ぼんやりと、空を見上げた。
光明院にいる時は絵の具で塗り潰したように青一色だったのに、今は分厚い雲がぬぅっと現れて、まるで空を飛ぶ大きな龍のよう。
わたしは先ほど抱いた違和感を消し飛ばすように、次はどんな場所なんでしょう、とか、どこも紅葉真っ盛りですね、とか、小さな子供のようにしゃべり続けた。教授は教授で、紅葉は年によって色づき具合が違うから、とか、毎年どこに行こうかすごく悩むんだ、とか、他愛もないことを水の流れのようにさらさらと話して、そうしているうちに、歩調がどんどん速くなっていった。何か、隠しごとをしているような明るい笑みが、もみじよりもわたしの目を引いた。
もうお昼を過ぎていることに気がついて、次の場所に行く前に軽く昼食を取ることにした。一緒に京都を巡るようになってから、わたしたちは時折こうしてご飯をともにする。腹が減っては戦ができぬ、カメラマンには体力が必須。
「さっき亥の子餅を食べたばかりだろう。……その前に、光明院で茶菓子も」
「あれはデザートですから」
「ちなみに朝食は」
「もちろん食べてきました」
大盛りのラーメンをすするわたしを見て、間崎教授があきれを通り越して感心したように息を吐いた。出会った当初は恥じらいもあったけれど、もう何も気を遣うまい。
ゆるやかな坂を上っていくと、どんどん空が近くなる。手を伸ばしたら、あの龍のような雲に届いてしまいそう。先ほど食べたラーメンを消化しようと、勢いよく両足を動かした。一応、体重を気にしていないわけでもない。
坂を上ってたどり着いた場所は、泉涌寺の別院である雲龍院だった。竹情荘から考えると、大体15分くらいかしら。東福寺からそれほど離れていないのに、賑やかさよりも静けさが目立った。
「わたし、ここに来るのも初めてです!」
「だろうね」
興奮気味に叫んだら、隣で教授が苦笑した。自分で決めるとどうしても定番の場所を選びがちだけど、この人といるととっておきのスポットに来ることができるから、自分の知識が増えていくようで嬉しい。
ここ雲龍院は、皇室と密室な関係を持つお寺。後光厳天皇の思召しによって竹厳聖皐(ちくがんしょうこう)が開いたのが始まりで、その後も歴代天皇がたびたび行幸されているのだという。関係が深いのは皇室だけではなくて、忠臣蔵で有名な大石内蔵助の額や、サスペンスの女王・山村美紗のお墓もあるんだそう。それに加えて現存最古の写経道場だというから、見どころも魅力もてんこ盛り。
「琴子さん」
「蓮華の間」と呼ばれる部屋に入った時。教授がわたしの名前を呼び、手招きをした。
「ここに座ってみなさい」
言われた位置に座って、びっくりした。立っていたら気づかなかったけれど、この位置からだと、4つある障子窓それぞれから、椿・灯籠・楓・松がのぞいている。
「『しき紙の景色』というんだよ」
「すごくきれい! 絵みたいな光景ですね」
そうでしょう、と、教授が誇らしげに顔をほころばせた。もう何回も見たであろうその景色を、網膜に焼きつけるようにじっと眺める。初めて行く場所でも、何度も訪れた場所であっても、この人の姿勢は変わらない。
わたしは教授と同じようにしき紙の景色を眺めた。本当に、紅葉って場所によって見え方が全然違うんだなぁ、と感心する。
カメラを構えてシャッターを切る。1枚撮って、設定を調整して、もう1枚。隣に座っている教授が、ふしぎそうに首を傾げた。
「同じ構図なのに、どうしてそんなに何枚も撮るんだ」
「なんだか、調整が難しくて……。ほら、室内は暗いのに、窓から見える風景は結構明るいじゃないですか。露出を外に合わせると室内が真っ暗になってしまうし、室内をある程度見えるように設定すると、外の風景が白飛びしてしまうんです……」
「……やっぱり、カメラは面倒だな」
「教授って、意外と面倒くさがりですよね」
いやそうに顔をしかめる教授を見て、今度はわたしが苦笑した。そういえば恵文社で出会った時、設定を考えるのが面倒でカメラをやめた、って言っていたっけ。教授なら、一度覚えてしまえば何だってできそうなのに。
「お待たせしてすみません。次の部屋に行きましょう!」
こんなところでもたついていてはいけない。今日はとことんもみじを撮ってやるのだから。勢いよく立ち上がると、教授がくすっと笑い声を漏らした。
「さっき『カメラマン』と呼ばれたから、気合いが入ってるんだろう」
「そ、そういうわけじゃないんですけど」
心の中を見透かされて、慌てて首を振った。教授はまだおかしそうに笑っている。心の中でほっと息を吐いた。よかった、いつも通りだ。何も気にすることなんてない。
本日2ヶ所目の紅葉なのに、新鮮な気持ちはいつまでも色褪せない。雲龍院には「蓮華の間」「大輪の間」「月窓の間」「悟りの間」などと名づけられた部屋があって、その名前すら美しいと感じてしまう。この場所だけじゃなくて、文学作品だったり、地名であったり、昔の人は本当に美しい言葉を使うなぁ、と、センスのないわたしは思うのだ。
――適切な、言葉を。
大輪の間で、肩を並べながら庭を眺めた。先ほどよりも言葉数が少ない、その横顔をちらりとのぞく。何を考えているのか。何を思っているのか。横顔からは何も読み取れない。だからわたしは何も言えずに、また、庭に視線を戻す。
――美しくなんてなくてもいいから、傷つけずに心に触れられる、そんな言葉を見つけたい。
何が知りたい、とか、はっきりとした目的があるわけじゃないけれど。どうしてこんなに気になるのか、自分自身でも分からないけれど。
「その悟りの窓には、春には紅梅、海棠、シャクナゲが咲くんだよ」
悟りの間に移動すると、教授は焦がれるようにそんな説明をしてくれた。その近くには五色にグラデーションしたもみじがあった。ここでも、カメラの設定に悩まされた。室内外の明暗の差、これは今後の課題だなぁ。せっかくカメラマンと呼ばれたからには、技術も向上させていかないと。いつになく悪戦苦闘しているわたしを、教授は隣であたたかく見守っていた。
雲龍院は落ち着く。人が少ないからかしら。光明院もそう。美しい光景をゆったりと眺めていると、時の流れを忘れてしまう。いつまでも、いつまでも、この穏やかな空間に身を沈めていたいと思ってしまう。時間には限りがあるというのに。太陽が沈まなければいいのに、なんて、子供のようなことを願ってしまう。
特に会話をしていたわけでもないのに、気づけばもう夕方。太陽が傾くと気温も下がって、少し肌寒い。一抹の名残惜しさを抱えながら、わたしたちは雲龍院をあとにした。
「今日は、ありがとうございました」
ついさっき歩いたばかりの道を、逆再生のようにたどっていく。駅が近づくにつれ人が増えて、ああ、もうちょっとでいつもの日々が戻ってしまう、と、何とも言えないさみしさが募った。体に染み込むような静寂が、人の話し声、それと車の走る音に変わって、教授の声も聞き取りづらい。
首にぶら下げたカメラを、感触を確かめるように触れてみた。今日は満足のいく写真が撮れたかしら。何か撮り忘れはないかしら。後悔は、ないかしら。そんな不安を吹き飛ばすように、わたしは自然とおしゃべりになる。
「紅葉って一言で言いますけど、見る場所によって全然印象が違いますね。本当に素敵な紅葉が見れました。人が少なくて、落ち着いていて……」
「……もしかして、これで終わりだと思っているのか?」
改札を通ろうとしたら、喧騒に紛れて、教授の低い声が耳に届いた。
「えっ?」
「まだ、見ていないものがあるだろう」
突如出された問題に戸惑って、電池が切れたように立ちどまる。教授は口の端を少し上げて、先に改札を通っていった。
見ていないものって何だろう。もう暗くなってしまうし、参拝時間だって終わってしまうし――
「……あっ!」
そうだ、参拝時間はもう終わる。だけどそれは、普段なら、だ。今は秋、紅葉真っ盛り。特別な季節には、特別なことがある。
わたしは慌てて改札を抜けた。どれだけ先を歩いていても、決して置いていかれることはない。今だってちょっと首を回して、わたしが追いつくのを待っている。
太陽が沈んだって、今日はまだまだ終わらない。今の時期にしか見られない「特別」が、わたしたちを待っている。
最後はやっぱり、あの景色を見なくては。
光明院にいる時は絵の具で塗り潰したように青一色だったのに、今は分厚い雲がぬぅっと現れて、まるで空を飛ぶ大きな龍のよう。
わたしは先ほど抱いた違和感を消し飛ばすように、次はどんな場所なんでしょう、とか、どこも紅葉真っ盛りですね、とか、小さな子供のようにしゃべり続けた。教授は教授で、紅葉は年によって色づき具合が違うから、とか、毎年どこに行こうかすごく悩むんだ、とか、他愛もないことを水の流れのようにさらさらと話して、そうしているうちに、歩調がどんどん速くなっていった。何か、隠しごとをしているような明るい笑みが、もみじよりもわたしの目を引いた。
もうお昼を過ぎていることに気がついて、次の場所に行く前に軽く昼食を取ることにした。一緒に京都を巡るようになってから、わたしたちは時折こうしてご飯をともにする。腹が減っては戦ができぬ、カメラマンには体力が必須。
「さっき亥の子餅を食べたばかりだろう。……その前に、光明院で茶菓子も」
「あれはデザートですから」
「ちなみに朝食は」
「もちろん食べてきました」
大盛りのラーメンをすするわたしを見て、間崎教授があきれを通り越して感心したように息を吐いた。出会った当初は恥じらいもあったけれど、もう何も気を遣うまい。
ゆるやかな坂を上っていくと、どんどん空が近くなる。手を伸ばしたら、あの龍のような雲に届いてしまいそう。先ほど食べたラーメンを消化しようと、勢いよく両足を動かした。一応、体重を気にしていないわけでもない。
坂を上ってたどり着いた場所は、泉涌寺の別院である雲龍院だった。竹情荘から考えると、大体15分くらいかしら。東福寺からそれほど離れていないのに、賑やかさよりも静けさが目立った。
「わたし、ここに来るのも初めてです!」
「だろうね」
興奮気味に叫んだら、隣で教授が苦笑した。自分で決めるとどうしても定番の場所を選びがちだけど、この人といるととっておきのスポットに来ることができるから、自分の知識が増えていくようで嬉しい。
ここ雲龍院は、皇室と密室な関係を持つお寺。後光厳天皇の思召しによって竹厳聖皐(ちくがんしょうこう)が開いたのが始まりで、その後も歴代天皇がたびたび行幸されているのだという。関係が深いのは皇室だけではなくて、忠臣蔵で有名な大石内蔵助の額や、サスペンスの女王・山村美紗のお墓もあるんだそう。それに加えて現存最古の写経道場だというから、見どころも魅力もてんこ盛り。
「琴子さん」
「蓮華の間」と呼ばれる部屋に入った時。教授がわたしの名前を呼び、手招きをした。
「ここに座ってみなさい」
言われた位置に座って、びっくりした。立っていたら気づかなかったけれど、この位置からだと、4つある障子窓それぞれから、椿・灯籠・楓・松がのぞいている。
「『しき紙の景色』というんだよ」
「すごくきれい! 絵みたいな光景ですね」
そうでしょう、と、教授が誇らしげに顔をほころばせた。もう何回も見たであろうその景色を、網膜に焼きつけるようにじっと眺める。初めて行く場所でも、何度も訪れた場所であっても、この人の姿勢は変わらない。
わたしは教授と同じようにしき紙の景色を眺めた。本当に、紅葉って場所によって見え方が全然違うんだなぁ、と感心する。
カメラを構えてシャッターを切る。1枚撮って、設定を調整して、もう1枚。隣に座っている教授が、ふしぎそうに首を傾げた。
「同じ構図なのに、どうしてそんなに何枚も撮るんだ」
「なんだか、調整が難しくて……。ほら、室内は暗いのに、窓から見える風景は結構明るいじゃないですか。露出を外に合わせると室内が真っ暗になってしまうし、室内をある程度見えるように設定すると、外の風景が白飛びしてしまうんです……」
「……やっぱり、カメラは面倒だな」
「教授って、意外と面倒くさがりですよね」
いやそうに顔をしかめる教授を見て、今度はわたしが苦笑した。そういえば恵文社で出会った時、設定を考えるのが面倒でカメラをやめた、って言っていたっけ。教授なら、一度覚えてしまえば何だってできそうなのに。
「お待たせしてすみません。次の部屋に行きましょう!」
こんなところでもたついていてはいけない。今日はとことんもみじを撮ってやるのだから。勢いよく立ち上がると、教授がくすっと笑い声を漏らした。
「さっき『カメラマン』と呼ばれたから、気合いが入ってるんだろう」
「そ、そういうわけじゃないんですけど」
心の中を見透かされて、慌てて首を振った。教授はまだおかしそうに笑っている。心の中でほっと息を吐いた。よかった、いつも通りだ。何も気にすることなんてない。
本日2ヶ所目の紅葉なのに、新鮮な気持ちはいつまでも色褪せない。雲龍院には「蓮華の間」「大輪の間」「月窓の間」「悟りの間」などと名づけられた部屋があって、その名前すら美しいと感じてしまう。この場所だけじゃなくて、文学作品だったり、地名であったり、昔の人は本当に美しい言葉を使うなぁ、と、センスのないわたしは思うのだ。
――適切な、言葉を。
大輪の間で、肩を並べながら庭を眺めた。先ほどよりも言葉数が少ない、その横顔をちらりとのぞく。何を考えているのか。何を思っているのか。横顔からは何も読み取れない。だからわたしは何も言えずに、また、庭に視線を戻す。
――美しくなんてなくてもいいから、傷つけずに心に触れられる、そんな言葉を見つけたい。
何が知りたい、とか、はっきりとした目的があるわけじゃないけれど。どうしてこんなに気になるのか、自分自身でも分からないけれど。
「その悟りの窓には、春には紅梅、海棠、シャクナゲが咲くんだよ」
悟りの間に移動すると、教授は焦がれるようにそんな説明をしてくれた。その近くには五色にグラデーションしたもみじがあった。ここでも、カメラの設定に悩まされた。室内外の明暗の差、これは今後の課題だなぁ。せっかくカメラマンと呼ばれたからには、技術も向上させていかないと。いつになく悪戦苦闘しているわたしを、教授は隣であたたかく見守っていた。
雲龍院は落ち着く。人が少ないからかしら。光明院もそう。美しい光景をゆったりと眺めていると、時の流れを忘れてしまう。いつまでも、いつまでも、この穏やかな空間に身を沈めていたいと思ってしまう。時間には限りがあるというのに。太陽が沈まなければいいのに、なんて、子供のようなことを願ってしまう。
特に会話をしていたわけでもないのに、気づけばもう夕方。太陽が傾くと気温も下がって、少し肌寒い。一抹の名残惜しさを抱えながら、わたしたちは雲龍院をあとにした。
「今日は、ありがとうございました」
ついさっき歩いたばかりの道を、逆再生のようにたどっていく。駅が近づくにつれ人が増えて、ああ、もうちょっとでいつもの日々が戻ってしまう、と、何とも言えないさみしさが募った。体に染み込むような静寂が、人の話し声、それと車の走る音に変わって、教授の声も聞き取りづらい。
首にぶら下げたカメラを、感触を確かめるように触れてみた。今日は満足のいく写真が撮れたかしら。何か撮り忘れはないかしら。後悔は、ないかしら。そんな不安を吹き飛ばすように、わたしは自然とおしゃべりになる。
「紅葉って一言で言いますけど、見る場所によって全然印象が違いますね。本当に素敵な紅葉が見れました。人が少なくて、落ち着いていて……」
「……もしかして、これで終わりだと思っているのか?」
改札を通ろうとしたら、喧騒に紛れて、教授の低い声が耳に届いた。
「えっ?」
「まだ、見ていないものがあるだろう」
突如出された問題に戸惑って、電池が切れたように立ちどまる。教授は口の端を少し上げて、先に改札を通っていった。
見ていないものって何だろう。もう暗くなってしまうし、参拝時間だって終わってしまうし――
「……あっ!」
そうだ、参拝時間はもう終わる。だけどそれは、普段なら、だ。今は秋、紅葉真っ盛り。特別な季節には、特別なことがある。
わたしは慌てて改札を抜けた。どれだけ先を歩いていても、決して置いていかれることはない。今だってちょっと首を回して、わたしが追いつくのを待っている。
太陽が沈んだって、今日はまだまだ終わらない。今の時期にしか見られない「特別」が、わたしたちを待っている。
最後はやっぱり、あの景色を見なくては。