雨の季節はきらいじゃない。髪の毛がうねったり、あまり外に出かけられなかったり、そういう憂鬱感はあるけれど、雨だれの音を聞きながら、ひとりでゆっくりと本を読む時間がすきだから。

だけどそれもひとり暮らしを始めるまでのこと。連日の雨のせいで洗濯物がどっさりとたまったり、傘を差して買い物に行くことがいかに大変か知ると、ああ、もういい加減にからっと晴れた空が恋しいわ、と、雲の向こうにある青色を求めることが多くなった。

――せっかく京都にいるのだから、いろいろなところを巡りなさい。

間崎教授にそんなことを言われてから、そうね、今まで忙しさを言い訳になかなか家から出なかったけれど、やっぱり時間を作って外に出なくちゃだめね、と思った矢先の梅雨入り宣言。せっかく取り出したカメラも、なかなか活躍させる機会がない。部屋でぱらぱらと観光雑誌をめくっていたら、ふと、永観堂が目に留まった。

――永観堂禅林寺は、はるか平安の昔から、阿弥陀様の慈悲の心を守り伝えている場所である。「秋はもみじの永観堂」と言われるほど紅葉の名所で、秋になると観光客で溢れ返る――

小学6年生の秋、修学旅行で訪れた場所の一つが、この永観堂だった。あの時は紅葉の盛りで人も多くカメラも持参していなかったので、ただ人波に揉まれて終わってしまったけれど、今思うと、とてももったいないことをしたものだ。

では、もし今永観堂に行ったら一体何があるのかしら。そんな思いつきと好奇心が胸の中で芽生え、次に雨が上がったら永観堂へ行こうと決めた。





そして迎えた日曜日。

快晴とまではいかないものの、冷たい雨が降り出す気配はない。灰色の雲はいつもの重たげな顔とは違い、今日だけは雨のすきにはさせまいぞ、とでも言うように、その大きな体を空いっぱいに広げている。

今日を逃せば次に晴れるのは数日後。洗濯をするにも、スーパーで食材を買い込むにも絶好の機会。だけどわたしはすべてを放り出し、カメラを片手に部屋を飛び出した。

休日とはいえ、さすがに梅雨の時期だと参拝者は少ない。建物も青もみじも、雨に濡れたせいかどことなく艶っぽくて、なんだか胸がどきどきした。お風呂上がりの女性が色っぽい、なんていう男性の気持ちが少し分かった気がする。こんなことを間崎教授に言ったら、「はぁ?」と眉間にしわを寄せられそうだけど。

靴を脱ぎ、書院造の釈迦堂に足を踏み入れる。この間は教授がいたからなんとなく格好がついたけれど、こうしてひとりでお寺に入るのって初めてだ。受付でいただいたパンフレットを広げ、きょろきょろとあたりを見渡す。

釈迦堂では華やかな襖絵をいくつも見ることができた。「松鳥図」や「群仙図」、それに「秋草図」。写真を撮ることができない代わりに網膜に焼きつけようと、わたしはじぃっと目を凝らした。人間って、どうしてこんなにも繊細で美しい絵をはるか昔から描くことができたのかしら。ああ、ここに教授がいたら、もしかしたら何かヒントをくれたのかもしれない、なぁんて、おこがましい考えが頭をよぎる。

きっと紅葉の季節に来たら、足先から冷えていく感覚や、どこまでも静かな堂内の雰囲気にも気づくことができずに、なんとなく参拝を終えてしまっただろう。以前来た時はそうだった。人が少ないからこそ、こうしてじっくりと永観堂の魅力を感じることができるのね。真っ赤に燃えるもみじがなくたって、青々とした新緑がここにある。襖絵だって、「臥龍廊(がりゅうろう)」と呼ばれる廊下だって、1年中ここにあるのだ。

釈迦堂を見終えたあと阿弥陀堂へ行くと、ほんの少し薄暗かった。背筋を正して中へ入ると、数人の参拝者に向けて、お寺の方が説明をしているところだった。

「――こちらが、『みかえり阿弥陀』でございます」

示された先に視線を動かしたら、あっ、と、声が出そうになった。

阿弥陀像は教科書で何度か目にしたことがあるけれど、今目の前にあるものはそのどれとも違う。その阿弥陀像は、首を左に傾げて振り向いているのだ。

「この『みかえり』には、『遅れるものを待つ姿勢』『思いやり深く周囲を見つめる姿勢』『自分自身を省み、人々とともに正しく前へ進む姿勢』が表れています。真正面からおびただしい人々の心を受けとめても、なお正面に回れない人々のことを案じて、横を見返らずにはいられない阿弥陀仏様のみ心を、ぜひとも感じてください」

まわりにいた数人が、ほぉーっ、と感心したように声を上げた。なんと慈悲深いんでしょう、素敵ね、そうだね、見ることができてよかった――顔を見合わせて、そんな言葉を交わす。わたしはただひとり、声を上げることもできず、阿弥陀様の穏やかなお顔を見つめ続けた。

何だろう、この、感覚。来たことがあるはずなのに、以前来た時と全然違う。

小さい頃から日本の文化がすきだったけれど、ものすごく歴史に興味があったわけじゃない。お寺や神社や、仏閣がすきだったわけじゃない。旅行のついでに参拝することもあったけれど、ああ、こんな感じか、いい雰囲気だなぁ、なんて訪れただけで満足して、その場所が持つ意味なんて考えもしないで、分かった気になっていた。

京都に来たのだってそう。古文や日本史っておもしろいし、京都って素敵だな、あこがれるな、なんて安直に考えて進学を決めた。ただ、それだけ。

――せっかく京都に来たのだから……。

先日、恵文社で教授から言われた言葉を、また思い出した。ああ、あの人が言っていたのはこういうことだったのね。だから、金福寺に連れていってくれたのね。その景観だけを見て満足するのはきっと違う。「秋はもみじの永観堂」。有名すぎるフレーズを、頭の中で繰り返す。もちろん、もみじも美しいのでしょう。一面を赤く染めるもみじはきっと、この世のものとは思えないほど風情があって、すばらしいのでしょう。でも、永観堂は、それだけではない。それだけが、すべてじゃない。

――そうでしょう、そうでしょう。

わたしの思いにうなずくように、目の前の阿弥陀様は、どこまでも優しく微笑んでいた。





阿弥陀堂から外に出たわたしは、錦雲橋(きんうんきょう)の上からぼんやりと方丈池を眺めた。

雨に濡れた青もみじがきらきら、きらきらと、わたしを歓迎するように輝いている。もみじといえば赤色。わたしもきっと、心のどこかで思っていた。

だけど、この新緑の美しいこと!
雨上がりの世界の、すばらしいこと!

こんなに景色がきらめくのなら、洗濯ができなくたってかまわない。傘を差すのだって苦痛じゃない。雨のあとは、とっておきのシャッターチャンスが待っている。そう考えたら、ひとりだっていうのに、ふふ、と笑みがこぼれた。

ちょうどその時、ポケットに入れていた携帯電話がメロディーを奏で始めた。この音楽は、メッセージではなく電話だ。電話をしてくるような相手なんていたかしら。取り出した携帯電話の画面に表示されていた名前を見て、ぎょっとした。

電話の相手は間崎教授だった。先日、写真をデータで送るために連絡先を交換していたのだけれど、連絡したのはそれきり。電話をかけてくるなんて、わたし、何か悪いことをしたのかしら。なんだか胸がどきどきする。恋のどきどきではもちろんない。いやな方のどきどきだ。

おそるおそる通話ボタンを押すと、いつもよりもっと無機質な声が耳に響いた。

『御坂さん、おはよう』

「もう昼です」

教授という立場の人と電話をするのは緊張する。だってそうでしょう。この間はたまたま行動をともにしたけれど、普段のわたしたちは、「教授」と「学生」でしかないのだから。壇上で講義をする教授の話を、ただ黙って聞いている。金福寺に行ったあとも特に会話が増えたわけではないし、講義中に目が合うわけでもない。それなのにいきなり電話だなんて。

しかし向こうは、わたしの繊細な心を微塵も理解していないらしく、いつも通りの声色で言った。

『あなたの力が必要なんです。至急来てくれませんか?』