秋が深まった11月某日、午前8時。京阪出町柳駅の改札前で、わたしはそわそわしながらとある人物を待っていた。

11月の京都といえば紅葉。普段は強引に間崎教授から呼び出されることが多いのだけれど、今回ばかりはお互い利害が一致し、どちらから誘うわけでもなく、もみじ狩りに行くことを約束していたのだ。

本日は快晴。昨夜まで降り続いた雨の影響もなく、空は透けるように美しい秋晴れだ。赤いニット帽をすっぽりと被り、首には白のマフラー。防寒性ばっちりのコートに動きやすい運動靴、重たい機材の入ったリュックと、ありとあらゆる準備は万全である。

地上に続く階段の上から、見知った人物が降りてきた。普段より少し跳ねた髪に、知的な眼鏡。ネイビーのシックなコートが腹立つくらい似合っている。ポケットに手を突っ込みながら、いかにも寒そうに歩いてくるのは、他でもないわたしの同行人、間崎教授その人だ。

「おはようございます、教授。絶好のもみじ狩り日和ですね!」

「……朝から元気だな、君は」

からっからに乾いた喉から、蚊の鳴くような声が聞こえてきた。前から薄々思っていたのだけれど、この人、意外と朝が弱い。

「だって、教授がおっしゃったんですよ。『紅葉を見ずして京都の秋は語れぬ』って。わたし、ものすごく気合いを入れてきたんですから。案内、よろしくお願いします!」

「それは分かっている。分かっているから……」

あくびを噛み殺しながら、もごもごと何かを言っている。大学の学生たちに今の姿を見せてやりたい。かっこいいとか知的だとかもてはやされているけれど、気が抜けていると本当に普通の人だ。

しっかりしてください、と背中を押して、わたしたちは出町柳駅の改札をすり抜けた。





電車に揺られること約15分。東福寺駅に降り立ったわたしは、そこに広がる光景を見て愕然とした。

「な、何ですかこの人は」

駅のホームにも改札の外にも、視界を埋め尽くさんばかりの人、人、人。ぞろぞろと列をなして向かう先は、言わずもがな東福寺である。隣で教授が顔をしかめるのが分かった。この人、朝だけではなく人混みもとんでもなく苦手なのだ。それでもなんとか気持ちを奮い立たせ、臥雲橋(がうんきょう)までやってきたのだけれど。

「ますます混んでいますね……」

「君でも知っているくらいの知名度だからな」

「だ、だって、テレビでたまたまやっていて、行きたくなったんですもん……」

言っていて、自分のミーハーぶりが恥ずかしくなった。よく考えたら、せっかく教授と一緒にいるのだから、すべてこの人に任せればよかったんだ。早起きも人混みも苦手なのに、幾度となく来たであろう東福寺に付き合ってくれたことに感謝しなければいけない。

せめてきれいな写真を、と思ったけれど、この人混みではカメラを構えることすらできやしない。ぎゅうぎゅう詰めになりながらよろよろと歩いていたら、どんどん息苦しくなってきた。気づくと、先ほどまで隣を歩いていたはずの教授の姿がない。慌ててあたりを見渡してみると、いつの間に離れてしまったのだろう、その姿ははるか前方にあった。

「きょ、教授……」

なんとか追いつこうともがいてみるけれど、教授の背中は小さくなるばかりだ。網に捕まった大量の魚の1匹になってしまったみたい。人に挟まれてじたばたしていると、臥雲橋を渡り終えたところで、教授がわたしの右腕をつかんで人混みから引っ張り出してくれた。

「大丈夫か」

「だ、大丈夫じゃないです。もうぼろぼろです」

ずれたニット帽を直しながら、乱れた呼吸を整えた。教授はというと、あんなに人に揉まれていたというのに、髪の毛1本すら乱れていない。

「東福寺の紅葉はきれいだが、最近人が多すぎて撮影禁止になったりもしているから……」

「で、でもわたし、今日は絶対きれいなもみじを撮ろうと思って来たんです。ただもみじを見にきたわけじゃありません! わたし、昨日は夜9時に寝たんですよ。見たいドラマがあったのに、9時に寝てしまったんです」

人混みに酔ったのか、自分でも何を言っているのかよく分からなくなってきた。教授は困ったように肩をすくめた。自分で来たいと言ったくせに駄々をこねるなんて、小学生みたいだと思われただろう。教授いわく、東福寺は秋が有名だけれど、青もみじの時期も最高に美しいんだとか。ほら、永観堂も青もみじが素敵だっただろう、と、諭すように言う教授の瞳は、まだ若干眠たげだ。

よくよく考えたら、本日は連休初日、そして紅葉真っ盛り。混雑するのも当然だ。気合いを入れてきたはいいものの、すっかり人混みに酔ってしまった。少し落ち着いた場所に行きたいわ、というわたしのわがままにより、急遽向かったのは、東福寺の勅使門を過ぎたところにある場所だった。

入り口の前にあるもみじが、めらめらと燃えるように紅葉している。東福寺のすぐそばということが信じられないくらい人の気配がなく、代わりに、風がもみじを撫ぜる音や、伸びやかな小鳥のさえずりが、わたしの鼓膜を震わせた。

「ここは?」

「東福寺の塔頭、光明院」

マフラーに顔を埋めながら、教授がぼそっとつぶやいた。東福寺で折り返す人が多いから、とつけ足して、先に石段を上がっていく。もみじの赤色に目を奪われながらも、置いていかれまいとあとを追った。

中へ入っても、そのひそやかな雰囲気は変わらない。畳の上を歩くわたしと教授の足音、それと先に入っていた参拝者の、ないしょ話をしているかのようなささやき声。方丈に入って広がった光景に、体の内側から喜びと興奮、あと、なぜかしら。愛しさのようなものが、混じり合って溢れ出した。

もみじ、だけではないの。それだけではなく、お庭がとても美しかったから。

波紋のような白砂、それに深緑の苔。その上には大小たくさんの石が配置されていた。後方にあるツツジも、きっと春になったら美しいのでしょう。花は咲いていなくても、そう予感させる何かがそこにはある。もみじの赤色と深緑が、長年連れ添った夫婦のようにしっくり寄り添い、そして、混じり合っていた。

「美しいだろう。『波心の庭』というんだよ」

わたしの心を見透かしたように、隣で教授が微笑んだ。

「『雲ハ嶺上ニ生ズルコトナク、月ハ波心ニ落ツルコト有リ』という禅の言葉に由来しているんだ。背後のサツキやツツジの刈り込みが、雲紋を表しているのが分かるかい。その上にあるのは、茶亭『蘿月庵(らげつあん)』。蘿月庵は窓、壁、障子を含めて月を象徴していて、東の空に月が昇る姿を楽しむというしかけになっているんだ」

ようやく頭が冴えてきたらしく、いつものように饒舌をふるい始めた。教授の解説が聞こえたのか、近くにいた若い男女が、「へぇー」と、感心したようにうなずいている。これじゃあ講義とまったく変わらないじゃない、と、なんだかおかしくなって笑ってしまった。

受付で購入したお茶菓子券を係の人に渡してから、腰を下ろして庭を眺めた。夏の強い日差しとはまた違う、秋のあたたかな光。その光がきらきらと景色を輝かせて、まるでわたしの網膜が輝いているみたい。それに、この静けさ。人混みの中をすり抜けてきたはずなのに、光明院に来た途端、現世から隔離されたような静寂の海に浸かってしまった。

「今まで何気なく見ていましたけど、お庭って細部まで考えられているんですね。それに、苔がとてもきれい……」

「光明院は『苔の虹寺』とも称されているんだよ。どんな場所でも、華やかなものばかりに目を向けていたら、気づかない美しさがある」

「わたし、光明院のこと全然知りませんでした。やっぱり、テレビや本で特集される東福寺や嵐山が目に留まってしまって……」

「もちろん、そこがすばらしいから大々的に特集されるんだろう。だけど、知名度と混雑は比例するからね。こればかりはどうしようもない」

こういう静かな場所がすきだな、と思った。有名な場所にももちろん行ってみたいけれど、どうせなら人が少ない時がいい。それに、観光客の波に押されて撮影禁止の場所が増えるのは悲しい。もみじだけではなく、庭の美しさや歴史の深さを感じながら、ゆっくりと写真を撮れたらいい。

ふと隣を見ると、またまた教授が眠そうに目を細めていた。講義中はこんな気の抜けた顔、見せないくせに。もしかして、今日が楽しみで昨日はよく寝つけなかった、とか。そう予想してすぐに首を振った。そんな子供みたいなこと、あるわけないか。

そんなことを考えていたら、抹茶とお茶菓子が運ばれてきた。

「ほら、甘味が来ましたよ」

肩を揺すると、教授はゆっくりと目蓋を開いた。

「……先ほどの人混みにやられた」

「まだまだ先は長いんですから、しっかりしてください」

いつになく弱々しい教授の姿に、わたしはやれやれと息を吐いた。うつらうつらとしながらも、おいしそうにお茶菓子をいただいているその姿は、まるで子供のよう。もしかして、先ほどの予想も、あながち間違いではないのかも。

抹茶の渋い味が口内に広がる。美しい庭園を眺めながら、抹茶とお茶菓子をいただく、なんて。忙しなくもみじを眺めるより、何倍も贅沢な時間を過ごしているわ。

苔の虹寺、光明院。波心の庭に昇る月を見上げ、わたしはそっと微笑んだ。紅葉の旅は、まだまだ始まったばかり。