木々が揺れ、たわわに実った青い宝石の様な実がぶつかり合って透き通る様な綺麗な音を立てた。
 周りは森に囲まれているが木の実が太陽の光を集めてくれて鬱蒼な感じはさせず、夜でも明るかった。
 幻想的なこの森は全てエルフの領土。ずっと昔から存在していて、今日までそれを護り続けていた。
 そんな森の奥深く、住民すら訪れない場所に母子の姿があった。
 久しぶりに外へ出た息子は色んな物に興味を示し、母は穏やかな顔で見守っていた。

「レイア姉さん、オズワルド。ご飯出来たよ」

 呼び声に2人が振り返ると、木造の家の窓から男が顔を覗かせていた。
 男はレイアの双子の弟でオズワルドの叔父。名をユージンと言う。

「はーい。今行くわ。――――さ、行きましょ。オズワルド」

 レイアはユージンに答えると、オズワルドの手を引いて歩いていった。


 木のテーブルに並んだご馳走を前に、レイアは目を輝かせて両手を合わせた。

「まあ。どうしたの? これ。凄く豪華じゃない」
「今日はオズワルドの5歳の誕生日だろ?」

 ユージンは得意げに笑い、こんがり焼けた長いパンをナイフで丁寧に切り分ける。
 7種類の野菜やキノコで煮込んだクリームスープ、鶏肉のソテー、山菜と豆のサラダ、クリームたっぷりのシフォンケーキ。この様な辺地に住む彼らにとっては滅多にないご馳走だった。

「ユージン、憶えていてくれたのね!」
「当たり前さ。姉さんの大切な子供だもの。俺にとっても大事さ。――――はい」

 ユージンは切り分けたパンをレイアとオズワルドに順番に渡した。

「ありがとうね」
「おじ様ありがとう!」

 小さな手でパンを受け取ったオズワルドはにこやかに笑った。
 ユージンは自分の分のパンをスープに浸すと苦笑した。

「間違っちゃいないんだけど、俺の事はユージンとか、兄さんって呼んでくれると嬉しいな」
「分かった! ユージンだね」

 オズワルドはもぐもぐ美味しそうに食事に手を付けた。
 レイアとユージンは無邪気な少年を微笑ましく眺めた。
 3人は同じ美しい水色の髪で、瞳の色はレイアとユージンがエメラルドグリーン、オズワルドが琥珀色だった。また、種族もレイアとユージンはエルフだが、オズワルドは半分しかその血を引いていなかった。もう半分は人間だ。
 来る筈もない、ブロンドの髪に琥珀色の瞳の人間の男性の事を思い浮かべてはレイアは溜め息をついた。

「仕方ないさ。ミッドガイアは遠いし、あの人は忙しい人だから」

 ユージンがスープを飲み干し、困った様に笑った。
 レイアは「そうね……」と憂いの表情でサラダを口に運んだ。
 食事が終わり、後片付けをしているレイアとユージンの耳に此方へ近付いて来る1つの足音が聞こえて来た。
 レイアは手を止め、瞠目した。

「あの人だわ」
「おい、マジで?」

 ユージンは半信半疑だった。
 やがて足音はすぐ近くで聞こえ、扉が開け放たれた。
 広間でユージンの書物を広げていたオズワルドはパッと笑顔になり、立ち上がって玄関まで駆け付けた。後からレイア、ユージンと続いた。

「父様!」

 オズワルドは人間の男性に抱き付いた。

「オズワルド……大きくなったな」

 男性が琥珀色の目を細め、そっとオズワルドの水色の髪を撫でた。

「貴方……」
「義兄さん……」

 男女の違いはあれど、レイアとユージンは同じ驚いた顔をしていた。
 男性は朗らかに笑い、片手を挙げた。

「去年は来る事が出来なかったからね。仕事を放り出して来てしまったよ」
「はぁ!?」とユージンが透かさず声を上げた。
「後で側近達に謝らなくてはな。と、まあともかく。誕生日おめでとう、オズワルド」

 男性は身を屈め、オズワルドの自分と同じ琥珀色の瞳を見た。

「ありがとう! 父様!!」
「5歳になった記念に、私からお前に名前をあげよう」
「名前? あるよ?」

 オズワルドは小首を傾げた。

「いいや。それはまだ途中なんだ」

 お前の名前(フルネーム)

 オズワルド・リデル・――――

 だ


 ザーッと激しく打ち付ける雨音が父の声も、姿も、その時の幸せな光景全てを消し去った。


 随分と昔の夢を見たものだと、身を起こしたオズワルドは自嘲した。
 景色は先程とは違って薄暗く、どんよりとしていた。
 シルバーグレーの雲は重たそうに地上に向かって垂れていて、まだ雨を降らし続けている。暫く降り止む気配はなかった。
 湿ったタイルを踏む素足から直に伝わる冷ややかな温度が全身を寒くする。ずっと日の光に当たっていない身体は冷え切っていて、薄い無彩色の布1枚では凍えてしまいそうだった。
 視界の端では人骨が幾つも転がっていた。彼らは誰にも手を差し伸べられずに死に、きっとそれは孤独なハーフエルフにも同じ運命が待ち受けている事を暗に告げていた。そう思うと、オズワルドは生きる気力を失いかけた。

 オレは何をしているんだろう……。

 くすんでしまった琥珀色の瞳を閉じる。
 すると、透かさず頬を突っつかれた。割と強い力で、反射的に目を開けた。

「あぁ……お前か」

 視界に映ったのは青みがかった烏。烏は懸命にオズワルドの頬を突っついていた。
 オズワルドは烏を撫で、ゆっくりと立ち上がった。

「此処で諦めては駄目だよな……。オレには父様との約束があるんだ」

 この名前にかけて――――。

 再び歩き出すと、タイミングを見計らった様に悪戯に雨は強くなった。
 視界は真っ白になり、足下の水溜まりが広がっていく。
 そして、水嵩が増していき――――水に呑まれた。



 呼吸がままならず、吐き出した空気は水泡となって舞い上がっていく。
 水を吸って重くなった布きれを纏った身体は、水底へと沈んでいく。
 目も開けられないし、指1本動かす事も出来ない。
 息苦しい状態が続いて麻痺し、次第に意識が遠退いていく。
 これまで何度か死にたいと願ったけれど、出来なかった。だが、きっとこれが死ぬと言う事なのだろう。
 最期まで愛してくれた両親には申し訳ないが、これで楽になれる。解放される。

「オズワルド!」

 閉ざされていく世界に、突如少女の声が響き光が降り注いだ。


 バシャン。

 辺りを包んでいた水が弾け、衝撃にオズワルドは目をバチッと開けた。
 視線の先は何処までも続く闇に覆われ、背中には柔らかな液体の感触があった。
 上体を起こして辺りを確認すると、地上一面に水が張っていた。
 自分の身体はその上に緩やかに沈んでいるだけで完全には浸っていなかった。見た目は水だが、本当は水でないみたいだった。
 服装も先程纏っていた粗末な布きれではなく、宮廷魔術師の立派なローブに変わっていた。

「何処だ……? さっきまでオレは」

 エルフの森、母、叔父、父――――雨。
 記憶が一斉に濁流の様に流れ込み、オズワルドの脳はパンクしそうになった。
 呻き声を上げ、両手で頭を抱えて膝を付いた。
 丁度目線の先となった水面がユラッと揺らぎ、何かが映り込んだ。

「なるほど……そう言う事、か」

 水面に映っていたのはオズワルドの記憶の中の光景だった。
 此処は夢の中。オズワルドの記憶が創り出した世界。深層心理。無意識のうちに辿り着いていた様で、これからまた見せられる過去も無意識に再生されただけに過ぎなかった。


 ***


「姉さんは死んだよ」

 吐き捨てる様に言ったユージンの声は低く、背中を向けていた為に表情は窺えなかった。

「死んだって……」
「殺されたんだよ! お前の父親にな!」

 振り向いたユージンの顔に、オズワルドは慄然とした。
 どんな時も穏やかに笑う彼は何処にもおらず、今は醜く歪み別人となっていた。
 叔父の変貌は恐怖でしかなかったが、オズワルドの傍に頼れる者は彼しかいなかった為必死に縋り付いた。

「父様がそんな事する筈ない……! 約束、したんだ」
「うるさい!」

 バシッとユージンの手がオズワルドを振り払った。
 反動で尻餅をついたオズワルドをユージンは冷めた目で見下ろした。

「俺はな、お前の父親もお前も大嫌いだったんだよ! 傲慢で強欲でずる賢い、自分の事しか考えてない愚かな人間!」
「ユージン……?」
「この穢れた血が!」


 ***


 ぴちょん……。

 水が滴る音に意識が戻った。
 辺りは変わらず暗闇があるばかりで、膝を付いているのは水面だった。
 水面に波紋が次々と広がっていく。
 何処から水が滴っているのだろうかと辿ってみると、己の顔だった。頬をどんどん水が滑り落ちていく。
 目の奥がじんじん痛む。

「オレは泣いているのか……」

 他人事の様な感覚だった。泣いた事なんてもうずっとなかったから。とは言え、此処は現実ではないのだが。
 記憶を見せられて色んな感情が湧き上がり、涙となって溢れたのだった。

 それにしても。

「穢れた血……か」

 400年以上経った現在でも、同じ事を口にした者が居た。ブロンドの癖毛に、つり上がった琥珀色の瞳の青年だ。元からオズワルドに対して好意的ではなかったが、いつからかはっきりとした嫌悪を示す様になった。それはとても悲しかったが、それでいいとも思っていた。ずっと世間から忌避され続けて来た彼にとってはそれが当たり前だったのだから。
 波紋を描いていた水面に、今度は別の光景が映りオズワルドは凍り付いた。みるみるうちに血の気が引いていき、小刻みに身体が震え出した。

 ――――やめろ! その記憶だけは……