伊藤久右衛門は、宇治に本店を構える老舗の甘味処だ。パフェを始めとする抹茶スイーツはあらゆるガイド本やテレビで特集が組まれるほど有名で、その味を求めて遠方から訪れる人があとを絶たないのだとか。

日曜日というだけあって、店の前には長蛇の列ができていた。さすが京都屈指の人気店だ。おなかの虫がぎゅるぎゅるとうるさいけれど、ここまで来たら諦めるわけにはいかない。20分ほど待ったところで、わたしたちはようやく席に着くことができた。

「おいしそう!」

メニューを開くと、豪華な抹茶パフェが目に飛び込んできた。ぷるぷるとした抹茶ゼリーに、もちもちの白玉。それに、大粒の大納言小豆。写真を見ただけでもおいしいと分かる。目を輝かせるわたしを見て、間崎教授はあきれたように息を吐いた。

「甘味ではなく昼食が食べたいんでしょう、君は」

「そ、そうでした」

わたしは軽く咳払いをしてメニューをめくった。伊藤久右衛門といえば甘味のイメージが強かったから、ついつい甘いものを頼みたくなるけれど、こうして見ると茶そばもおいしそうだ。鮮やかな緑色の麺ときざみ海苔を見ていると、ごくりと喉の奥が鳴った。ああ、今にも抹茶の香りが漂ってきそう。

「それにしても、よく伊藤久右衛門を知っていたね」

「やっぱり、抹茶パフェは有名ですから。それに以前、京都駅前店で抹茶のチーズケーキを買ったことがあるんです。でも、食事をするのは初めて」

そう、あれは忘れもしない入学試験の日。寝る間も惜しんで勉強したかいもなく、まったく手応えを得られなかったわたしは、涙目になりながら206系統の市バスに乗って京都駅に戻った。もしかしたら二度と京都に来られないかもしれないという強迫観念に駆られ、京都タワーをひとりで上り、ああ、後期試験はどうしよう、何も対策していないわと、からっと晴れた京都市内を一望しながら嘆いたことは、まだまだ記憶に新しい。その帰り、伊藤久右衛門京都駅前店に立ち寄ったのだ。

抹茶だいふく、抹茶ロールケーキ、そして抹茶の生チョコレート。店頭に並ぶ甘い抹茶スイーツは、傷心のわたしを癒すには十分だった。悩み悩んだ末、「家族への土産」を言い訳に、大きな抹茶のチーズケーキを購入した。家族とともに食べたあの濃厚な抹茶の味は、きっと一生忘れまい。

「ご注文はお決まりですか」

かつて味わった幸福に思いを馳せていたら、店員が注文を聞きにやってきた。教授はメニューを指差して、

「この茶そばと、抹茶パフェを」

――ん? 抹茶パフェ?

かしこまりました、とうなずいて、店員が去っていく。わたしはぽかんとその背を見送り、それから教授の方を見た。

「教授。わたし、さすがに両方は食べられません」

「君のために頼んだんじゃない」

「じゃあ、誰が」

問いかけて、はっと口をつぐんだ。目の前にいる大学教授を、観察するようにじぃっと見つめる。

「……教授、お昼ご飯は?」

「君と会う前に済ませました」

「さっきも茶団子を食べていましたよね」

「そうですね」

「もしかして、甘いもの、おすきなんですか?」

「……そういえば、先日は写真をありがとう。なかなかよかったよ」

「今、話題を逸らしたでしょう」

教授はわたしから逃げるようにお茶をすすった。先日、というのは、一緒に金福寺へ行った時のことだ。どうやらわたしの撮った写真は教授のお気に召したらしい。それは大変光栄なことだけれど、だからといって休日に宇治まで呼び出すとはいかがなものか。講義中の、穏やかで人あたりのよい印象はどこへやら。もはやわたしには、目の前の男性が普段講義をしている大学教授と同一人物であるとは到底思えない。

「気に入っていただけてよかったです。今日の分もまた送りますね」

わたしはカメラを手に持って、今日撮った写真を確認した。永観堂の臥龍廊や青もみじ、そして三室戸寺のあじさい。少しずつ、少しずつ。京都の風景が増えていく。それはおもしろいと同時に、とても誇らしいことだ。

「前から思っていたんだが、ずいぶん大きいカメラだね」

ふと顔を上げると、正面にいる教授が、興味深そうにじっとカメラを見ている。恵文社で出会った時と同じ瞳だ。もう何年も使っているから見慣れてしまったけれど、確かに、わたしの手にはややあまる大きさだ。

「『Canon EOS 6D』という機種です。これでも、フルサイズ一眼の中では1番軽いんですよ。若い女性だと、ミラーレスを使う人が多いんですけど……」

「どうして御坂さんはそれを?」

「『せっかく写真を始めるなら本格的にやりなさい』と、父が奮発して買ってくれたんです。確かに少し大きいけれど……イメージセンサーがフルサイズなので画質もいいし、結構気に入っているんです」

「では、お父さんのためにもたくさん写真を撮らないとね」

「……そんなことを言って、本当は自分が撮ってほしいだけなんじゃないですか」

「さぁ、それはどうかな」

教授は試すようにふふっと笑う。心に広がった動揺をごまかすように、わたしは慌ててお茶を喉に流し込んだ。

危ない危ない、流されるところだった。この人、本当に微笑みだけは超一級なのだから、気をつけないと。うっかり心を許したら、次はどこに呼び出されるか分かったものじゃないわ。

ちょうどよいタイミングで、店員が「お待たせしました」と注文の品を運んできた。

「茶そばと抹茶パフェでございます」

そう言って、彼女がわたしの目の前に置いたのは抹茶パフェ。そして教授の前には茶そば。わたしはぐっと唇を真一文字に結んだ。ああ、どうしよう。肩が微かに震えてしまう。

「……人を見た目で判断するのは、よくないと思う」

先ほどの微笑みはどこへやら。教授は拗ねた子供のように顔をしかめ、茶そばをわたしに差し出した。