休憩時間のざわついた教室内に、華音は残っていた。席に着き、ぼんやりと文字の消えた黒板を見る。
 今日の授業内容は全て頭に入ったが、昨日のが綺麗さっぱりない。1日ぐらい抜けていても問題ない頭だが、完璧でないと落ち着かず、不安だった。
「何で出来ないの!」という声はもう記憶の中だけなのに、どうしても鮮明に聞こえて来る。その度に、幼い頃に誓った姿になろうと身体が勝手に動く。華音が不真面目な刃と雷と一緒にいるのは、そんな自分と正反対の生き方をしている彼らに密かな憧れを抱いているからだ。居心地が良い、そんな友人。
 学年トップの成績の優等生に、わざわざ昨日の授業内容を教えに来るクラスメイトは居ない。悪意があるのではなく、自分なんかが……と恐縮しているのだ。

「特別に、かがみんに俺のノートを見せてやろう!」

 親友はそんな事はお構いなしだ。真っ白なノートを見せつけて来た刃に、華音は思わずクスッと笑ってしまった。

「火で炙ると文字でも浮き出てくるの?」

 笑いながら言うと、刃も笑いながら「そうだ」と答えた。

「トップシークレットだからな。かがみんと俺の秘密! ――――いてっ!」

 金髪頭に、ノートの角が落ちて来た。

「何アホな事言ってんだ」
「雷! 俺はアホじゃなくて、刃だ! ほら、一緒に。やーいーばっ!」
「はいはい。刃さん。――――字汚ねーけど、俺ので良かったら」

 雷が刃の頭部へ命中させたノートを、華音の目の前に差し出した。
 華音は礼を言って受け取り、ページをパラパラと捲る。本人の言う通りお世辞にも字が上手い訳ではないが、ちゃんと読めるし、内容がしっかりと分かり易く書いてある。

「今日中には返すよ。雷ってさ、勉強出来るし、しっかりしてるし、面倒見もいいのに、何で不良なんてやってるの?」

 華音が顔を上げると、雷は視線を遠くにやって後頭部を掻いた。

「何でかなー。血の気が多いから、すぐ喧嘩しちゃうんだよな。それで周りからの評価も下がって、いつの間にかな。だけど、お前と居るからか、最近はマシになった気がするよ」
「周りからの評価……か」
「ねーねーかがみん。俺は? 何で不良なんて言われているんでしょーか?」

 真剣な空気に、場違いな空気が無遠慮に入り込む。

「……アホだからでしょ」

 華音が溜め息混じりに返してやると、刃は調子に乗る。

「その通り! 勉強出来なくて、いや! するつもりがなくてだらけていたら、何か成績下がってやる気なくなって、授業中に校庭で迷い猫と遊び出したら、不良と言う称号を得たんだぜ!」

 不良なんて寧ろカッコイイ響きだから、周りもアホと呼称しておけばいいものを……と、華音は遠い目をして思った。

「おー。りんりんだ」
「急に何?」

 刃が視線を落として聞き慣れない単語を言ったので、華音は眉根を寄せて彼の視線を辿った。どうやら、雷のノートで、閉じて上にしていた裏表紙の端に油性マジックで何かが描かれていた。目が大きくてキラキラしている、ドリルの様にクルクルなツインテールの可愛い女の子キャラクターのイラストだ。なかなか上手に描けている。
 これが『りんりん』華音はさっぱりだった。
 雷が眉を僅かに下げ、頬を掻いた。

「妹が描いたんだよ。最近そのアニメにハマってるみたいでさー」

 雷の妹。あの夜、危うく魔女に生命力を奪われそうになった少女だ。
 嬉しそうに妹の事を話す雷を見て、華音は心の底から良かったと思った。妹と弟の命も、雷の笑顔も護る事が出来た。もし、魔女を放置して世界が滅ぶ事になってしまったら、それらもなくなってしまうだろう。それはとても悲しい。ずっと護っていかなくてはいけない大切なモノだ。
 華音が想いに耽けている間に、刃によって話が拡大していた。

「24話のバトルシーンがりんりんの衣装が破れたり、スカートの中に触手が入ってきたりで、かなりエロくて最高だったんだよ! 一応子供向け番組なんだけどな! 逆に規制ギリギリの表現が萌えるって言うの!? りんりんマジ天使だわ~」

 刃が1人、妄想の世界にダイブし出した。雷はスポーツ漫画しか読まないし、華音は純文学か専門書しか読まないので、アニメオタクの刃のテンションについていけない。
 華音はふと、刃がオズワルドの格好を見たら喜びそうだな……と思いかけ、頭を振った。それはつまり、オズワルドコスチュームの自分の姿を晒すと言う事だ。それだけはあってはならない。絶対に誰にも見られない様にすると、堅く誓った。


 鏡崎宅はバスルームも広い。シャワースペースとバスタブが硝子で区切られており、その全ての床、壁、天井は天然の御影石だ。
 湯気と共に漂う上品な花の香りは、華音が今使っているシャンプーの香りだ。母の趣味で、買い揃えられた石鹸類は、悔しいが、上質で使い心地が良い。左腕の包帯にお湯がかからない様、シャワーでシャンプーを洗い流すと、真横の姿見にオズワルドが映り込んだ。華音はたじろぐ。

「ひどい傷だな」
「鏡があれば、何処にでも現れるんだな……」
「此処に、こんな立派な鏡があるとは私も思わなかった。……その火傷はこの前の戦闘で受けたものではないな?」
「え?」

 始め、どれを指しているのか分からなかった華音だが、自分の身体を確認してみて納得した。華音の白くて細い身体には、背中から腰にかけて酷い火傷の痕がある。オズワルドから目を逸らし、独り言の様に返した。

「随分前のものだ。綺麗に治らなかったんだ」
「……そうか」

 オズワルドも空気が読めない訳ではない。華音の中の触れてはいけない部分に気付き、口を噤んだ。
 シャワーの水が床を叩く音が響く。
 熱が充満し、硝子張りのシャワールーム内が暑い。そのせいか、徐々に華音の頬は熱を帯びて赤くなった。

「て言うか、風呂ぐらいはゆっくり入らせてよ」

 オズワルドはクスッと笑った。まるで、幼い子供を相手にしているかの様に。

「何を照れているんだ。お前の裸体に興味はない。大体、私とお前は別次元の同じ存在なのだし」
「う、うるさいな。落ち着かないんだよ。お前だって、いつまでもそうしてないで、何かしたらどうなんだ。夕飯食べるとかさ」
「それもそうだな。しっかり今夜は休んで、次に備えろよ」
「え……。ちょっと、オズワルド」

 スッとオズワルドが消え、鏡面には戸惑った表情の華音が映り込んだ。迷いのない魔法使いとは正反対のそれに、憮然とした。自分はまだ、揺れている。
 華音はシャワールームから出ると、たっぷりとお湯を張った浴槽に浸かった。丁度いい温度が全身を包み込み、じんわりと芯まで温めてくれる。
「はあ」と、思わず溜め息が漏れた。



 オズワルドが魔法鏡(まほうきょう)に背を向けて歩き出すと、足並みに合せて通路に行儀よく並んだ青色の炎が消えてゆく。扉を開ける時には、魔法鏡は闇に包まれた。
 廊下へ出たオズワルドは、窓から差し込む光に目を細めた。久しぶりの自然光。あちらの世界(リアルム)こちらの世界(スペクルム)では、時間の流れが異なり、こちらは昼間だった。
 華音には『夕食』と言われたが、これでは『昼食』になる。と言っても、オズワルドには始めからそうするつもりはない。
 食事以外にする事があるのかと言うと、何もない。仕方なく、謁見の間の見張りと言う本来の役目を果たす為、歩を進めた。
 オズワルドが歩くと、空気が一変する。姿を認めた兵士や使用人らの口がきゅっと閉じ、瞳が畏怖を示す。宮廷魔術師と言う、彼らより高い地位故だと受け取れるが、オズワルドは彼らの真意に気付いている。昔より幾分かマシかと思うが、あまり気分の良いものではなかった。
 いつだって、人間は異形を嫌う。
 また、空気が一変した。今度はオズワルドではなく、上品な薔薇の香りを散らしてこちらへ向かって来る人物のせいだった。
 兵士や使用人らは廊下の端に並び、深く頭を下げる。
 オズワルドは堂々と、向かって来た人物の前に出た。

「ドロシー。此処へ来るなど、珍しいな」

 声を掛けられた本人ではなく、周りが目を見開いた。最早当たり前と化しているが、王女を呼び捨てした上にタメ口を聞くなど、何度聞いても聞き慣れない。それどころか、宮廷魔術師は王女を王女だと思っていない、高飛車な態度だ。
 一方のドロシー・メルツ・ハートフィールド第2王女は然程気にしておらず、好意的な笑みを浮かべていた。

「お父様から、オズワルドの事を聞きまして。魔法鏡の間に行きますの」
「いくら魔法が使えても、上手くいくとは限らんぞ」
「やってみなくては分かりません」

 ドロシーの格好は優雅なドレスではなく、太腿が見える程に短いひらひらの赤いスカートを穿いていて、それを膝下の長さの上質な白い布でカーテンの様に覆い、コルセットでしっかり止めている。豊満な胸を強調する様に胸元が大きく開いた見頃とフリルでボリュームたっぷりの袖は繋がっていない。ふくらはぎを覆うヒール付きの白いブーツや金属製のチョーカーには、薔薇をモチーフにした宝石があしらわれている。暗い赤色の緩いウェーブのかかった長髪は、斜め上で花の様な髪飾りで纏められていて、彼女が頭を動かす度にさらさらと揺れる。王族で唯一魔法が扱えるとあって、動きやすいこの格好を好んでしている。勿論、王女である彼女が実戦する事は皆無に等しいのだが。
 ドロシーはアメジスト色の大きな瞳で、真っ直ぐオズワルドを見た。

「わたしも、絶対あちらのわたしを見つけてみせますわ」

 可憐な容姿には似つかわしくない、力強い声だ。
 オズワルドは口角を上げた。
「せいぜい頑張れ、お姫様」と、ぽんぽんとドロシーの頭を軽く叩き、脇を摺り抜ける。入れ違いに、足下をルビー色の瞳の黒猫が通り過ぎた。
 ドロシーは触れられた箇所を両手で触り、頬を赤く染めた。

「こ、子供扱いしないでよ!」

 振り返ったが、オズワルドの姿はもう随分と遠くにあった。

「もう……。わたし、もう16歳なのよ。オズワルドのバカッ」

 ドロシーは少し寂しそうな顔をし、俯く。と、黒猫と目が合い、本来の目的を思い出して目を吊り上げて顔を上げた。

「わたしだって、役に立つんだって事を思い知らせてやるんだから! 行きますわよ」

 ドロシーが歩き出すと、黒猫は「にゃー」と掛け声の様に鳴いて後をついていった。

 ***


 コンコン。オズワルドは姿勢を正し、扉をノックする。
 植物や女性を象った文様が施された、重厚な両開きの謁見の間の扉とは違い、この扉は片開きでシンプルな造りだ。
 返事はすぐに返って来て、「失礼します」と断りを入れてから扉を開いた。
 背中でパタンと扉が閉まると、此処で一礼。部屋の主の姿は随分と遠くにあるが、視線はしっかりと交わった。
 他の部屋よりも少し狭い室内には、両角に本がびっしりと敷き詰められた本棚が陣取っていて、中央に資料が山積みになったデスクがあるのみ。
 部屋の主は、デスクに向かって作業をしている最中だった。
 デスクの真後ろの大きな窓から陽光が差し込み、男性の綺麗なブロンドの髪を神々しく照らす。首元や手元で光り輝く宝石に、白を基調としたしゃんとした身形は高貴な者の証で、何より、彼の纏う独特の空気が他者とは明らかに異なっていた。王女の前でも高飛車な態度を保ち続けていたオズワルドでさえも、一歩引かずにはいられない存在だ。
 オズワルドは男性のデスクの前に立つと、再び一礼した。
 男性は机上に広げていた分厚いノートを閉じ、右手に持ったままの羽ペンをペン立てに置いて目を細めた。気品があり、強い意志を秘めた切れ長の瞳は、オズワルドと同じ琥珀色をしていた。

「オズワルド。私のもとへ来たと言う事は、8人の魔女(プラネット)の事で何か分かったのか?」
「ええ。ハートフィールド国王陛下。彼女達は別次元(リアルム)に潜んでいる様で、生命力を魔物に奪わせています。目的は憶測でしかありませんが、ブラックホールの魔女の復活かと。魔女が再び集結すれば、世界は破滅への道を辿る事でしょう。それを阻止すべく、今私は魔物の撃退と魔女の居場所を探っています」
「そうか。ブラックホールの魔女は100年前、貴方が消滅させたと聞いていたが、リアルムでの転生が完了してしまったのだな……。ところで、いくら有能な魔術師の貴方でも、リアルムを行き来する事は出来ないだろう? どうやってそれらを行っているんだ?」
「魔法鏡です」
「魔法鏡。ああ、城の奥にあるあれか。代々ハートフィールド王家は魔法に関してはからっきしでな。貴方が来る前に居た宮廷魔術師が持ち込んだらしいが、彼が他界した後、誰も扱えずに埃を被っていた」
「魔力のない者にとっては単なる鏡ですが、魔術師にとってはとても優秀に働いてくれるアイテムなんですよ。次元を繋げる事の出来る、この世に2つとない代物。私はそれを使い、まずは使い魔をリアルムへ解き放ち、そこに居る“私”に協力を頼んだ。……まだ、良い返事はもらっていないのですが」
「ふむ。さすがはオズワルドだな。これからの活躍に期待している」
「はい。このオズワルド、必ずや魔女の野望を打ち砕いてみせます」

 オズワルドは一礼し、引き下がった。
 翻る白いローブを、王は何処か寂しげな瞳で見つめた。

「ヴィルヘルムやシンシア、騎士、兵士、使用人……この城の殆どの者が好意的ではないだろう。だが、私は知っている……貴方の事を。ドロシーも、貴方の事を好いている」

 思わず、何を? と問い掛けたくなる言葉だが、オズワルドもまた、王の想いを知っていた為に訊き返す事はなかった。
 オズワルドは振り返らず静かに微笑むと、部屋を出て行った。

 ***


 中庭の芝生を踏みしめ、オズワルドは思い出した王の言葉に少しばかり表情を緩めた。これまで王が代わったのを何度も見届けてきたが、誰もオズワルドを対等に見る者は居なかった。皆、異形な存在だと疎んだ。けれど、今、王座に腰掛ける彼だけは違う。どう言う経緯でオズワルドの素性を知り得たのかは不明だが、信じる心は確かだった。だから、柄にもなく、オズワルドは嬉しかった。それに、ドロシーの純粋な笑顔。11年前、初めて顔を合わせた時、彼女だけは笑顔で歩み寄ってくれたのだ。あの時の笑顔が、今でも忘れられない。
 オズワルドは、何処までも広がる遠い青空を見上げ、瞳に強い意志を宿した。

「何としてでも護らなければ」

 ――――彼らが存在する、オレの居場所を。