回廊を歩いていたヴィルヘルムは足を止め、不機嫌な顔で振り返った。
……また、か。
そこには誰もおらず、強いて言えば遠くで騎士が巡回している事ぐらいだ。
ヴィルヘルムは顔を戻し、暫し思案してからまた歩を進めた。
この頃、妙な気配が後をついて回っている気がしてならなかった。
あれは……そう言う事だったのか。
少し前、廊下で偶々宮廷魔術師と鉢合わせた時に彼はヴィルヘルムの背後をやけに気にしていた。
あの時は然程気にも留めず、オズワルドに対して嫌悪を思う存分ぶつけただけだった。
嫌みのつもりで阻止しろと言ったが、なかなか正体の掴めない雲の様な相手にどう対処しろとあの時の軽薄な自分に叱咤した。
そのオズワルドは悔しくも、愛しい妹と一緒にブルーヴェイルへ旅行中だ。
肝心な時に役に立たない……。
ヴィルヘルムは嫉妬を憎悪と自分に偽り、奥歯をぎりっと噛んだ。
オズワルドとドロシーがお気に入りだと言ってよく来る居館の中庭に立ち寄った。本日も晴れた晴天の下、風に揺れる白い花畑がよく映える。
中程まで無心で進むと、頭上から羽音がした。
見上げると、青みがかった鷲が下降して来ていた。
「オズワルドの使い魔か」
鷲はヴィルヘルムの腕に止まり、サファイアブルーの瞳でジッと彼の琥珀色の瞳を覗き込む様にした。
すると、ヴィルヘルムの脳内に映像が流れて来た。
「何……? オズワルドが寝込んでいる、のか」
信じられずもう1度サファイアブルーの瞳を見ると、鷲は小首を傾げてバサッと飛び去った。
ヴィルヘルムは鷲を見送り、再度口を開いた。
「ハーフエルフが……」
その一言からは嫌悪の色はなく、心配の一色のみを孕んでいた。
ハーフエルフが虚弱体質である事はヴィルヘルムも知っていた。
「それなのに、アイツ……寒い森の中まで私を捜しに来てくれたっけ……」
じんわりと胸が熱くなったが、すぐに心地が悪くなって渋面を作った。
誰があんなハーフエルフの心配などするものか! そうだ。このまま風邪をこじらせて死んでしまえばいい。
胸の奥底にある感情を偽りの感情で押し沈めた。
フワッと、鷲が落としていったと思われる茶色い羽が1枚花畑の中に落ちた。
「ああ、そうだ……」
使い魔からの伝言を国王に届けなければ。
踵を返すと、真っ直ぐ此方を見つめる赤の双眸が柱の陰に浮かんでいるのが見えた。
ヴィルヘルムは総毛立ち、金縛りにあったかの様に全く身動きが取れなくなった。
「何者、だ……? 貴様は……」
何とか動かせた口でそれに問い掛けると、陰からヌルリと成人女性ぐらいの体長のヒレを持った白い生物が出て来た。
頭から背中までつるつるで、大きく裂けた口は楽しげに笑っているかの様。怪しげな赤の双眸はつぶらで悪意は伝わって来ない。
拍子抜けする見た目であるが、ヴィルヘルムの恐怖は消えず寧ろ増していた。
「何故こんなところに小鯨が……」
小鯨、リアルムで言うところのスナメリは海洋生物。陸上に居る筈がないし、ヒトの様に直立しているのも不自然だった。
ヴィルヘルムがずっと睨め付けていると、スナメリの口が少し開いた。
『ヴィルヘルム・ディン・ハートフィールド、お前に1つ為になる話をしてあげよう』
剽軽な容姿から発せられたとは思えない妖艶な女性の声が脳内に直接響き渡ると同時に、ヴィルヘルムの意識はフツリと途切れた。
城門と居館との間にある噴水広場で休憩していたマルスは、ふと何かに気付いてベンチから腰を上げた。
通り掛かった第1騎士団副団長が暢気に手を挙げた。
「おーい、リザ―ディア! 今から飯にすんだけどアンタもどうだ?」
「いや、ちょっと急用思い出したんで!」
相手の顔を一切見ずに颯爽とマルスは駆け抜けていき、居館へ向かう後ろ姿を呆然と見送った第1騎士団副団長は眉を潜めた。「巡回忘れてたのか?」
中庭に辿り着いたマルスは愕然とした。
もう遅かったか――――!
白い花畑に彼が護らなければならない対象の1人――――ヴィルヘルム王子がうつ伏せていたのだ。
居館を巡回している筈の騎士達は異変に全く気付いていないのか、姿が見当たらなかった。
マルスは辺りを警戒しつつヴィルヘルムに近付くと、抱き起こした。
「王子! ヴィルヘルム王子、しっかり!」
軽く揺すると呻き声を上げ、ヴィルヘルムは薄ら瞼を開いた。
「私は……」
「よかった……。立てます?」
マルスが手を貸し、ヴィルヘルムは立ち上がった。
マルスは辺りへの警戒を緩めず、真剣な面持ちでまだぼんやりしているヴィルヘルムの顔を見つめた。
「何があったんですか? 先程妙な気配を感じたのですが……」
「先程私は……」
ヴィルヘルムは何も居ない柱の陰を一瞥すると、片手で前頭部を押さえた。顔は不安と苦痛に染まっていく。
思うように記憶を手繰り寄せる事が出来ない。まるで、向こう側から何者かが引っ張って妨害しているかの様に。
結局何も思い出せず、ヴィルヘルムは首を横に振るだけだった。
「そうですか……。何にせよ、お怪我がなくてよかった」
「あ」とヴィルヘルムが急に声を出し、マルスは期待して食いついた。
「何か思い出したんです!?」
「使い魔からの伝言。丁度良いから、お前から国王に届けろ」
「あ、はい……伝言ですね」
少し拍子抜けした。
この時にはもうヴィルヘルムから不安は消え、高飛車な普段通りの姿に戻っていた。
「宮廷魔術師オズワルド・リデルが旅先で寝込んだ様だ。その為暫く戻れない――――以上だ」
「へえー……リデル様が。って、えぇ!?」
「では頼んだぞ。もし忘れたらお前の首を切るからな」
ヴィルヘルムがさっさと居なくなり、取り残されたマルスの方が今度は不安になったのだった。
昨夜食卓を囲った広間に、イーサンの妻に背中を押されてやって来たドロシーは固い表情のまま端っこの席にちょこんと座った。
他の者達も席に着き、子供達を含めた全員が静かにドロシーを見守った。
「ほら、これ飲みな」
イーサンの母がドロシーの目の前に湯気の立ち上るマグカップを置いた。
マグカップの中で揺れるのはミルクで煮出した甘いお茶。仄かにスパイシーな香りもした。
「ありがとうございます」
ドロシーは覇気のない声で礼を言うと、マグカップを両手で優しく持ち上げてゆっくりと時間を掛けて中身を味わった。
程よい温度は心まで冷えた身体をじんわり温め、ミルクの優しい口当たりと茶葉の自然な苦みと甘み、そして後引く独特のスパイスの香りが良いアクセントとなっており、飲み終えた頃には揺れていた心は大分落ち着いた。
「ありがとうございます」
もう1度、今度はちゃんとした声色で礼を言った。
イーサンの母はとんでもないと言う風に笑みを向けると、マグカップを片付けて嫁と一緒に朝食の準備に取りかかった。
「ごめんなさい。取り乱してしまって。オズワルドのあんな姿見たの、初めてで……」
「……今まで彼は体調を崩す様な事、なかったのかい?」
イーサンが横からドロシーの顔を覗き込むと、ドロシーは目を伏せたままコクリと頷いた。
「少なくともわたしが知る限りでは……」
「そうか……」
イーサンは手を顎にやり、少しの間考え込んだ。
「わたしが色々連れ回したりしたから疲れてしまったのかしら……」
ドロシーが寂しそうに呟くと、イーサンは手を下ろして彼女に微笑を向けた。
「それはないと思うな。街で再会した時、オズワルドくんは楽しそうに……いや、愛おしそうに見えたからね」
「愛おし……?」
「何て言うか、お兄さんの様な……或いはお父さんの様な……はたまたお祖父さんの様な、ドロシーちゃんを見る目はそんな感じだったよ。恋人になりたいドロシーちゃんには申し訳ないけどね」
ドロシーは夢現な昨夜の事を思い出した。最終的にオズワルドに添い寝される形になったのは悶絶ものだが、その前。彼は意味深な問い掛けをして来た。
わたしとオズワルドが血縁関係……そんな事ある筈、ない。
確かに父や兄姉と同じ瞳の色で、父の姿と重なって見えたけれど。
オズワルドはアゲートヘイム出身だと言っていた。ミッドガイアの暮らしの方が長いとも。
いつオズワルドはアゲートヘイムからミッドガイアへ渡ったのだろうか。その理由は何なのか。家族はどうしたのか。
思えば、オズワルドは1度たりとも自分の出生を明かした事がない。
ドロシーが知っているのはオズワルド・リデルと言う名前とハーフエルフと言う事だけ。それ以外、まともに知らなかった。
……また、か。
そこには誰もおらず、強いて言えば遠くで騎士が巡回している事ぐらいだ。
ヴィルヘルムは顔を戻し、暫し思案してからまた歩を進めた。
この頃、妙な気配が後をついて回っている気がしてならなかった。
あれは……そう言う事だったのか。
少し前、廊下で偶々宮廷魔術師と鉢合わせた時に彼はヴィルヘルムの背後をやけに気にしていた。
あの時は然程気にも留めず、オズワルドに対して嫌悪を思う存分ぶつけただけだった。
嫌みのつもりで阻止しろと言ったが、なかなか正体の掴めない雲の様な相手にどう対処しろとあの時の軽薄な自分に叱咤した。
そのオズワルドは悔しくも、愛しい妹と一緒にブルーヴェイルへ旅行中だ。
肝心な時に役に立たない……。
ヴィルヘルムは嫉妬を憎悪と自分に偽り、奥歯をぎりっと噛んだ。
オズワルドとドロシーがお気に入りだと言ってよく来る居館の中庭に立ち寄った。本日も晴れた晴天の下、風に揺れる白い花畑がよく映える。
中程まで無心で進むと、頭上から羽音がした。
見上げると、青みがかった鷲が下降して来ていた。
「オズワルドの使い魔か」
鷲はヴィルヘルムの腕に止まり、サファイアブルーの瞳でジッと彼の琥珀色の瞳を覗き込む様にした。
すると、ヴィルヘルムの脳内に映像が流れて来た。
「何……? オズワルドが寝込んでいる、のか」
信じられずもう1度サファイアブルーの瞳を見ると、鷲は小首を傾げてバサッと飛び去った。
ヴィルヘルムは鷲を見送り、再度口を開いた。
「ハーフエルフが……」
その一言からは嫌悪の色はなく、心配の一色のみを孕んでいた。
ハーフエルフが虚弱体質である事はヴィルヘルムも知っていた。
「それなのに、アイツ……寒い森の中まで私を捜しに来てくれたっけ……」
じんわりと胸が熱くなったが、すぐに心地が悪くなって渋面を作った。
誰があんなハーフエルフの心配などするものか! そうだ。このまま風邪をこじらせて死んでしまえばいい。
胸の奥底にある感情を偽りの感情で押し沈めた。
フワッと、鷲が落としていったと思われる茶色い羽が1枚花畑の中に落ちた。
「ああ、そうだ……」
使い魔からの伝言を国王に届けなければ。
踵を返すと、真っ直ぐ此方を見つめる赤の双眸が柱の陰に浮かんでいるのが見えた。
ヴィルヘルムは総毛立ち、金縛りにあったかの様に全く身動きが取れなくなった。
「何者、だ……? 貴様は……」
何とか動かせた口でそれに問い掛けると、陰からヌルリと成人女性ぐらいの体長のヒレを持った白い生物が出て来た。
頭から背中までつるつるで、大きく裂けた口は楽しげに笑っているかの様。怪しげな赤の双眸はつぶらで悪意は伝わって来ない。
拍子抜けする見た目であるが、ヴィルヘルムの恐怖は消えず寧ろ増していた。
「何故こんなところに小鯨が……」
小鯨、リアルムで言うところのスナメリは海洋生物。陸上に居る筈がないし、ヒトの様に直立しているのも不自然だった。
ヴィルヘルムがずっと睨め付けていると、スナメリの口が少し開いた。
『ヴィルヘルム・ディン・ハートフィールド、お前に1つ為になる話をしてあげよう』
剽軽な容姿から発せられたとは思えない妖艶な女性の声が脳内に直接響き渡ると同時に、ヴィルヘルムの意識はフツリと途切れた。
城門と居館との間にある噴水広場で休憩していたマルスは、ふと何かに気付いてベンチから腰を上げた。
通り掛かった第1騎士団副団長が暢気に手を挙げた。
「おーい、リザ―ディア! 今から飯にすんだけどアンタもどうだ?」
「いや、ちょっと急用思い出したんで!」
相手の顔を一切見ずに颯爽とマルスは駆け抜けていき、居館へ向かう後ろ姿を呆然と見送った第1騎士団副団長は眉を潜めた。「巡回忘れてたのか?」
中庭に辿り着いたマルスは愕然とした。
もう遅かったか――――!
白い花畑に彼が護らなければならない対象の1人――――ヴィルヘルム王子がうつ伏せていたのだ。
居館を巡回している筈の騎士達は異変に全く気付いていないのか、姿が見当たらなかった。
マルスは辺りを警戒しつつヴィルヘルムに近付くと、抱き起こした。
「王子! ヴィルヘルム王子、しっかり!」
軽く揺すると呻き声を上げ、ヴィルヘルムは薄ら瞼を開いた。
「私は……」
「よかった……。立てます?」
マルスが手を貸し、ヴィルヘルムは立ち上がった。
マルスは辺りへの警戒を緩めず、真剣な面持ちでまだぼんやりしているヴィルヘルムの顔を見つめた。
「何があったんですか? 先程妙な気配を感じたのですが……」
「先程私は……」
ヴィルヘルムは何も居ない柱の陰を一瞥すると、片手で前頭部を押さえた。顔は不安と苦痛に染まっていく。
思うように記憶を手繰り寄せる事が出来ない。まるで、向こう側から何者かが引っ張って妨害しているかの様に。
結局何も思い出せず、ヴィルヘルムは首を横に振るだけだった。
「そうですか……。何にせよ、お怪我がなくてよかった」
「あ」とヴィルヘルムが急に声を出し、マルスは期待して食いついた。
「何か思い出したんです!?」
「使い魔からの伝言。丁度良いから、お前から国王に届けろ」
「あ、はい……伝言ですね」
少し拍子抜けした。
この時にはもうヴィルヘルムから不安は消え、高飛車な普段通りの姿に戻っていた。
「宮廷魔術師オズワルド・リデルが旅先で寝込んだ様だ。その為暫く戻れない――――以上だ」
「へえー……リデル様が。って、えぇ!?」
「では頼んだぞ。もし忘れたらお前の首を切るからな」
ヴィルヘルムがさっさと居なくなり、取り残されたマルスの方が今度は不安になったのだった。
昨夜食卓を囲った広間に、イーサンの妻に背中を押されてやって来たドロシーは固い表情のまま端っこの席にちょこんと座った。
他の者達も席に着き、子供達を含めた全員が静かにドロシーを見守った。
「ほら、これ飲みな」
イーサンの母がドロシーの目の前に湯気の立ち上るマグカップを置いた。
マグカップの中で揺れるのはミルクで煮出した甘いお茶。仄かにスパイシーな香りもした。
「ありがとうございます」
ドロシーは覇気のない声で礼を言うと、マグカップを両手で優しく持ち上げてゆっくりと時間を掛けて中身を味わった。
程よい温度は心まで冷えた身体をじんわり温め、ミルクの優しい口当たりと茶葉の自然な苦みと甘み、そして後引く独特のスパイスの香りが良いアクセントとなっており、飲み終えた頃には揺れていた心は大分落ち着いた。
「ありがとうございます」
もう1度、今度はちゃんとした声色で礼を言った。
イーサンの母はとんでもないと言う風に笑みを向けると、マグカップを片付けて嫁と一緒に朝食の準備に取りかかった。
「ごめんなさい。取り乱してしまって。オズワルドのあんな姿見たの、初めてで……」
「……今まで彼は体調を崩す様な事、なかったのかい?」
イーサンが横からドロシーの顔を覗き込むと、ドロシーは目を伏せたままコクリと頷いた。
「少なくともわたしが知る限りでは……」
「そうか……」
イーサンは手を顎にやり、少しの間考え込んだ。
「わたしが色々連れ回したりしたから疲れてしまったのかしら……」
ドロシーが寂しそうに呟くと、イーサンは手を下ろして彼女に微笑を向けた。
「それはないと思うな。街で再会した時、オズワルドくんは楽しそうに……いや、愛おしそうに見えたからね」
「愛おし……?」
「何て言うか、お兄さんの様な……或いはお父さんの様な……はたまたお祖父さんの様な、ドロシーちゃんを見る目はそんな感じだったよ。恋人になりたいドロシーちゃんには申し訳ないけどね」
ドロシーは夢現な昨夜の事を思い出した。最終的にオズワルドに添い寝される形になったのは悶絶ものだが、その前。彼は意味深な問い掛けをして来た。
わたしとオズワルドが血縁関係……そんな事ある筈、ない。
確かに父や兄姉と同じ瞳の色で、父の姿と重なって見えたけれど。
オズワルドはアゲートヘイム出身だと言っていた。ミッドガイアの暮らしの方が長いとも。
いつオズワルドはアゲートヘイムからミッドガイアへ渡ったのだろうか。その理由は何なのか。家族はどうしたのか。
思えば、オズワルドは1度たりとも自分の出生を明かした事がない。
ドロシーが知っているのはオズワルド・リデルと言う名前とハーフエルフと言う事だけ。それ以外、まともに知らなかった。