京阪宇治駅の改札を出ると、宇治川のたもとにある甘味処が目に入った。

「御茶屋つうゑん」というのれんを背景に、見覚えのある男性が、外の席で茶団子を食べている。曇り空なんて気にもせず、せせらぎに耳をすませるように宇治川を眺めているその姿は、映画のワンシーンみたいに様になっていて、本当にわたしはこの人と待ち合わせをしているのかしら、と、一瞬戸惑う。途端に自分がお化粧をしていないことや、高校生の時と変わりないシャツとジーンズが気になり始めて、でももうどうすることもできなくて、乱れた前髪だけを手ぐしで梳く、悪あがき。信号が青に変わると同時に駆け出すと、ちょうど間崎教授がこちらを向いたから、歩く速度をもう一段階上げる。子供らしさを武器にして、息を切らして駆け寄るけれど、そんな努力を蹴落とすように、鋭い視線で貫かれた。

「遅い」

「……これでも、急いで来たんですけど」

思いがけない言葉に、思わず声が低くなる。突如永観堂から宇治へと呼び出されたのが約1時間前。一目散にここへ来たことを、もう少し褒めてもらいたいものだ。しかも今日は、雨の降っていない日曜日。忙しさにがんじがらめにされていたわたしに、ようやく訪れた自由時間。それを奪っておきながら、何たる物言いでしょう! 

講義中は物腰穏やかなくせに、いざこうして面と向かって話してみると、まったく印象が違う。強引だし、嫌味っぽいし、全然優しくない。

「御坂さんも食べるかい」

文句を言おうと口を開いたわたしに、教授は皿の上にあった茶団子を1本差し出した。

「……ありがとうございます」

真珠のようにてらてらと光る茶団子を見たら、文句の代わりにお礼の言葉が出てしまった。だって、数秒前までいらだったようにわたしを睨んでいたくせに、こんなにおいしそうな茶団子をくれるなんて。茂庵でもアイスティーをご馳走してくれたし、なんだかんだ、いい人なのかも。

わたしは茶団子を受け取って、教授の隣に腰かけた。一口食べたら濃厚な抹茶の味が口内いっぱいに広がって、あっという間に頬がゆるんだ。おいしい。1時間かけて宇治までやってきたかいがあった、なんて、単細胞なわたし。

「それで、ご用件は何ですか」

「実は、御坂さんに撮ってほしいものがあるんです」

「撮ってほしい? あっ、もしかして、平等院鳳凰堂ですか?」

「……君は教科書に載っているようなところしか知らないんだな」

教授は心底あきれたように息を吐いた。前言撤回。やっぱりこの人、性格悪い。思っても口に出すことはできなくて、もらった茶団子を獣のように食いちぎる。

「三室戸寺って知って……いや、知らないでしょう」

「き、決めつけないでください。……知らないですけど」

「今の時期、あじさいが見頃でね。君の実力で美しく撮ってほしいんだ。カメラは持ってきていますね」

「持っていますけど……わたしのこと、便利屋だと思っていませんか」

「もうお代は払ったでしょう」

「お代って」
 
わたしはぴたりと動きをとめた。まさに今、手に持っているものをじっと見つめる。

「……もしかして、このお団子?」

教授は素知らぬ顔で曇り空を見ている。わたしは悔しさを押し殺すように唇を噛んだ。

しまった。食べてしまった。





三室戸寺は、「つうゑん」から20分ほど歩いたところにある。ゆるやかな坂を上り山門を抜けると、視界いっぱいのあじさいがわたしたちを迎えた。

「わぁ、きれい!」

思わず乙女のようにはしゃいでしまった。青、紫、そして桃色。右を見ても左を見ても、色とりどりのあじさいが笑うように咲き誇っている。教授いわく、このあじさい園には80種類、約2万株も存在しているのだとか。進めば進むほどあじさいの海に身を浸しているような気分になって、思わず泳ぎ出したくなる。

「見てみなさい、御坂さん」

興奮しているわたしのはるか先で、また教授が手招きしている。歩み寄って見てみると、そこにあったのはハートの形をしたあじさいだった。

「わっ、すごい! かわいいです」

「この寺では有名なんだよ。ハートのあじさいを見つけると、恋が叶うとか。……女性は、こういうのがすきでしょう」

「もしかして……これを見せるために、わたしを連れてきてくださったんですか」

「まさか。たまたまだよ」

教授はぶっきらぼうに答えると、すたすたと先に進んでいく。わたしはふふっと微笑んで、その気恥かしそうな背中を追いかけた。





三室戸寺は「京都の花寺」とも呼ばれる花の名所らしい。5月のつつじ、6月のあじさい、7月の蓮。「つつじ寺」「あじさい寺」「蓮の寺」と、季節によって愛称が変わるこの寺は、どんな色にも染まることができる千両役者のよう。

カラフルなあじさいは絵画のような美しさを見せ、訪れた人々を楽しませている。こんなに空は曇っているのに、若者からお年寄りまで、晴れやかな笑みを浮かべていた。梅雨はどんより灰色。そう思っていたのに、三室戸寺に来たら、そんなイメージがすっかり覆ってしまった。

「それにしても、あじさいってどうしてこんなにカラフルなんでしょう」

「育つ土壌の違いだよ。土が酸性の場合青系の色に、アルカリ性や中性だと赤系の色になる」

「……教授って、物知りなんですね」

「これくらい、常識でしょう。なぜ知らないんだ」

「だ、だってわたし、文学部ですもん……」

下手くそな言い訳をして、わたしは唇を尖らせた。この間からばかにされてばっかりだ。こうなったらたくさん写真を撮って、金福寺に行った時のように教授を感心させてやろう。わたしは固く決意して、あじさいにカメラを向けた。土壌の違いによって色づきが変わる梅雨の花。あじさいがこんなにかわいらしく、色鮮やかな花だなんて知らなかった。

「京都といえば桜か紅葉だと思ってましたけど、あじさいもいいですねぇ」

ファインダーをのぞき込みながら、しみじみとつぶやく。毎年梅雨の時期になると、雨に濡れるのが億劫で、家に引きこもってばかりだった。桜が散ってしまったら、一体何を見ればいいの。何を撮るのが楽しいの。中途半端なこの時期に、撮るものなんて何もない。そんな風にふてくされて、あじさいの美しさにも、色が変化する理由にも、目を向けようとしなかった。

「気づくのが遅い。ところで、写真は?」

「気になりますか?」

「……ちゃんと撮れているか、心配しているんだよ」

「そんなに見たいなら、見せてあげてもいいですよ」

ふふん、と意地悪く言ってやる。散々ばかにされているのだから、このくらいのお返しをしてもきっとバチはあたるまい。教授は悔しげにカメラを受け取り、あじさいの写真をのぞき込んだ。

――瞬間。

雲の隙間から漏れる光のように、教授の瞳がやわらかくなった。つい今し方まで、わたしを憎らしげに見ていたというのに。それは、講義中に見せる穏やかな微笑みとはまた違う。もっと素直で、もっと純粋。

わたしは息をするのも忘れて、その横顔に見入った。冷たいと思えば優しくしたり、 意地が悪いと思えば、綿菓子のように笑ったり。ああ、一体この人はあと何種類、色を隠しているのだろう。

「凡人でも、一つは特技を持っているものだね」

「……教授って、友だちいないでしょう」

「そんなことを言われたのは初めてだ」

「言ってくれる友だちがいないからですよ、それ」

憎まれ口を叩き合っていると、あっという間に出口に着いた。あじさいに包まれていると、時間が光のように過ぎてしまうからふしぎだ。虚無感と同時に、忘れていた現実がすぅーっと体中に広がって、ぎゅるぎゅるとおなかの虫が鳴った。

「……教授、おなかがすきました」

「さっき茶団子を食べたばかりでしょう」

「お昼ご飯は食べていないんです。突然誰かさんに呼び出されたので、食べる暇がなくて」

わたしはおなかを押さえて、今にも死にそうな声を出した。教授がぐっと言葉に詰まる。あ、その表情も、初めて見るわ。

「伊藤久右衛門って知らないだろう」

「どうしてわたしが知らないことを前提で話すんですか。……知っていますよ、抹茶パフェがおいしいところ」

「しかたない。そこで一息つこう」

「だけど教授。わたし、甘味じゃなくて食事がしたいんです」

「相変わらず無知だね、君は。茶そばを食べようって言っているんだよ」

茶そば、ですって。

ぱっと輝いたわたしの顔を見て、教授はまた、ばかだねぇ、とおかしそうに笑った。