少し寄りたいところがあるんだ、と教授が言うので、わたしはおとなしく、眠たげに揺れるその背中についていった。

光明院から徒歩1分。寒さに身を縮める暇もなくたどり着いたのは、秋の賑わいの中にひっそりと佇む、隠れ家のような建物だった。一見、純和風の家なのに、ステンドグラスの窓はどこか西洋的で、もう100年以上前からそこにあるような、それでいて真新しいような、過去と現在の狭間に建っているような感じがした。玄関先にあるもみじが、灯火のようにぽっと色を添え、歓迎するように震えている。

門の外に置かれている「営業中」の立て看板と、その横に掲げられた甘味のメニューを見て、ああ、ここは喫茶店なんだ、と理解した。

「甘味なら、今食べたばかりじゃないですか」

もみじ狩りと意気込んできたのに、1ヶ所行っただけで休憩とは、少々早すぎるんじゃないかしら。写真だってまだ、100枚も撮っていないのに。

教授は聞こえていないふりをして、敷地内に足を踏み入れた。こうなるともうわたしは、ついていく以外に選択肢はない。撮影意欲をくすぶらせながら玄関へ向かっていくと、窓のすぐ横に立っている竹に、「竹情荘」という丸い看板がつけられていることに気がついた。

玄関に立ち入ると、「鳴らして下さい」という文字とともに、小さな銀色の呼び鈴が置かれていた。寒さでかじかんでいるであろう手をポケットから出して、教授がリン、と呼び鈴を押す。高らかな音が建物の中に吸い込まれ、消えていく。

奥の襖が開いて、濃藍色の作務衣を着た男性が姿を現した。教授の姿を認識して、ああ、と顔がほころぶ。

「驚いた。間崎教授ではないですか」

「お久しぶりです、ご主人」

わたしに向けるものとは明らかに異なる、敬意と尊重を十二分に含んだ声に、むっと目の端がつり上がる。それと同時に、警戒を解いた飾り気のないまっさらな教授の表情を見て、長年親しんだ間柄なのだとすぐに分かった。

なるべく小さく身を縮め、教授の真似をするように、靴をきちんと揃えて中へと上がる。どうぞ、と案内された和室に入ると、大きな窓いっぱいに庭が広がって、まるで絵画のようだった。他に客の姿はなくひっそりとしている。天井から吊るされた明かりが、淡く黄色く部屋全体を照らしていた。

「ここは竹情荘。日本画家である平井楳仙さんの家で、ご主人はそのお孫さんなんだ」

首に巻いたマフラーをほどき、重たげな素材のコートを脱ぐと、深草色のニットがあらわになった。あら、こんな服装をしていたのね、と、どうでもいいことに気がついて、いつもながらこの人おしゃれだわ、なんてこっそり思う。そのたびにわたしは、防寒に特化した自分の服装を、ちょっとだけ恥じるのである。

「お知り合い、なんですか?」

教授が口を開こうとしたその時、ちょうどご主人がわたしたちのところへ水を運んできた。わたしの疑問が聞こえていたらしく、「そうなんですよ」とうなずいた。

「ここは茶道や書道などの教室も開いていましてね。間崎教授は何度か茶道教室に来てくれたんですよ」

「あまり上達はしませんでしたけどね」

「いやいや、そんなことありません。教授は佇まいだけでも絵になるから、教室の女性たちに大人気でしたよ。今でも『教授は今度いつ来はるん?』と聞かれることが多くて……おっと」

ご主人が、しまった、というように口に手をあてる。なぜか申し訳なさそうにわたしを見て、ごまかすように笑った。

「すみません。こんな話、恋人の前でするものではなかったですね」

「恋人?」

わたしと教授の声がシンクロした。理解の早い教授が、堪え切れなかったようにぷっ、と吹き出す。顔を背けて、手で口を押さえているその反応を見た瞬間、かぁーっと頬が熱くなった。

「ちっ、違います! わたし、教授の大学の学生なんです」

「ああ、そうでしたか。なんや、お似合いやなと思って……確かに少々年が離れている……」

「ご主人、こちらは御坂琴子さん。ご覧のようにちんちくりんですが、カメラの腕は一流なんです。先ほども光明院で紅葉を撮ってきたところでしてね」

「ほう、カメラマンさんですか」

ご主人はテーブルの上に置いたカメラを興味深そうに見つめた。「カメラマン」と呼ばれたわたしはなんだか照れくさくなって、きゅうっと身を縮めた。

教授にはたまたま知られてしまったのだけれど、実はわたしは、家族以外の人にあまり自分の趣味を打ち明けてこなかったのだ。周囲に同じ趣味の友人がいたわけでもないし、たとえ親しい人でもきっと完全に理解はしてくれないわ、と、一歩引いたところから自分を見つめる自分がいた。それになにより、自分の写真を見せた時に、大したことがないと評価されるのがおそろしかったのだ、たぶん。

「さて、ご注文はどうしましょう? 今の時期なら、亥の子餅もありますよ」

「亥の子餅?」

聞き慣れない単語に首を傾げると、教授が、教鞭を取るかのように丁寧に教えてくれた。

「旧暦の10月にあたる、11月最初の亥の日に食べる餅のことだよ。無病息災、子孫繁栄を願う縁起物で、この時期には和菓子屋などで売られているんだ」

「へ、へぇ……」

わたしの顔が引きつったのは、「そんなことも知らないのか」という幻聴が聞こえたような気がしたからだ。無知な子供をあやすように目を細める、その優しい眼差しが逆におそろしい。こういう時は、あとでけちょんけちょんにけなされるに決まっている。

「その亥の子餅、ぜひ食べてみたいです。あっ、でもこのメニューにある抹茶バァムもおいしそう。それに、このアイスも……」

「……私のを分けてあげますから、そんなにがめつくなるのはやめなさい」

目移りをするわたしを見て、教授はあきれたように肩をすくめた。





大きな窓から差し込む太陽光がゆっくりと移動し、教授の姿を白く照らしていった。ここにいると時の流れがどんどんゆるまって、自分という存在が空気の中に溶け込んでいくような気がした。名も知れぬ絵画に描かれている風景の一部になってしまったような、そんな気分。

「……『竹情荘』という名前の由来を、昔、聞いたことがあって」

自我が薄まることを、同じようにおそれたのかしら。教授の低い声が、空気を静かに震わせた。

「竹はまっすぐしなやかに育つ強さも持っているが、同時に、風に揺られる弱さも持っている。その双方を持ち合わせた柔軟さを好み、命名したそうだ」

わたしはうなずくことも、応えることもしなかった。庭の木々が見せつけるように葉を揺らすのを、観客になった気分でぼんやりと眺めた。竹で作られた餌入れのそばに、どこからか小鳥がやってきて、二、三度周囲を見渡してから、小さなくちばしでちゅんちゅんと餌をつついた。

教授が茶道を習っていたなんて、知らなかったなぁ。先ほどの会話を、脳内で繰り返し再生してみた。別に、意外でも何でもないことなのだけれど、そういう話を今までしてこなかったな、とふと気づいた。いつだってわたしたちの話題はもっぱら京都や写真に関することで、習いごととか友人の話とか、そういう何でもない日常会話を、まったくと言っていいほど交わしたことがなかった。

何か話題を振ろうと考えたけれど、なぜだかさっぱり思いつかない。正面を向くと、白い光の中に教授の艶やかな髪が溶け込んでいくようで、急に言い知れぬ不安が押し寄せてきた。こうして向かい合わせに座っていていいのかしら、と、通り雨のように度々襲う幼稚な考えをまた抱いた。わたしは幼い頃から代わり映えのない、透明な爪を持つ指で、毛先をくるくるといじった。

ご主人が、注文の品を盆に乗せて運んできた。和ハーブと亥の子餅、それに抹茶と抹茶バァム。建物と同じように和洋が入り混じった甘味が、テーブルの上に置かれていく。

抹茶の入った器を見て、あら、と、気がついた。壁にかけられている掛け軸をちらりと見る。

「この器、もしかして掛け軸と同じものですか?」

「そうです。普段は使っていないんですが、せっかくいらっしゃったので、奥から出してきたんですよ」

「わぁ、ありがとうございます。素敵です」

ありがたく抹茶をいただこうと手を伸ばす。と、教授が流れるような所作で抹茶の器を自分の方に引き寄せた。

「……教授、何してるんですか」

「そちらの和ハーブは美容にもいいから、琴子さんに」

「この器を使いたいだけでしょ!」

「すみません、一つしかなくて」

ふたりでぐいぐい器を取り合っていると、ご主人が、頭を掻きながら苦笑いした。普段はずいぶん老成しているのに、こういう時だけ子供のような行動を取るのだ、この教授は。それを知っているだけでもきっと、わたしにとっては優越性の証明となるのだろう。

「今日はめずらしく空いていますし、時間の許す限りゆっくりしていってください。よろしければ、そのカメラで竹情荘も撮っていってくださいね」

「えっ、そんな、いいんですか」

「間崎教授の教え子さんなら。またあとで、別の部屋もご案内しますよ」

この雰囲気を写真におさめられるなんて、想像しただけで気分が高揚する。テーブルの上に置いたカメラも、心なしか浮かれているように黒色を光らせている。ご主人の配慮に感謝しなければ。

竹情荘を案内してもらいながら、わたしたちはいろいろな話をした。竹情荘には世界中からさまざまな人がやってくること。時折、ここで生まれた雉鳩が巣に戻るように帰ってくること。偶然は奇妙な形で交わって、時に思いがけない縁を生む。それにはきっと、今日の出会いも含まれているのだろう。





「ありがとうございました。いろいろ案内していただいて……」

竹情荘を一通り写真におさめたあと、わたしたちは、別れの準備をするため玄関へと下りた。外へ出ると、忘れていた寒さがびゅうっと全身を襲って、子供のはしゃぎ声のように、もみじがかさかさと音を立てた。

「またいつでも来てください。今日撮っていただいた写真、楽しみにしていますよ」

「……はい!」

わたしは真綿に包まれたようなこそばゆい気持ちになって、喜びを口から出さぬよう、唇をきゅっと噛み締めた。頭を下げると、油断したのか、ぽろっと花びらが落ちるように嬉しさがこぼれた。

では、と、きびすを返し、わたしたちは竹情荘から離れようとした。ご主人が忘れ物をしたように、教授、と名を呼んだ。

「初めて来た頃より、いい顔になりましたね」

隣にいる教授の顔から、すぅーっと、色が消えていった。

余裕を表すように微笑んだり、むっと機嫌を損ねたり。そういういつもの顔とは違う。ふいをつかれたようなその瞳には、何かに怯えるような、おそれるような、そんな弱さが映っていた。

――わたしの胸の奥底がぶるりと震えた。きらきらと輝く舞台女優の、掃除や洗濯に追われている平凡な日常を垣間見てしまったような、さみしい悪寒に襲われた。

「もう、『どうにもならないこと』は解決しましたか」

「……小さなカメラマンのおかげです」

教授はまた、すぐに頑丈な仮面を被り直し、上質な絹のような笑みを口元に添えた。小さく一礼をして、とめていた足を再び動かす。

何かを守るようにマフラーをきつく巻き直し、両手をまたすっぽりとポケットの中へおさめた。

「教授、教授。次はどこへ行きますか? わたし、早く紅葉を撮りたいです」

わたしははしゃぐようにわざと高い声を出した。見てはいけないものを見てしまったような後ろめたさが、影のようにのっそりと、わたしの後ろについてくる。教授はああ、次は……と、幽霊のような声を出し、それから思い直したように、

「いや、教えるのはやめておこう」

「どうして?」

「その方が、わくわくするでしょう」

眼鏡の隙間から見える瞳が、茶目っ気たっぷりに笑った。

「今日はまだまだ、先が長いからね。期待しているよ、『カメラマン』さん」

小鞠が跳ねるように心が弾ける。わたしはまたむずがゆくなって、さっさと先に進んでいくその後ろ姿を小走りで追いかけた。





――一瞬。

ほんの、一瞬だけ。

幾重にも重なった頑丈な仮面が、糸がほつれるように剥がれた、その瞬間。

もしかして、隣にいるこの人は、わたしが思っているよりずっと脆い人なんじゃないかしら。そんなありもしない考えが、風のように脳をすり抜けた。