彼と会う時は雨の日が多かった。世間ではこういう人のことを「雨男」と言うらしい。電車に乗るまでは晴れていたのに、改札から出ると空から糸のように雨が垂れていた。カバンから折り畳み傘を取り出して歩き出したら、背後から「入れて」と、さもあたりまえのように傘の中に入ってくる。ほら、やっぱり、今日も来た。

「また傘持ってないの」

「小春が持ってると思って」

悪びれなくそう言うので、甘やかしてはだめだと思いつつも、結局口をつぐんでしまう。

総士は、わたしに甘えている。わたしが何とかしてくれると思っている。ふたりで出かけても財布を出すのはわたしばかりだし、今だって、自分の方が背が高いくせに、傘を持とうともしてくれない。だからわたしは腕を中途半端に上げ、総士が濡れないように、と傘を傾ける。おかげでカバンはびしょびしょだし、お気に入りのトレンチコートはどんどん色が変わっていく。こういう気遣いに、総士は気づかない。

歩いていくと、社員寮の入り口で、花柄の傘がくるくると回っていた。近づいていくと、奈津が傘の水切りをしているところだった。

「おつかれ、奈津」

「おつかれ、小春。……傘さすの、下手すぎ」

奈津はわたしの濡れた肩を見て、困ったように笑う。いや、これは……と、言おうとして隣を見たら、つい今し方までいたはずの総士がいない。奈津に挨拶もせず、さっさと部屋に戻ってしまったのだろう。挨拶もできない、お礼も言わない。冷たいやつだ、と思った。





わたしたちが暮らす社員寮は、わたしたちの入社と同時に建てられたアパートで、それゆえ、入居者のほとんどが同期だった。トイレ・風呂別の1K、家賃はたったの6000円、駅から徒歩7分という優良物件だ。

部屋に入って、雨の音を聞きながら夕飯の準備を始めた。3月といえどもまだまだ寒い。ひとり暮らしだと、この時期は毎日と言っていいほど鍋が続く。あらかじめ切っておいた具材を鍋に放り込み、コンロの火をつける。

「ねぇ、まだ?」

振り向くと、いつの間にやってきたのか、また総士が立っていた。玄関の鍵をかけ忘れていたことを思い出す。住人のほとんどが顔見知りなので、セキュリティもついつい甘くなってしまう。総士の部屋はわたしの二つ隣なので、こうして突然やってくることも多かった。

「総士の分なんて、ないんだけど」

「嘘だ、まだ食材あるでしょ。冷蔵庫に」

「ちょっと、勝手に開けないで」

わたしの制止も聞かず、総士は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。我が物顔でテレビをつけ、勝手に飲み始める。

窓の外ではまだ雨が降り続いていた。このままずっと、やまなければいいのに。そう思いながら、わたしはふたり分の小皿を用意して、ポン酢と生卵を入れる。

総士のために食材を追加したのに、結局ふたりでは食べきれなかった。また明日食べればいい、と、鍋に蓋をして、コンロの上に置いておく。缶ビールを持ち上げると、まだ半分も残っていた。飲みきれないなら開けなければいいのに。文句は心の中だけで、口に出すことはできない。

洗い物を終えると、総士が横になって目を閉じていた。寝るなら自分の部屋で寝てよ、と体を揺らすと、「うん……」と形だけの相槌が返ってくる。ひとり暮らし用のこの部屋は、とにかく狭い。成人男性が横たわっているだけで、かなり窮屈に感じる。

眠っている総士を放置して、先にシャワーを浴びることにした。苛立ちと不安を洗い流すように体を洗い、化粧水と乳液で簡単に保湿をして、タオルで髪を拭きながら部屋に戻る。すると、さっきまで寝ていたはずの総士の姿はなくて、ああ、また勝手に帰ったのだな、と肩を落とした。何気なくカーテンを開けてみると、案の定雨が上がっている。本当に、雨の化身かと思うくらい、雨男だ。

渡部総士と出会ってもうすぐ丸5年になる。わたしたちが入行した銀行では、1ヶ月の研修期間のあと、男女一組ずつ各店舗に配属される。

わたしと総士は配属先が同じで、社員寮も同じで、なんなら苗字も同じだった。渡部総士と渡辺小春。「ナベ」の字が違うけれど、読み方はどちらも「ワタナベ」だ。紛らわしいので、上司や同期からは下の名前で呼ばれることが多かった。

苗字は同じでも、性格は正反対だった。総士のまわりには常に人がいた。研修施設では見知らぬ女子に馴れ馴れしく話しかけ、指導員に怒られてものらりくらりと交わし、そのくせ定期的に行われる業務テストでは一度も落ちたことがない。わたしは人見知りで友だちも少なく、テストだって人の倍以上勉強してなんとか合格点ギリギリを取るくらい要領も悪かった。初めは絶対に相容れないと思っていたけれど、毎日顔を合わせていれば、案外うまくいくものだ。

退勤時間がほぼ同じなので、必然的に一緒に帰ることが多かった。どこかの店に入って夕食を取ってから帰る日もあったし、どちらかの部屋でだらだらと過ごす夜もあった。

別に恋人ではなかったし、お互いを異性として意識していたわけでもない。その証拠に、他の同期が参加することもあったし、「昨日は小春の部屋でゲームをした」なんて、平然と周囲に公言していた。社員寮の1階には共用スペースがあり、そこで同期数人と集まってご飯を食べることも多々あった。男女が一緒の部屋で過ごしたって、冷やかされることもなければ、疑惑の目を向けられることもない。社員寮で、住んでいるのは同期ばかりのためか、男女隔てなく仲間意識が強かった。

さすがに5年も経てば、結婚や転勤で社員寮から出ていった人もいるけれど、まだ大半は残っている。今でも定期的に共用スペースで飲み会は開催されるし、誰かの部屋でだらだらとテレビを見ることもある。このまま、何も変わらなければいい。
 




翌日出勤すると、なんだか職場の空気が浮ついていた。それもそのはず、今日は内命が出る日だ。総士は2年目で別の店舗に転勤になったけれど、わたしは5年経っても今の店舗から変わっていない。

なんとなく今回もこのままだろうと思っていたけれど、締め作業をしている最中、店長に呼ばれた。◯◯店法人営業部に転勤です、と言われた。あっけなかった。

内命を受けたのは店舗全体で15人だった。いつも見送る側だったから、見送られる側になるのは初めてだ。とはいえ、引越しを伴うような転勤ではないし、新店舗に知り合いもいるので、特段感慨深くもない。強いて言うなら、荷物の整理がめんどくさい、そのくらいだ。

送別会は1週間後、職場近くの居酒屋で行われた。他の部署とも合同だったので、店内はほぼ貸切状態だった。

「お酒、あんまり飲めなかったよね。むりしなくていいから」

ビールをちびちび飲んでいると、隣に座っていた野中先輩が気を遣ってウーロン茶を頼んでくれた。先輩はわたしが配属された当初からずっとお世話になっている人だ。美人で優しいから、総士がものすごく懐いていた。先輩も別の店舗に転勤することになっていた。同じタイミングで転勤なんて、わたしたち、おそろいだね。離れても、困ったことがあれば連絡してね。そんな言葉を屈託なく言うので、美人は心まできれいなのか、なんてことを思いながら、わたしは先輩のコップにビールを注いだ。

「そういえば、どうして小春先輩って下の名前で呼ばれてるんですか?」

1月に転勤してきたばかりの後輩が、斜向かいから身を乗り出して聞いてきた。言葉に詰まっていると、真正面にいた課長が枝豆をつまみながら答えてくれた。

「昔、ワタナベってのがふたりいたんだよ。その名残かな」

「そう。小春ちゃんの同期の男の子」

野中先輩が笑みを浮かべながらうなずく。

「へぇーっ。そんな理由があったんですね。って、わたしもつい下の名前で呼んでますけど」

「いいよ、小春で」

どうせ転勤したら関わることはないし、と、心の中でつけ足した。わたしも、総士のことを言えないくらいには冷めている。

「苗字が同じだと、結婚してもいろいろと楽そうですよね」

「なぁに、それ」

「わたしの同期がこの間結婚したんですけど、やっぱり、免許証とか、銀行口座とか、手続きが面倒らしくて。ほら、銀行の窓口でも名前変えるのって面倒じゃないですか。そういうの聞いたら、苗字が同じだと楽なのかなぁ、って……」

「ほら、そんなしょーもないこと言ってないで。部長にお酒でも注いできてくれ」

課長がわずらわしそうに顔をしかめると、後輩は「はぁーい」と気だるい返事をして席を立った。わたしはうつむいて唇を噛んだ。





同じことを、ずいぶん前にも言われたことがある。

「ワタナベ同士ってさ、こっそり結婚してもバレないよね」

社員寮の共用スペースにて。同期数人で集まって飲んでいたら、突然奈津がそんなことを言ってきた。総士はおなかを抱えてゲラゲラと笑い、わたしは大げさに顔をしかめた。

「確かにな! じゃあ、俺たち結婚しとく?」

「ちょっと、冗談言わないでよ。それに、『ナベ』の字が違うじゃん」

「あ、そうだった。でも、ほとんど変わんないよね。『高橋』の『タカ』とかも、微妙に漢字が違う人いるけど」

奈津が変なところに興味を持つので、隣にいた同期の男の子も首を傾げた。

「読み方は同じなのに、漢字だけ変えるのって面倒だよなぁ。ま、お前らが結婚したら盛大に祝ってやるから、遠慮なく言えよ」

「やったな、小春。結婚したら、俺が養ってやるからな」

「総士の年収じゃあ、不安しかない」

わたしたちは冗談を言い合いながら、いつまでも、いつまでも笑っていた。やがてみんなが酔いつぶれてしまったので、お酒が飲めないわたしは、ひとりで洗い物をしていた。すると、総士があくびをしながら立ち上がって、わたしの隣で皿を拭くのを手伝い始めた。だけど、真面目に手伝ってくれたのは最初だけだった。総士はすぐに手をとめて、携帯電話を操作し始めた。

「ちょっと、手伝うなら真剣に……」

「いや、気になって」

「何が」

「苗字のこと」

「……何で、そんなに」

「ほら、窓口に同じパターンの人が来るかもしれないじゃん」

その冗談めかした口調とは反対に、総士の横顔が妙に真剣だったから、どう答えようか、少し迷った。

「……そんなの、どうでもいいから。ほら、ちゃんとお皿拭いて。そのあとみんな起こして」

「はいはい」

総士は携帯電話をポケットにしまい、おとなしく濡れた皿を受け取った。蛇口から出る水の音が、なぜかさっきより大きく聞こえた。


――わたしたちは。
ある時、ものすごく近かった。


決定的な一言を口にしたら、少しでも手が触れてしまったら、どうにかなってしまいそうな空気があった。お互い確かに意識していたはずなのに、どれだけ一緒にいても、一線を越えることは決してなかった。同期だし、社員寮だし、後々面倒になるのを敬遠したのかもしれない。

それに、総士はモテた。特定の恋人を作るタイプには思えなかった。誰にでも優しく、誰にでも冷たい。そんな人と関係を持ってしまったら、自分が傷つくことは目に見えていた。同期以上、恋人未満。同じ店舗に配属された仲間で、相棒。わたしたちは、これでいい。そう思っていたのだ。





送別会の翌日は、休みだった。

目が覚めてもなかなか起き上がる気になれなくて、昼までずっと布団に入っていたら、なんだかやけに外が騒がしい。蛇のように布団から這い出て、玄関の扉を少し開けてみると、作業着の男の人が、二つ隣の部屋にダンボールを運んでいた。

嫌な予感がした。心臓が別の生き物のように暴れ始めた。わたしは寝間着のまま廊下に飛び出して、開け放たれたその部屋の前に立った。

男の人の後ろ姿が見えた。作業着の人と何か話している。床には大量の段ボールが積まれていた。

「総士」

縋るように名前を呼んだ。だけど振り向いたその顔は、わたしの知っている顔じゃなかった。

「あっ、すみません。うるさくして」

全然知らないその人は、わたしに向かって申し訳なさそうに頭を下げた。

「引っ越してきました、中村です。よろしくお願いします」

*

逃げるように部屋に戻って、また布団を頭からかぶった。心臓がうるさい。耳鳴りがひどい。目を閉じても、目蓋の裏にさっきの光景が焼きついて離れない。

「……総士」

名前を呼んでも総士は来ない。普段は呼ばなくても来るくせに、こういう時に限って現れない。冷たい、とても、冷たい人だ。姿が見えないのは、きっと、空が晴れているから。


*


4年前の、4月3日。
社会人2年目の春だった。

もう店舗は別々だったけれど、わたしと総士は一緒に夕飯を食べる約束をしていた。1年間一緒に働いた慰労会をしよう、と総士が言い出したのだ。

「小春の部屋で鍋にしようぜ」

「何で鍋なの。もう春なのに」

「楽だし、安く済むじゃん。俺、鍋すきなんだよ。シンプルな水炊き。ポン酢にね、生卵入れて食べるのが最高」

「でも、せっかくだから、外食でもいいんじゃ」

「いいんだよ。俺、部屋で食べる鍋がすきなんだ。時間気にしなくていいし、金ないし。それに小春、酒飲めないだろ?」

「……分かった」

当日、仕事が終わって携帯電話を見ると、総士から「残業で遅れる」と連絡が来ていた。買い出しまでわたしに任せるのか、なんてげんなりしながらスーパーに寄り、具材を切ったり部屋を片付けたりしながら総士を待っていた。待っている間に、雨が降り出した。雨音を聞きながら、いつまでもいつまでも待っていた。

どれだけ時間が過ぎても、総士が来ることはなかった。





事故だった。歩道に暴走車が突っ込み、総士の他に数名が犠牲となる、悲惨な事故だった。運転していたのは80歳を超えたおじいさんで、アクセルとブレーキの踏み間違いという、どこかで聞いたことのあるミスが原因だった。

ニュースでも大々的に取り上げられ、事故が起きる瞬間の映像はインターネットで拡散された。傘をさして信号待ちをしていた総士が、車に吹っ飛ばされる瞬間を見た。何度も、何度も見た。

総士の葬儀には、同期や上司など大勢が参列した。みんな泣いていたけれど、わたしひとりだけ、どうしても泣くことができなかった。

わたしはきっと、受け入れることができなかったのだ。総士がいないということを。だから雨が降ったら鍋を作るし、ポン酢には必ず生卵を入れるし、缶ビールだって冷蔵庫に常備している。総士の幻影を作り出して、頭の中で会話をしているのだ。

わたしと総士は、付き合ってなんていなかった。すき、とか、愛してる、とか、そんなセリフを言ったこともないし、手だって繋いだこともないし、当然キスだってしたことがない。友だち以上、恋人未満。ワタナベAとワタナベB。同じ会社の同期で、同僚で、相棒。ただ、それだけだった。

ありえないものがあればいい、と思う。苦いパンケーキ、黒いホイップクリーム、鋼鉄の翼、やまない雨。絵本に描かれているような奇跡が起これば、総士にだってまた会えるだろう。

総士と会話をするたびに、心にやわらかい棘が刺さった。こんなことをしてもむだなのに、なんて思いながらも、妄想をやめられなかった。一緒に寮まで帰っていたあの時。部屋でご飯を食べていたあの時。想いを伝えていたら、もっと別の結末を迎えていたかもしれない。そんなありもしない「もしも」を、頭の中で繰り返した。臆病なわたしは、妄想の中ですら、その一言を伝えられなかったのだけれど。





「……また、俺のこと考えてたの」

頭の中で、声がした。ゆっくりと目を開けると、総士がわたしの顔をのぞき込んでいた。遠くから雨の音がする。やっと、会いにきてくれたのだ。

「考えて、ない」

「嘘」

「嘘じゃない」

意地になって言い返すと、総士は泣き出しそうに目を細めた。わたしは震える唇をきつく結んだ。総士が帰ってこなかったあの日だって、葬儀の時だって、そのあとだって、わたしは一度も泣いたことはない。泣いてしまったら、認めてしまう。総士がもう帰ってこないと、諦めてしまう。あの人の体が雨に濡れ、鼓動を奪われ、冷たくなってしまったなんて、そんなの、絶対受け入れたくない。

「何でも言えばいいじゃん。俺たち、コンビだろ」

「……総士の、部屋、が」

ああ、もうだめだ。ずっと我慢してきたのに、一度溢れたらとまらなかった。

「ずっと、総士の部屋だと思ってたのに。新しい人が入ってくるんだって。もう、総士の部屋じゃなくなっちゃった」

「そんなことで泣くなよ」

ばかだなぁ、と笑いながら、総士はわたしの涙を指で拭った。

「変わるのは、あたりまえだろ。今まで空き部屋だったことが奇跡だし。お前だって、転勤するじゃん」

「そうだけど」

「でも、変わらないものもあるよ」

「何それ」

「……自分の胸に聞いてみな」

昔と変わらない、低くて優しい声だった。誰よりも近くにいて、誰よりもその声を聞いていた、あの頃。あの頃から、伝えたい言葉は一つしかなかった。

「わたしは、総士が、すき」

求めるように手を伸ばした。一度でいい。その頬に触れてみたかった。総士は目尻をくしゃくしゃにして、

「知ってたよ、そんなこと」

伸ばした手が虚しく空中を掻いた。わたしは子供のように声を上げて泣いた。どれだけ涙を流しても、もう総士が拭ってくれることはなかった。


*


最終出勤日。

業務を終えたわたしは、ロッカーや机の整理に追われていた。使い古した業務マニュアルやノート、いつもらったのか分からないプリントまで出てきて、どんどん荷物が増えていく。もっとこまめに整理すればよかったのだけれど、ずっと、過去から逃げるように避けてきたのだ。

「見て、小春ちゃん」

わたしと同じくロッカーの整理をしていた野中先輩が、1枚の写真を見せてきた。

「懐かしい写真が出てきたの」

それは、かつての仲間との集合写真だった。総士が真ん中で花束を持っている。1年目の終わり、総士が転勤する時の送別会で撮ったものだ。当時の部長がご丁寧に全員に写真を渡してくれた、ような気がする。わたしももらったはずだけど、見ることが苦しくて、ずっとどこかにしまったままだ。

「わたし、こんな顔でしたっけ」

端っこに写っている自分を見て顔をしかめた。今より髪が短くて、なんだか野暮ったい。スーツが全然似合ってない。

「あんまり変わってないけど、大人っぽくなったよ」

野中先輩はくすくすと少女のような笑い方をした。野中先輩は写真よりも一層きれいになったけれど、その笑い方や優しさは昔のままだ。変わっていくものと変わらないもの。この世界には、どちらも存在するのかもしれない。

「みんなかわいかったな。後輩はみんなかわいい」

その声が少しさみしそうなことに気づいて、急にわたしも悲しくなってきた。ただの職場、だと思っていたのに。転勤したら、総士とここで過ごした思い出もなくなってしまうような気がした。

「あの、先輩」

「ん?」

「お世話に、なりました」

涙目になっていることがバレないように、深く頭を下げた。先輩は「こちらこそ」なんて優しく言って、わたしを軽く抱き寄せた。そんなことをされたら、いつまでも顔を上げることができない。





春は雨の日が多い、と、昔どこかで聞いたことがあるような気がする。傘をさしながら社員寮に向かうと、入り口に奈津が立っていた。おかえり、ただいま、と、いつもと同じように声をかけ合う。

なぜかわたしは今になって、奈津の髪がずいぶん伸びていることに驚いた。4年前は肩くらいだったのに、一つに束ねた髪の先は腰くらいまである。少しずつ、少しずつ、変わっているのだと気づいた。

奈津はポニーテールをちょっと揺らして、穏やかに微笑んだ。

「傘、うまくさせるようになったんだ」

「……うん」

わたしは小さくうなずいて、青色の傘を閉じた。

「もう、晴れたから」

空を見上げると、雲間から少しだけ太陽が顔を出していた。もうわたしの肩は濡れない。



<完>