! と言うか、オレは父親じゃない!」
「いや、祖父さんか?」
真剣な顔で雷が言うと、更に刃の笑い声が大きくなった。
「何で年取るんだ!」
「分からんが、落ち着いてる感じがな?」
華音に反論されても、雷に悪びれる様子はなかった。
3人のいつもと変わらない光景に、桜花も笑みを零した。
チャイムが鳴り、担任教師の寒川先生が教室へ入ってくると皆席に着きホームルームが始まった。


