それは、寒さ極まる2月3日のこと。

後期の試験がすべて終了したら、待ちに待った春休みの始まりだ。大学生の春休みは2月から3月と、夏休みと同じく約2ヶ月ある。春、という名前はついているものの、冬の寒さは今がピーク。こたつで丸くなってぬくぬくと過ごしたいところだけれど、わたしは今、大学の図書館にいる。レポートを書くために借りた本の返却期限が今日までだったことを思い出したからだ。

無事に本を返却し、乗ってきた自転車にまたがった。びゅう、と呻く風の冷たさに、五臓六腑までぶるぶる震えてしまいそう。ああ、やっぱり2月は寒い。頭上には青空が広がって、雪の降る気配なんてないっていうのに。手袋をしているにもかかわらず、ハンドルを握る手がかじかんでいる。こんな日はさっさと部屋に帰ってあたたまるに限る。

ペダルを踏み込もうとした時、風の音に紛れて、賑やかな声が聞こえてきた。その音に誘われるように、大きなクスノキがある正門の方へ自転車をこいでいくと、東一条通にずらりと露店が並んでいる。

今日って、何かのお祭りだったかしら、と思考を巡らせていると、クスノキ付近でちょうど見知った顔を発見した。喧騒など物ともせず、冬の静かな空気をまとい、マフラーに顔を埋めながら歩いている。これは、ちょうどいいところに来てくれた。

「間崎教授!」

自転車で突進してきた教え子を見て、間崎教授は驚いたように目を見開き、それからあからさまに眉をひそめた。寒いからなのか、眠いからなのか、はたまたまたわたしをばかにしようとしているのか。

「寒いのに元気だな、君は……。もう講義もないのに、キャンパスをサイクリングだなんて」

どうやら3番目が正解だったらしい。とりあえず何か癇に障ることを言わなければ気が済まないのか、この人は。すべての言葉をぐっと呑み込んで、「図書館に行ってきただけです」とむりやり口の端を上げた。4月からは2回生になることだし、ここはわたしが大人にならなければ。

「今日、露店がたくさん出ていますけど、何かのお祭りですか?」

「単位を取るための勉強も大切だけれど、もう少し日本の風習を学んだ方がいいようだね」

「教授こそ、そういう言い方するから友だちできないって、そろそろ気づいた方がいいですよ」

わたしはにこにこしたまま声を低くした。教授は教授で春の日差しのようにあたたかい微笑みを浮かべている。ああ、これが大人のやりとりというものか。

びゅう、と、より一層強い木枯らしが、わたしと教授の髪を散らす。どちらも笑顔が乾いているのは、空気が乾燥しているせいかしら。冬は人のぬくもりすらさらっていくからおそろしい。

笑うことすら諦めたのか、教授は短く息を吐き、「今日は何日?」と尋ねてきた。

「今日? えっと、3日……」

「2月3日の行事といえば?」

「……あっ! 節分ですか?」

「正解」

思考を巡らせたのはわたしなのに、なぜか教授の方が考え疲れたような顔をしている。腑に落ちない。

節分といえば、「鬼は外、福は内」と叫びながら豆をまく儀式だったはず。小さい頃は学校や我が家でも豆をまいた記憶があるけれど、成長するにつれて節分を意識することは少なくなった気がする。それに……と、もう一度正門の方を振り返った。道を埋め尽くさんばかりの人と、ずらりと並んだ露店。

「節分って、こんなに大きな行事でしたっけ?」

「君になじみがないだけだろう。そこにある吉田神社では、昨日から3日間節分祭が行われているんだ」

「3日間も!」
 
びっくりした。まさか節分がそんなに盛大な祭りごとだったなんて。教授いわく、露店が出るのは昨日と今日の2日間だけらしい。賑わいを見せているこの光景が見られるのも、今日までということか。

「吉田神社の節分祭って、どんなことをするんですか? やっぱり鬼が出たり、豆をまいたりするんですか?」

「もちろん鬼を追い払う追儺式(ついなしき)というものもあるが……今日は夜に火炉祭があるな」

「カロサイ?」

聞き慣れない単語に首を傾げる。「『火』に囲炉裏の『炉』だよ」と、今度は素直に教えてくれた。

「古くなったお札やお守りなどを炊き上げる儀式で、今夜11時から境内で行われるんだ」

「ずいぶん遅い時間から始まるんですね。教授は行くんですか?」

「……まぁ、今日は夜まで大学にこもろうと思っているから、そのついでに行ってもいいが」

少しあいまいな言い方で教授が答える。おや、どうしたことだろう。いつもなら間髪入れずにうなずくくせに。寒いのが苦手だからかしら。

一方わたしは、もはや風の冷たさなんて気にならないくらい、胸の奥が熱くなるのを感じていた。体の中で、好奇心の芽がむくむくと育ち始めている。だって、わたしにとっては京都で初めての節分。そして吉田神社は大学のすぐ近く。試験はもう終了し、暇を持て余している今日。こんな特別な日に、こたつで丸くなっている場合じゃない。

「行きたいです! 教授、ぜひお供させてください! 絶対にいい写真を撮りますから」

「……写真、撮りたいの?」

「はい、もちろん」

「炎、結構熱いよ」

「でも、今日ってすごく寒いじゃないですか。暖を取るにはちょうどいいと思います」

「帰りも、遅い時間になるし」

「大丈夫です。家、近いし。何時に集合しますか? どうせなら、最前列で火炉祭を見たいです!」

「……じゃあ、夜9時に吉田神社の鳥居前で」

いつもなら教授の方から「写真を撮れ」と命令してくるくせに。今は疑うような眼差しをわたしに向け、ためらいの色を見せている。そんなに寒いのがいやなのかしら。それとも、夜遅いのが面倒なのかしら。疑問には思ったけれど大して気にすることもなく、わたしは準備をするため意気揚々と教授と別れた。

どうして、教授が渋い顔をしたのか。どうして、少し心配そうにわたしを見たのか。その理由を、わたしはすぐに知ることになる。





日が沈むと空気はさらに冷え込んで、吐いた息がそのまま凍りついて地面に落ちていくようだった。

自転車で空気を裂きながら進んでいくと、切り裂かれた腹いせのように、寒さがナイフのように肌を貫いて、体の奥まで食い込んでくる。葉のない木々がギシギシと痛むように音を立て、寒さを一層深いものにしている。家や店の明かりが道しるべのように灯って、ペダルを踏むわたしを導く。

百万遍までやってくると、祭りの気配がいよいよ濃くなって、興奮が頬を紅潮させていくのを感じた。遠くに見える露店の光は賑わいの証拠。わたしを、日常から連れ出してくれる光。

大学のキャンパスに自転車を停め、吉田神社の鳥居前に向かうと、そこにはすでに教授の姿があった。マフラーをぐるぐると首に巻き、両手をポケットに突っ込みながら、祭りを楽しむ人々を眺めている。

――「静」の人だ。

夏、五山の送り火の時と同じように、そんなことをわたしは思う。まわりがどんなに華やかでも、どんなに賑わっていても、自分の静寂をかき乱されることがないのだ。落ち着いている、とか、自分の世界を持っている、とか。出会ったばかりの頃は、そんなよい印象を抱いたけれど、なぜだろう、今はぞっとした。嵐が来ても凪いでいる海のような、その静けさ。誰の干渉も受けつけない、その冷たさ。

それは、ほんのちょっぴり、異常だ。

「お待たせしてすみません」

違和感を振り払うように駆け寄ると、教授はああ、と短く応え、さっさと境内に進んでいった。昼にも増して人は多く、露店の賑やかさもまったく衰えてはいない。たこ焼きや焼きそば、ベビーカステラにりんご飴。夜ご飯は軽く食べてきたけれど、見ているとおなかが空いてくる。

「本当に食い意地が張っているな、君は……」

わたしの心を読んだのか、教授があきれたように息を吐いた。この教授、読心術を心得ていたとは、おそろしい。わたしが言い訳をする暇もなく、教授は露店の前で足をとめ、ベビーカステラを購入した。

「火炉祭まで時間があるから、その間の夜食」

「とか言って、教授も食べたかったくせに……」

「生意気なことを言う人は、食べなくてよろしい」

軽口を叩き合いながら石段を上っていくと、三ノ鳥居前に巨大な火炉が設けられているのが見えた。「2月3日午後11時 火炉祭執行」と看板がかけられ、古いお札やお守りがぎっしりと納められている。

吉田神社には何度も訪れたことがあるのに、夜に来るとまったく違った場所に見えた。凍えるような冬の夜、立ち並ぶ露店と、あたたかな明かりが灯った灯篭。オレンジ色の警備服を着た人もちらほらいて、まさに祭りの夜という感じ。どこからか聞こえる太鼓の音、絶え間ない人の話し声、それらすべてが鼓膜を震わせ、その振動が、体の中心まで伝わってくる。

点火は11時だというのに、火炉のまわりにはすでに人がいて、1番よい位置でお焚き上げを見ようと場所取りをしていた。わたしたちもその人たちに混じり、撮影しやすい場所で足をとめる。

「まだ時間があるのに、こんなに混むんですね」

「君のような考えの人が多いんだろう」

教授は先ほど買ったベビーカステラの袋を開け、わたしに差し出した。かじかんだ手で一つ取り出し、口の中に放り込むと、懐かしい味がじんわりと広がった。だけど、甘さで寒さはごまかせない。はぁーっと両手をあたためて、夜空を見上げる。

冬は星がきれいに見える、と、どこかで読んだ記憶がある。いつもなら寒いだけの冬の夜。寒さに震えて、星を見る余裕なんてないけれど、今はこんなにも光が眩しい。

10時を過ぎると、火炉のまわりにはますます人が増え、始まりの気配が濃くなってきた。白い作務衣のような服を着た人がぞろぞろとやってきて、「危ないので下がってください」と叫んでいる。ロープが木々に巻きつけられ、わたしたちの前で、ぴん、と一直線に伸びていった。人々が火炉に近づかないようにするためだ。

「もうちょっと前や」「あと50センチ下がって」と、作業をする人々が相談をしながらロープの位置を調整していった。ちょうどよい位置が決まったのか、カンカンカン、と甲高い音を立てながら、地面に杭が打ち込まれていく。「ちょうどええなぁ」「この紐でくくるんや」……作業をする人たちも、なんだか楽しそうだ。

そして、祭りが行われる時刻の10分ほど前。神職の方々がしずしずと姿を現し、頭を下げて祝詞を唱え始めた。火炉に向かって大麻(おおぬさ)を振り、それからわたしたちに向かって振り、一礼。巫女さんのひとりが火炉の前で鈴を振り上げ、シャランシャラン、と清らかな音が鳴り響く。

『ただいま、境内が大変混雑しているため、階段下にて境内への入場規制を実施しております……』

「入場規制!?」

会場に流れるアナウンスが耳に入り、思わず声を上げてしまった。正直、11時に開始なのに9時集合だなんて、早すぎると思っていた。けれど、神職の方々に目を奪われていた隙に、境内には溢れんばかりの人が集まっている。

「火炉祭ってすごいんですね……。入場規制まで行われるなんて」

「9時集合で正解だっただろう」

ふふん、と少し得意げに教授が腕を組む。嫌味な笑顔。だけど本当のことだから何も言えず、わたしは唇を噛み締めた。いつだって、この人の言うことは正しい。

ぽうっと目の前にオレンジ色の炎が灯った。神職の方が手に松明を持っている。黒い空にゆらりと揺らめいて、白い煙が立ち上り始めた。いよいよ始まるのだ。

わたしは首に下げていたカメラを両手で包んだ。2時間近くも待ったのだから、最高の1枚を撮らなければ。そう意気込んでいると、教授がいつになくそわそわした様子であることに気がついた。見上げると、教授は端正な顔を歪ませてじっとわたしを見ている。

「……琴子さん」

「何ですか、改まって」

「あまり、むりをしないように」

「むりって、どういう意味ですか」

「熱いと感じたら、写真を撮るのをやめること」

「大丈夫ですよ。こんなに寒いんだから、暑いくらいがちょうどいいじゃないですか」

「……熱いの意味を履き違えてないか?」

「え? ……あっ、点火されました!」

松明の炎が火炉に移された、と思ったと同時に、どんどん炎が燃え広がっていった。オレンジ色の炎が生き物のようにうねうねと揺れ、火の粉がぱらぱらと黒い空に舞い上がっていく。炎を調整するためか、待機していた消防士たちが放水を始めた。火炉の中に詰め込まれた古いお札やお守りが、炎に焼かれて黒く染まってゆく。

すごい、こんな間近で炎を見られるなんて。去年の8月、五山の送り火を見た時のことを思い出した。あの時も、こんな風にオレンジ色の炎が空に昇っていったっけ。だけどこんなに至近距離ではなかった。興奮で写真がぶれないように注意しながら、カメラのシャッターを切っていく。

「ものすごい迫力ですね! それに、すごくあたたかい」

「……今はな」

パチパチと弾けるような音が耳に響く。炎はどんどん勢いを増し、うねり、踊る。目の前で蠢く炎は冷えた空気をあっという間に食らい尽くし、己の熱をわたしたちにこれでもかというくらい伝えている。燃やされた古札が崩れ落ち、灰がぽろぽろと火炉からこぼれていった。

「すごい、あたたか……いや、あ、熱い! 顔が熱い!」

顔がひりひりと痛み始めて、わたしは思わずカメラを離した。首に巻いていたマフラーをほどいて顔を覆う。

「教授、目が開けられません! 熱いというか、い、い、痛いです……!」

「だから言っただろう。ほら、こっちへ」

教授は炎から守るように、わたしを自分の後ろに追いやった。それでも顔は火傷をしたように痛んで、一向に治まる気配がない。まわりの人も、歓声を上げつつも顔を背けたり、タオルで顔を包んだりして、炎の熱さから身を守ろうとしている。

わたしはおそるおそる教授の背中から顔を出した。ちょっと目を離した隙に、火炉の中にある古札の体積がさらに減り、黒い灰がぼろぼろと崩れ落ちている。それでも炎の勢いが衰える様子はない。熱い、痛い。だけどそれだけ、迫力があるということだ。

カメラに手を添えると、わたしと同じようにかなり熱を帯びていた。カメラにぶら下がっているこん様のストラップも、限界を訴えるようにいつもより激しく揺れている。

「もう写真は撮れただろう。そろそろ……」

「いやです、最後まで見たいです」

「最後までって、完全に火が消えるのを待っていたら日付が変わってしまう」

「大丈夫です。家、近いんで」

「というか、私がもう限界だ」

あ。そういえばそうか。

見上げると、わたしを守るように立っている教授が、かなりしんどそうに顔を歪めていた。撮りたい気持ちをぐぅっと胸の奥底に押し込めて、わたしたちはそそくさと境内をあとにした。





「ああ、熱かった!」

石段を下り、吉田神社の鳥居をくぐり抜けると、少しずつ体から熱が抜け出ていった。

「だから『熱い』と言っただろう……。私はいつももう少し遠くから見ているんだ。なのに、君が『最前列で見たい』なんて言うから……」

「だ、だって、まさかあんなに熱いなんて思わなかったんです。やっぱり、実際に行かないと分からないものですね……」
 
両手で頬を包むと、もう痛みはなくなったけれど、まだじんわりと火照っている。吐く息はこんなに白いっていうのに、まるで日焼けをしたみたい。炎に迫力負けしてしまったのか、足元がふらふらとおぼつかない。わたしがよろけそうになるたびに、教授が腕をつかんで支えてくれた。いつも飄々としている教授も、炎にあてられたせいか、若干の疲れが顔に滲み出ていた。

来る時はあれだけ賑わっていたはずのこの道も、夜が深まった今では人は少なく、露店はどんどん店じまいを始めている。どれだけ華やいでいても、どれだけ楽しんでも、祭りが終わればまた、いつもの風景に戻るのだ。幸福な時間は、本当に儚い。

――ああ、でも、楽しかった。

最後まで見ることはできなかったけれど、この胸には確かに満足感が生まれていた。炎の熱も、頬の痛みも、実際に足を運ばなければ知ることができなかった。節分って、こんなに盛大な行事だったのね。今まであまり意識していなかった2月3日という日が、特別な1日に変わった気がする。

ふと、隣を歩いていた教授の姿がないことに気がついた。きょろきょろとあたりを見渡すと、「セール」と掲げられたたい焼き屋の前で、ちゃっかり財布を出している。甘いにおいに惹かれて近づいていくと、教授はたい焼きの一つをわたしに差し出した。

「おつかれさま」

「……本当に、甘いものがすきですね」

ついつい憎まれ口を叩いてしまったのは、たい焼きを差し出す教授が、いつもより一層優しく微笑んでいたから。ああ、どうしよう。頬の熱は、まだ一向に冷める気配がないわ。

ふたりでたい焼きを食べながら、真っ暗な道を並んで歩いた。草木も寝静まる冬の夜。祭りの音色が遠のいていくほど、先ほど見た火炉の炎も、どんどん過去に近づいていくような気がした。だけど、それでもまた来年になれば、また同じ景色が見られるのだろう。その時はまた、新たな発見があるかもしれない。

見上げたら、黒々とした夜空いっぱいに、無数の星が散らばっていた。金平糖みたいにきらきら、きらきら。淡い光が地上にこぼれて、たい焼きを食べる教授の横顔が、ぼんやりと浮かび上がっている。疲れているはずなのに、どことなく幸せそうなその表情は、まるで少年のよう。

わたしは大きく口を開けて、残りのたい焼きを口内に放り込んだ。粒餡の甘みが疲れを癒し、思わず頬がほころんだ。今日は節分だというのに、気づけば甘いものしか食べていない。教授もそのことに気がついたのか、わたしたちは顔を見合わせて、お互い照れくさそうにふひひっ、と笑った。