「ここが、『やわたのはちまんさん』の名で親しまれる石清水八幡宮です」

前期の講義もあとわずか、まもなく試験期間が始まるという7月半ば。

見上げれば夏の色をした空と入道雲、耳をつんざく蝉の声。じりじりと照りつける太陽光に肌の奥底まで焼かれそうになる夏の盛り。わたしは――いや、わたし「たち」は、石清水八幡宮を訪れていた。

流暢な説明をしている間崎教授の顔には、わたしに見せるような嘲笑ではなく、穏やかな外向きの笑みが仮面のように張りついている。無垢な学生たちはほぉー、とかへぇーと興味深そうにうなずき、ある者はメモを取り、またある者はあこがれの眼差しを教授に向けている。わたしは一歩離れた場所から、冷ややかな目でその光景を眺めていた。

本日は文学部の特別講義。普段の講義とは違い、実際に歴史ある場所を訪れて学びを深める、いわば課外授業だ。今年の引率者が間崎教授と決まると、なぜか希望者が殺到し、結果的に参加者は30名を超えた。例年は十数人ほどらしいから、教授の効果は絶大だ。

まぁ、確かに他の教授と比べたら歳も近いし、話す内容も個性的でおもしろい。性格はともかく外面はよいので、男女問わず人気なのも納得がいく、のかもしれない。

「石清水八幡宮は、創建以来裏鬼門を守護する国家鎮護の社として崇められてきました。鎌倉時代に起きた元寇の際、境内から放たれた巨大な矢が元軍に襲いかかり撃退した、という言い伝えから、厄除け開運の神様としても信仰されているんですよ」

「それって、パワースポットってことですか?」

「最近の言葉で言うとそうなりますね」

学生の質問に、教授は夏の暑さを緩和させるような笑みで答えた。谷川のせせらぎのようにすずしげな笑顔だけれど、わたしはうさんくささしか感じない。ほんの2ヶ月ほど前までは、わたしもすっかり騙されていたものだ。本性を知っているとこうも見え方が違うのか、と、腕を組んで思案するのはわたしだけ。あのさわやかさは演技です、なんて言ったところで、きっと誰も信じないだろう。

「こうして南総門から見ると、本殿が少し西側を向いているのが分かりますか。これは、御神前にて参拝したのち帰る際に、八幡大神様に対して真正面に背を向けないよう中心を外しているからなんですよ」

おおーっ、と、一部の学生から歓声が上がった。教授ってすごいですねぇ。詳しいですねぇ。さすがですねぇ。四方八方から、とってつけたような褒め言葉が飛び交う。教授の博識さなんて、とっくの昔に知っている。辞書のように膨大な教授の知識は、耳にたこができるほど聞いているのだから。

「どうしてあそこの石垣は切り取られているんですか?」

「あれは『鬼門封じ』。牛の角を持ち、虎の皮を身にまとった鬼が来るといわれる丑寅(うしとら)の方角、すなわち鬼門を封じるために、社殿の石垣を切り取った造りになっているんです」

「教授、あっちは?」

「あれは京都府から文化財指定を受けている……」

一言一句詰まることのない説明は、まるで台本を読む人気俳優のよう。風に揺られてなびく髪さえも、何かの演出のように感じてしまうから憎らしい。「その笑顔、家で練習してきたんですか?」と、嫌味の一つでも言ってやりたいところだけれど、残念ながら、それをするには教授との距離が離れすぎている。駄々をこねる子供のように、頬を膨らませることしかできないのが情けない。

本当はあんな話し方、しないくせに。誰にも聞こえぬよう、心の中で吐き捨てる。わたしが少しでも質問しようものなら、「相変わらず無知だな」とか「それでよく入学できましたね」と、教授という立場にあるまじき台詞を連呼するのが常だ。それなのに今はいやな顔一つせず、なんなら口元に笑みすら浮かべて丁寧に答えていようとは。なぜこんなにも、人によって態度が違うのだろう。この二重人格め。

怒りを鎮めるように、わたしはひとりぽつんとカメラを構えた。ファインダーをのぞいてみると、教授の小さな背中が見えた。質問をする学生と答える教授が、まるで映画のワンシーンのように切り取られて映っている。

――あ。

首を絞められているように、息が、苦しい。

気づいてしまった。それが、普段なら絶対に見えるはずのない光景だと。だって、そこにいるのはいつもわたしなんですもの。教授はいつも、わたしの隣にいるんですもの。自分らしくない感情をごまかすように、わたしは本殿に向けてシャッターを切った。いつもならこうして写真を撮ったら、すぐにカメラをのぞき込んでくるくせに。今日はその仕草すら見せない。隣にいるはずの姿は、はるか遠く、手の届かない場所にある。

構えていたカメラを下ろすと、自然と口から息が漏れた。ついこの間教授と宇治を巡ったりしたものだから、その時の感覚で来てしまったんだ、きっと。よくよく考えれば、これは大学の講義。あの時と状況が違うのは、当然のことじゃない。

もっと質問をしたいなぁ、近くで説明を聞きたいなぁ、なんて、子供じみたわがままかしら。普段ならもっと気軽に聞けるのに。こうも人数が多くては、最前列に行くことすら難しい。

曇り空のようなわたしの表情とは対照的に、周囲にいる人々の表情は明るい。本殿の鮮やかな美しさや、極彩色の彫刻の壮麗さに感心し、感動する、その心の高まりがシャッター音となってあちらこちらから聞こえてきた。

最近は本当に、カメラを持っている人が多いなぁ、と思う。観光に来ている人たちだけじゃない。同じ文学部の学生の中にも、わたしと同じようなカメラを持参している子がいる。高校生の時は、カメラを持っている子なんてわたし以外誰もいなかったのに。同じ趣味の人が増えるのは嬉しいけれど、自分の存在意義や価値が薄まりそうで、少しだけおそろしくもある。

「間崎教授、見てください」

ひとりの女の子が、カメラを教授に差し出した。ウェーブした茶色い髪の毛が、期待と自信を表すように、ふわふわと左右に揺れている。教授はいつもわたしにしているように、顔を近づけて写真をのぞき込んだ。距離が遠すぎて、どんな表情をしているのかは見えない。

その瞳に、どんな風景を映しているの。どんなことを思っているの。

――ああ、何も、見えないわ。

「きれいに撮れていますね」

「でしょう? また現像してあげますよ」

蝉の鳴き声に紛れて聞こえてきた声が、カラフルに弾けた。その会話を聞いた瞬間、夏の盛りなのに、木枯らしが吹いたように、心がひゅうっと寒くなった。

2本の足は、ついに歩くことを諦めてしまった。学生の群れがどんどん遠ざかる。教授がどんどん離れていく。蝉の鳴き声も、周囲の人の声も、リモコンを操作したように小さくなった。あれほど鮮明だった本殿の朱色もぼんやりとくすんで、なんだか少し見えづらい。

……ああ、そうか。

暑さを取り戻した風が、慰めるようにわたしの頬を撫でていく。そんなこと、してくれなくたってかまわないのに。

これはわたしの、傲慢な勘違いの結果。少し一緒にいただけで、写真を褒めてもらえただけで、自分の写真が特別なのだと錯覚した。わたしの、どうしようもない幼さが招いた感情。

写真さえ、手に入ればきっと。
わたしじゃなくても、いいのね。





いつもならすぐに教授に送るはずの撮影データを、この日ばかりはどうしても送る気にはなれなかった。どう名づけてよいのか分からない感情が、心の隅にかびのようにこびりついて、いつまでもいつまでも離れない。あの子はどんな写真を撮ったのだろう。それはわたしが敵わないと思うような、すばらしい写真なのかしら。もしそうだったら、わたしのちっぽけな矜持が行き場を失ってしまう。そんな気がしてこわくなった。

教授と再会したのは、それから1週間ほど経った日のこと。金曜2限、「日本古典講読基礎論」の講義に出ると、以前より学生の数が増えていた。先日の特別講義で教授に興味を持ったのかしら。あの時、教授に写真を見せていた女の子が、ちゃっかり1番前の席に座っていた。

わたしは相変わらず真ん中より少し後ろの窓際の席に座って、教授の話を聞いていた。文字を書こうとしたら重たい黒髪が帳のように落ちてきて、なんだか夜になったみたいだった。エアコンから吐き出される乱暴な風が、ごおお、と獰猛な獣のように低く唸っている。いつもなら気にならないその音が、やけに大きく鼓膜を揺らして集中できない。





結局、その日の講義は内容が頭に入らないまま終わってしまった。カバンを肩にかけ、がやがやとうるさい教室から逃げるように飛び出した。それなのに、そんな時に限ってこの人は「琴子さん」と、他の学生にはしない呼び方で、わたしの名前を呼ぶのである。

振り返った先にいた教授は、怒っているような、心配しているような、今まで見たことのない顔をしていた。でもたぶん、わたしの方がもっと変な顔をしているんだろう。悔しさと怒りとどうしようもない悲しみが混ざって、泣き出しそうになっているのが自分でも分かった。

「写真はまだ? 待っているんだが」

「写真って……石清水八幡宮のですか?」

わざとすっとぼけた声を出してみると、教授は「あたりまえだろう」と、眉と眉を近くした。

「あの時、撮っていたでしょう。いつもならすぐ送ってくるくせに」

「……それはその、他の人からもらっていたようなので……」

「は?」

「だってあの時、そんなことを他の人と話していたじゃないですか。その子からもらえば、わたしの写真は必要ないと思って。その子の方がきれいに撮っているかもしれないし、わたし、それまで空や植物を中心に撮ることが多くて、建物とか、あまり自信がなくて、だから」

一度口に出したら、蛇口をひねったように、言葉が溢れ出てとまらなくなった。教授は、悪いことなんて何もしていないのに。あの子だってそう。教授に写真を見せただけ。たったそれだけ。

わたしよりいい写真を撮る人なんて、世の中に星の数ほどいるのだ。知っていたわ、そんなこと。言われなくても分かっていたわ。自分が何者でもないということくらい。それなのに、少しだけ忘れてしまっていた。

何の技術もない。経験だって浅い。賞を獲ったことすらない。

――そんな、何の意味もないわたしの写真を。

家族以外で初めて褒めてくれたのが、目の前にいるこの人だった。講義中穏やかに微笑んでいてもどこか遠くを見ていたり、優しく語りかけているように見えてもどこかうわの空だったり。たぶん本来は、おそろしく他人に興味のない人間なのだろう、と、たまに思う。そんなこの人がわたしの写真を必要だと言ってくれたことで、価値を与えてもらったような気がしたのだ。自分の下手くそな写真でも、誰かの特別になれるのだと。そう、勘違いをしてしまったのだ。

目の奥がつん、と熱くなった。涙なんて流しても、きっと目の前のこの人には伝わらないだろうし、カメラに関して泣くなんて、もっと本気で取り組んでいる人に失礼だ。肩書きなんて何もない。わたしは所詮、ただの女子大生でしかないのに。

少し、思案するような沈黙が流れた。てっきり、「何をひとりで盛り上がっているんだ」とあきれられたり、「突然どうしたんだ」と驚かれると思っていたのに。予想に反して教授は、何かを探すように腕を組んで、じっと考え込んでいる。それから思いついたようにぽつりと、

「今、石清水八幡宮の写真はあるかい」

「……ありますけど」

「見せてみなさい」

「どうして」

「いいから」

わたしは拒否することもできず、携帯電話を取り出した。撮影した写真はすべて携帯電話からでも見られるようにしてあるのだ。言われるがまま石清水八幡宮の写真を表示させ、乱暴に教授に差し出す。

眼鏡のレンズに、写真がちかちかと反射する。いつもよりずっと長く、まるで読書をするかのようにじっくりと眺める。いつもなら嬉しく思うその時間すら、判決を待つ被告人のような、重く苦しい時となった。

ああ、一体どう思われているのかしら。失望させていないかしら。ぐっと拳を握り締めて待っていたら、真剣だったその顔が、綿菓子のような微笑みに変わった。ぶっきらぼうにカメラを差し出す。

「早く送ってくれないか。待つのはあまり得意じゃない」

「で、でも写真は、あの子からもらったんじゃ」

「……君は本当に察しが悪いな」
 
いつもと同じく、あきれたように肩を落とす。いつもよりもっとあたたかい眼差しをわたしに向けて。

「どの写真でもいいわけじゃない。……君の撮った写真だから、見たいんだ」

いつもの嘲るような笑みではない。他の学生に見せる作り笑いでもない。飾り気のない、春の木漏れ日のようにあたたかで、優しい微笑みだった。

――ああ、なんて、単純なこと。

長い夜が明けたように、どんどん心が明るくなった。あれほど深くかかっていた靄は、もうどこかへ消えてしまった。

「……送ります! すぐに送ります!」

わたしは携帯電話を握り締めながら全力で叫んだ。近くにいた学生の何人かが怪しげな目をこちらに向けた。教授は何も応えることなく、わたしに背を向けてすたすたと廊下を歩いていく。石清水八幡宮の時と同じように、どんどんわたしから離れていく。

だけど、あの時のようなさみしさはない。悔しさだって悲しさだって、教授が全部、魔法のように消してしまった。わたしは喜びをぐっと噛み締めて、全速力で教授と反対方向へ走り出した。

早く家へ帰って、教授に写真を送らなければ。