ピピピピピ、と、銃弾のように鳴るアラーム音で、わたしは勢いよく上半身を起こした。

時計を見ると、時刻は午前7時半。冬の朝、いつもならば布団から出るのに最低30分はかかるのだけれど、今日だけはそういうわけにもいかない。冷えた室温に身震いする暇もなくベッドから飛び降り、勢いよく窓のカーテンを開ける。曇った窓の一部分をきゅっきゅっと手で拭いて、じっと外に目を凝らすと、見慣れた景色がどこもかしこも真っ白に染まっていた。

寝起きのゆるんだ表情が、みるみるうちに興奮へと塗り替えられていく。昨夜の天気予報通りだ。わたしは胸の奥底に生まれた喜びに急かされるように、大慌てで出かける準備を始めた。

洗顔と歯磨きを済ませ、適当に髪を櫛で梳かす。昨晩から選んでおいたニットのセーターとパンツに着替えて、リュックの中身をもう一度確認。分厚いコートに身を包み、首にはマフラー、ついでに耳あても装備したら、防寒対策はばっちりだ。携帯電話でルートを確認してから、よし、と意気込んで玄関を飛び出した。

マンションを出たら、びゅうっ、と冬の風が平手打ちをするように襲いかかってきて、顔面が痛くなった。雪はもう降っていないけれど、明らかにいつもより寒い。見上げた空の色は薄く、まるで凍っているみたい。触ったら、ぱきっとひび割れてしまいそう。空気は昨夜の残り香を孕んで、吸い込んだ分だけ白に変わって口から出てくる。ああ、寒い。凍えちゃいそう。でもそんなの、歩みをとめる理由にはならない。

なぜなら、わたしはずっとこの日を待っていたのだから!





――雪の金閣寺?

それは上賀茂神社に行ったあとのこと。

「君はまだ見たことがないだろう」

セカンドハウス出町店にて、ストロベリーショートケーキを口に運びながら、間崎教授が微笑んだ。

木のぬくもりに囲まれた店内に、落ち着いた色の間接照明。ホットコーヒーの優しい香りに包まれながら、冬の日の日差しみたいにあたたかい微笑。と、ここまでは眉目秀麗、慈眉善目、光彩奪目、と、思いつく限りの四字熟語を並べたいところなのだけれど、口にしているケーキのかわいらしいこと。わたしのガトーショコラの方が、まだ教授の容姿に合っているような気がする。いや、そもそもこの人が甘党っていうのがイメージとはちょっと違うか。わたしはもう慣れてしまったけれど、未だにふしぎ。

「黄金に輝く金閣寺には、白い雪がよく似合う。今年の冬はあたたかそうだから、あまり積雪は望めないが……」

「雪の金閣寺かぁ……。きれいなんだろうなぁ。ぜひ写真を撮ってみたいです」

金閣寺には、小学校の修学旅行で一度行ったことがある。あの時は確か秋だったっけ。限られた時間で何ヶ所もまわらなくてはいけなかったから、あまりゆっくりと鑑賞することはできなかった。澄み切った青空に金色がよく映えていて、美しかったこと。ただそれだけを、おぼろげに覚えている。

「朝方雪が積もっていても、昼前には溶けてしまうこともあるから、積雪を確認したらすぐに向かう必要がある。天気予報をこまめにチェックしておくんだよ」

「はい、もちろん……」

――ん?

ガトーショコラを口に運ぼうとしていたわたしは、教授の言葉を聞いて動きをとめた。

「もしかして、わたしに写真を撮りにいけって言ってます?」

「朝は冷えるからきちんと防寒対策をして行きなさい。風邪をひいたら大変だ」

一見気遣っているような優しいコメントだけど、何かがおかしい。

「……教授は?」

「君はばかか。いつ雪が降るかも分からないのに、予定が立てられるわけないだろう」

「でも、朝起きて雪が積もっていたら向かえばいいだけの話じゃ……」

「あいにく、私は君と違って朝から晩まで忙しい。それに……」

「それに?」

教授は短く息を吐くと、憂いを帯びた瞳で店外に目をやった。寒そうに首をすくめながら歩いている人が、ひとり、ふたり。

「……雪の日は、寒い」

「わたし、パシリじゃないんですよ!」

声のボリュームを上げたら、まわりにいたお客さんが怪訝な顔をして振り向いた。穏やかな店内の空気に稲妻のようなひびを入れてしまった、と反省し、慌てて身を縮めてみるものの、元凶である本人はなんとも優雅な仕草でコーヒーを飲んでいる。腹立たしい。わたしが何でも言うことを聞くと思っているのだ。確かに今までは立場や年齢を気にして言う通りにしていたこともあったけど、それも去年までの話。せっかく年も明けたし、心機一転、今年こそ言いなりにはなるまい。

「いやですよ。わたし、絶対に行きませんから。絶対に!」

――とか言っていたのは、つい2週間ほど前のこと。





(結局、行くんじゃないですか)

カメラにぶら下がっているこん様が、あきれたようにわたしを見上げる。もふもふの白い毛並みが、雪の日によく似合う。

「違うもん。別に教授に言われたから向かっているわけじゃないですから。ただ、たまたま今日は午前中の講義がなくて、わ、わたしが個人的に興味があるからで」

自分自身に言い訳をしながら、金閣寺へと向かうバスに乗った。乗客は少なく、すんなりと席に着くことができた。普段は携帯電話や本に目線を落としている人も、今日は窓の外を眺めている。

ガタゴトと不器用な音を立て、バスが再び走り出した。足元に熱いくらいの温風があたって、なんだかくすぐったい。ああ、暖房がかかっているのだ。だからこんなに窓が白いのだ。

曇った窓をコートの袖で拭いて、靄がかかった景色を目で追った。わたしの住む街。見慣れた景色。それなのに、白く化粧をしただけで、全然見知らぬ土地に見えるからふしぎだ。道を歩いている人たちは、1年ぶりに積もった雪との再会を喜んでいるのか、あるいはいやがっているのか、どちらだろう。小さな子供が両手で雪をすくっては離し、離してはまたすくい上げている。サラリーマンが、寒そうに身を縮めながら歩いている。

冬は苦手だ。寒いのだってすきじゃない。それなのに、わたしは今、早く寒気に触れたくてしかたがない。





金閣寺に到着したのは、午前9時を少し過ぎた頃だった。まだ開門して間もないというのに、わたしの前方にはすでに多くの人が歩いていた。みんなこの積雪を見て、慌ててやってきたのだろう。そう思うと、金閣寺がいかに特別な場所であるか分かる。

(正式名称・鹿苑寺。相国寺の塔頭寺院の一つで、舎利殿「金閣」が特に有名なため金閣寺と呼ばれていることは知っていますよね)

こん様が、ゆらゆらと左右に揺れながらわたしに語りかけてくる。

(元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされていて……)

「そのくらい知っていますよ。教科書に載ってるもん」  

わたしはこん様をぺちぺちと叩いて、意気揚々と足を進めた。

初めて来た時も金色に輝くその佇まいに感動した記憶があるけれど、幼さゆえか、あまり細部までは覚えていない。もっとも、その頃は今ほど京都に関心がなく、ただ先生たちに決められたルートをたどっていただけで、今のように強い欲求を抱いていなかった。受動的な行動は、感動を薄めてしまう。

滑らないように気をつけながら、雪で濡れた路面をゆっくりと歩いていく。以前にも、こうして歩いたことがあるはずなのに、あの時とは心境がまったく違う。わたしには金閣寺を見たいという明確な欲求があり、なんとしても写真におさめようという強い意志がある。だからかしら、こんなに鼓動が速くなっているのは。

そのまま進んでいくと、大勢の人が足をとめ集まっている場所にたどり着いた。ある人は高級そうなカメラを構え、またある人は友人と顔を見合わせて楽しそうに笑っている。カメラを首から下げたまま、微動だにしない人もいる。確信にも似た予感を抱きながら、わたしは彼らの視線の先に目をやった。

あっ、と、声を上げそうになって、慌てて口を両手で覆った。こうしないと、声と一緒に心臓が喉から飛び出してしまいそうだった。体の代わりに心が震えているのが分かった。

目の前で、金閣寺舎利殿が白く雪化粧をしている。きらびやかすぎる金色に、自己を主張せずそっと寄り添う雪が見事にマッチしていて、この世のものとは思えないくらい美しい。鏡湖池(きょうこち)に映った逆さまの舎利殿が、風が吹くたびゆらゆら揺れる。金と白、そして空の青が混ざり合い、滲んでいる。

ずっと想像していたの。教授に話を聞いた時から、雪の金閣寺はどういうものだろう、きっとこんな感じだろう、と、ある程度予想をしていたの。だけど、実際に見るとやっぱり違った。その美しさは、わたしの想像をはるかに超えていた。

ゆっくり歩きながら、時折足をとめ、角度を変えて金閣寺の写真を撮った。この雪、いつまで積もっているのだろう。いつだって雪は儚い。どれだけ長い間待ち焦がれていても、一瞬で消えてしまう。きっとこの様子じゃ、あと少し気温が上がれば幻のように消えてしまうだろう。

だからこそわたしは、この景色を写真におさめたいと思う。思い出は心の中だけ、という人もいるけれど、やっぱりわたしは、美しいものを見るとシャッターを切ってしまう。この一瞬を、永遠に変えたいと思ってしまう。その時感じたことを思い出すよすがにしたいと願ってしまうのだ。

「本当に、きれいねぇ」

ひとりで歩いていると、時折そんな声が耳に届いた。友人同士で来た人たちが、胸に生まれた感情を言葉に変え、感動を共有している。楽しそうに笑い合って、お互いに撮った写真を見せ合って、とっても楽しそう。

――教授が隣にいたらなぁ。

この感動は、共有したら一層色を濃くする。言葉にして、笑い合って、そうすることで景色はより輝きを増すのだと、教えてくれたのはあの人なのに。きっと、教授にとっては見慣れた景色なのでしょう。だけど、わたしが感じたことを、今この瞬間に知ってほしかった。興奮と感動を言葉にして、この心の有様を、きちんと整えたかった。

ああ、きっと今頃あの人は、あたたかい布団の中でぬくぬくと眠っているのだ。普段は連れ回すくせに、寒いって何よ。寒いって。まぁ、確かに今日は平日だし、仕事だし、忙しいのかもしれないけれど。

考えれば考えるほど、さみしさよりも不満の色が濃くなってきた。ああ、だめだめ。こんな素敵な場所に、怒りなんて似合わない。今日は、教授からもらったこん様と喜びを分かち合うことにしよう――そう思って視線を落とした、瞬間。

「……あれ?」

寒さが胸の中心まで浸透し、心臓が凍ったような感覚に陥った。

……ない。いつもカメラにぶら下げているはずのこん様のストラップが、忽然と姿を消している。ポケットに手を突っ込んでも、ない。足元を見てもいない。どうして? どこかに落とした? いつ、どこで?

わたしは慌てて元来た道のりを逆方向に早足で歩き出した。ああ、雪と同じ色だから、目を凝らさないと見つからない。このまま、どこかに行ってしまったらどうしよう。

――わたしが「こん様」と呼ぶ白狐のストラップ。

それは昨年の夏、正寿院へ行った時に教授からもらったものだ。小さくて、ふわふわしていて、撫でるととても気持ちがいい。何の変哲もないストラップだけれど、わたしは愛情を込めて「こん様」と呼んでいた。

以前、伏見稲荷大社の夢を見たことがある。ふしぎなことだけれど、夢の中でわたしは小さな子ぎつねに出会ったのだ。

子ぎつね、と呼ぶと怒られるかもしれない。その子は稲荷大神様の眷属を名乗り、小さいくせにやけに大人ぶった口調で、伏見稲荷大社を案内してくれた。わたしはその子をこん様と呼び、こん様は、夢の中でわたしを「琴子さん」と呼んでくれた。そんな所以もあって、わたしは夢に出てきたきつねそっくりのストラップを「こん様」と名づけ、肌身離さずカメラにつけていたのだ。

気のせい、と言われたらそれまでなのだけれど、こん様はいつでもわたしに語りかけるように、尻尾を左右に振っていた。何気なく揺れるその仕草が、きちんと意志を持っているような気がしてしかたがなかった。ゆらゆら揺れるその体は、いつだってわたしと一緒に出かけることを喜んでくれているようだし、わたしが語りかけると、なんとなく応えてくれるような気がしていた。

こんなことを教授に話したら、きっとまたばかにされるだろう。だけどわたしは、教授からストラップをもらった時、夢の中で出会ったこん様が会いにきてくれた気がしたのだ。それからずっと大事に大事に持っていたのに。

「こん様、こん様!」

叫びながら逆行していくわたしを、まわりの人たちが不審げに振り返る。この際、誰にどう思われてもいい。こん様がいなくなったらどうしよう。つんつんしていて、偉そうで、物知りだけどやっぱりどこか幼くて、かわいらしい子ぎつね。もう会えなくなったら、きっとわたしはさみしくって死んでしまう。

そして何より――こん様を失くしたことが教授にばれたら何て言われるか。「人があげたものを失くすなんて」「君の管理能力の低さにはびっくりだ」と、言葉を鋭い刃物に変えて、容赦なく投げつけてくるに違いない。……おそろしい。おそろしすぎる。雪よりも冷たい眼差しを注がれる自分を想像して、寒さが一層濃くなった。

必死で目を凝らしてみても、どれだけ歩き回っても、やっぱりこん様は見つからない。感動で吹き飛んでいたはずの寒さがぶり返してきたし、ずっと歩いていたせいで足が痛いし、荷物は重たいし――さみしいし。涙がじんわりと目に浮かんでくる。金閣寺に向かう時はあれだけ軽かった足取りが、今はもうこんなにも重い。こうしている間にも雪は溶け、舎利殿も、どんどん金色が濃くなってきた。

変わっていく景色に絶望し、足は動くことをやめてしまった。ひとりでぽつんと立ち尽くす、わたし。楽しげに歩いていく人たちが、別世界の住人みたいに感じる。教授もいない。こん様もいない。金閣寺に来たっていうのに、わたしだけ、ひとりぼっちだ。

このまま、一生会えないのだろうか。ただのストラップだ、また買えばいい。そう、教授は言うかもしれない。だけど違う。絶対にそうじゃない。姿形は同じでも、心が違う。ばかみたいに思われるかもしれないけれど、教授からもらった、あの子じゃないと意味がない。視界が涙でぼやける。金閣寺がぐにゃりと歪んで、美しさが、もう見えない。

――とん、とん。

誰かに肩を叩かれて、はっとした。慌てて涙を拭いて振り向く。

女の人が立っていた。長い黒髪がつやつやと光り輝き、肌は白くて雪のよう。日本人らしい切れ長の瞳が、わたしを映して微笑んでいる。白い着物がとても上品で、思わず息を呑んだ。まるで雪を擬人化したようにきれいな人だ。一体何歳くらいだろう。肌の艶やかさは20代のようだし、だけどその老成した雰囲気は80歳くらいにも見える。

その女性が、わたしに向かって何かを差し出した。彼女の手のひらにちょこんと乗っていたのは、小さな白いきつねだった。かわいらしい二つの耳。もふもふの尻尾。

「あっ、こん様!」

わたしは悲鳴のような声を上げ、こん様を自分の胸に抱き寄せた。

「よかった、戻ってきてくれて……」

(まったく、気づくのが遅いんですよ……)

こん様が、あきれたように息を吐いた、ような気がした。ごめんなさい、もう二度と離しません。心の中で謝ると、また、両目から涙が染み出てきた。今度は、さみしさの涙じゃない。安堵の涙だ。

そうだ、目の前の女性にお礼を言わなくては。そう気づいて顔を上げると、女性の姿は幻のように消えていた。一体どこへ行ったのだろう。右を見ても左を見ても、見えるのは楽しげな参拝客の姿だけ。青空の下、雪の薄まった金閣寺が、変わらずきらきらと輝いている。

あの女性はどこに行ったのだろう。答えを求めるようにこん様を見る。こん様は安心したようにわたしを見上げているだけで、何も答えてはくれない。





帰りのバスに揺られながら、わたしはぼんやりと雪の溶けた街並みを眺めていた。今朝はあんなに真っ白だったのに、遠くに見える山々も、今ではすっかり普段と同じ顔をしている。やっぱり雪って、幻のように儚い。

――幻、だったのかしら。

雪が消えてしまっても、その単語だけがやけに現実味を帯びて頭の隅に残っていた。あのあと、お礼を言おうとあたりを探してみたけれど、結局あの女性には会えなかった。あの人は一体誰だったのだろう。どうしてこん様を連れてきてくれたのだろう。こん様を探している、だなんて、一言も言っていないのに。

――そういえば。

わたしはふと、手の中にいるこん様を見つめた。こん様の仕える稲荷大神様――宇迦之御魂神(うかのみたまかみ)は女性だということを、教授から聞いたことがある。「お優しい方なんですよ」と、夢の中でこん様が言っていた。

「もしかして、あの人って……」

おとぎ話のような考えが、ぽっと心の中に灯った。

こん様は何も答えない。普段はいろいろ話してくれるくせに、寝たふりをしているのだろうか。それとも、やっぱりこん様の声なんて、わたしの妄想にすぎないのかしら。

夢かうつつか、うつつか夢か。
真実は、こん様のみぞ知る。