「うぅ……」

 ベッドから呻き声が聞こえ、丁度室内に入って来たドロシーはすぐにオズワルドに駆け寄った。

「オズワルド!」

 彼の額からは脂汗が吹き出て水色の前髪がべったり貼り付いていた。呼吸も荒い。
 あれから2日経ったが、一向に熱は下がらなかった。どころか、熱は上がっていくばかりで咳も酷く、時々魘される様になった。
 ドロシーは濡れたタオルで額の汗を拭い取り、所在なさげに掛け布団から出ていた右手を握った。

「父様……」

 荒い呼吸の合間に微かに聞こえた声は彼のものとは思えないぐらい、弱々しいものだった。
 ドロシーはアメジスト色の瞳を揺らし、ギュッと目一杯両手でオズワルドの手を握った。

「大丈夫です。大丈夫ですから……!」

 するとオズワルドの呼吸が落ち着き、大分安らかな表情になった。


 ***


 ミッドガイア王国では、髪で耳を隠し堂々としてさえいれば大概ハーフエルフだと気付かれなかった。
 しかし、それは時が経つにつれて些細な事であるとオズワルドは気付いた。
 人間は年齢を重ねる毎に成長し、老いていく。そんな当たり前の事を理解するのが遅すぎた。だから、余計に酷い目に遭ったりもした。
 魔女達(プラネット)が引き起こした魔法大戦での活躍が認められてミッドガイア王国の宮廷魔術師として仕える事になった時も、髪で耳を隠していた為にまさかハーフエルフであるなんて誰も思いもしなかった。
 騙していたつもりはなかったし、訊かれてもいない事を態々明かす様な自分語りを好まなかった。
 周りが少しずつ老いを見せ始める中で、オズワルドだけは美しくあり続けた。最初こそは憧憬の的であったが、次第に恐怖を抱かれる様になり最終的には忌避された。
 オズワルドを宮廷魔術師に任用した当時のハートフィールド国王陛下は、彼がハーフエルフだと知った途端に公開処刑を行おうとした。
 結局100年近く経ってもヴィダルシュ城に居続けていられたのは、オズワルド本人が頼み込んだからだ。
 処刑をするのなら城下街の広場ではなくヴィダルシュ城で。そして、自分を処刑しても構わないが、宮廷魔術師を失って困るのは王国側であると。自分以外に魔女達から国を護れる者は居ないだろうと言った事で、渋々国王は首を縦に振ったのだった。

 ヴィダルシュ城はそんな過去など知らん顔で、晴天に恵まれた今日も美しく湖上に聳え立っていた。
 凡そ100年前より与えられた居館の自室で過ごす事が多かったが、最近は中庭で暇を潰す事も多くなった。
 代々庭師が丁寧に植えてきた白い花々が風にそよぎ、麗らかな日の光が心地良い場所だった。その上あまり城内の者が踏み入れない場所でもあった。
 何をする訳でもなくそこで過ごしていると、小さな2人分の足音と子供の甲高いはしゃぎ声が聞こえて来た。

 ヴィルヘルム王子とドロシー王女。

 あまり城内の者と接触する事はないが、王族の顔と名前はきちんと記憶していた。
 ついこの間母親の胸に抱かれていた小さな子がもう自分の足で走り回れる様になった。
 成長は早いものだと、外見にそぐわない年寄りめいた事を心の中で呟きつつ目を細めた。
 この頃のドロシー王女は元気溌剌で、周りは手を焼いていた。しょっちゅう兄のヴィルヘルム王子が追い掛け、その後を更に使用人が追い掛けると言う光景が多かった。
 しかし、オズワルドはヴィルヘルムには会った事はあるがまだドロシーとは直接会った事がなかった。いつも足音や声を聞くだけだった。
 近くに来ても止まる事はなかった足音。流れる雲と同じだといつもながらに思っていたのだが、不意に背後でトンッと足音が止まった。

 ……何も言わない?

 微かな呼吸が聞こえるだけで、数秒間ドロシーは口を閉ざしたままだった。
 幼いドロシーは、初めて見た宮廷魔術師の後ろ姿があまりに綺麗すぎて見とれていたのだ。
 オズワルドが気になって振り返ると、丁度ドロシーと目が合ってしまった。
 ドロシーの家族の誰とも違うアメジスト色の大きな瞳は更に大きく見開かれ、くるりと身体の向きを変えて逃げる様に走り去ってしまった。その後をヴィルヘルム王子が追い掛けていく。
 ドロシーが背を向けた直後、同じ様に背を向けたオズワルドは空を仰いだ。

 避けられて当然か……。

 きっと、あの幼い王女も兄姉や使用人らから近付くなと教えられているのだろう。ハートフィールド陛下は例外だが、それが当たり前なのだ。


 ドロシーと初めて逢ってから数日経った日の事。
 あの日と同じ様に中庭で佇むオズワルドのもとへ、再びドロシーがやって来た。今度は逃げる事はせずに、恐る恐るだが歩み寄って来た。

「あ、あの……」

 それきり、ドロシーは口を閉ざしてもじもじし始めた。
 そんな彼女の姿が愛らしくて、オズワルドは自然と笑顔になった。しゃがんでドロシーと視線を合わせた。

「お初にお目にかかります、ドロシー王女。私は宮廷魔術師のオズワルド・リデルと申します」

 王にする様に幼い王女にも一礼してみせると、ドロシーは元々赤みのある頬を更に赤くしてオズワルドを真っ直ぐ見た。

「えっ……あ、あの…………キレイね」

 声は上擦り、視線もオズワルドからずれていった。
 16歳と、未成年(こども)の外見であるが、幼い王女にとっては十分大きく見えるだろう。緊張したり恥ずかしく思うのも当然であった。
 実際ドロシーはオズワルドの外見の美しさにこの様な反応を示したのだが、外見を自慢出来る要素だとは思っていないオズワルドには分かる筈もなかった。
 また、ドロシーの言った「キレイ」はオズワルドに向けられたものであったが、これも彼はそうとは気付かず辺り一面に美しく咲き誇る白い花々を眺めて「あぁ……」と納得のいった声を出した。

「綺麗ですよね、この庭。庭師のジールが手入れをしていて……」
「ちがう!」

 先程とは打って変わって力強い幼い声に、オズワルドは瞠目した。

「ドロシー王女?」
「ちがう……ちがうの、そうじゃないの。キレイなのはあなた」

 ドロシーのアメジスト色の瞳は真っ直ぐオズワルドを映していた。
 オズワルドはやや戸惑いつつも、冷静に思っているままに返した。

「私……ですか? 別に美しくなどありませんよ。400年も老いる事なく、ずっと同じ姿をしているだけ……」

 それが人間達に忌避される1番の理由だった。それなのに、ドロシーは全く恐れる素振りも見せず全く逆の、キラキラとした純粋な目でオズワルドを見てきたのだ。

「ずっとキレイでステキね! わたし、カッコイイとおもう! もっとじまんしよーよ」

 舌足らずの幼い声はオズワルドの心にまるで清らかな湧き水の様に染み込み、一瞬で潤した。
 胸にもうずっと感じた事のない温もりが広がり、戸惑いを隠す様に横を向いた。
 この約400年、容姿でいい想いをした事がなかった。不老で美しい容姿は色欲や嫉妬の対象となり、散々な目に遭ってきた。自慢出来る様なものではなかった。
 それが幼い彼女の言葉で取り払われ、塗り替えられた。

 ずっと綺麗なのが素敵……か。

 オズワルドの顔がつい綻んだ。
 それからちゃんとドロシーへ向き直り、小さな頭を撫でて微笑んだ。

「ありがとう」


 ***


「ドロシー……」

 甘える様な声が傍から聞こえ、ドロシーはオズワルドの手を握ったままドキッとして頬を赤らめた。

「オズワルド……? 寝言?」

 彼の顔を見ると、長い睫毛がまだ顔に影を落としていた。
 少しガッカリした様な、安心した様な不思議な気持ちを抱いたドロシーはそっとオズワルドの手を離そうとした。けれど、出来なかった。オズワルドが手を握り返して離そうとしなかったからだった。
 ドロシーは喫驚し、赤面した。心臓が先程よりも忙しない。

「あの……オズワルド、起きてます……?」

 控えめに訊ねると、安らかな寝息が返って来ただけだった。
 ドロシーは眉を下げて微笑み、彼の手が離れてくれるまでそのままにしておいた。



 それから、オズワルドが悪夢に魘される事はなくなり、咳も呼吸も落ち着き熱も徐々に下がっていった。
 そうして、数日後の朝に目を覚ました。
 琥珀色の瞳に最初に映ったのは空色の天井で、普段と違うと感じてすぐに此処が竜族の家だと思い出した。
 久しぶりに動かす身体は鉛の様に重く、上体を起こすだけでもいつもよりも数秒遅くなってしまった。
 漸く起き上がったはいいが、頭も重たくて手で支えた。
 窓の外には最後に見た月はなく、太陽が昇って来ていた。
 カチャリと扉が開き、木桶を抱えたドロシーが入って来るや否や上体を起こしているオズワルドの姿を認めて駆け寄った。

「オズワルド!」

 アメジスト色の瞳に涙を浮かべ、木桶を足下に置いてオズワルドの手を掴んだ。火傷しそうなぐらい熱かった肌はもう随分温度が下がっていた。

「ドロシー……何だか大袈裟だな」

 困惑気味のオズワルドの鼻腔に上品な薔薇の香りが掠め、更に困惑して視線を逸らした。

「どうしたんですか?」
「いや……何でもない」

 朧気ながらもオズワルドには寝込んでいた時の記憶があった。何度も額の汗を冷たいタオルで拭ってくれ、水と薬を飲ませてくれ、眠る直前まで手をずっと握ってくれたその人物からは時折薔薇の良い香りがしていた。
 途端にオズワルドは別の理由で熱を持った顔を見せまいと、俯いた。
 己が身につけている服が視界に入り、3度目の困惑。
 明らかに湯浴みの後に着た寝間着とは違った。
 確かに熱で汗が酷かっただろうし、着替えさせてくれたのはありがたく思ったが……。オズワルドは傍らに立つ少女を一瞥し、また頬をほんのり赤らめた。
 ドロシーはオズワルドの機微に気付かず、純粋な顔で彼の顔を覗き込もうとした。

「まだ具合悪い……ですか?」
「いや、もう大丈夫だ」

 オズワルドは仰け反り、まだドロシーの顔をまともに見ないままベッドから降りた。

「着替えたいから出て行ってくれ」
「え?」
「……見たいのか?」

 既に服を脱ぎかけた状態で問うと、今度はドロシーが赤面し慌てて部屋を出て行った。

「じゃ、じゃあ着替えたら下の広間に来て下さいね!」

 ドロシーが閉じかけた扉の隙間からそう言い残すと、パタンと扉は閉った。
 足音が遠ざかると、オズワルドは黒いローブに袖を通しながら溜め息を付いた。まだ熱は引きそうもなかった。